サニヤスとは その2

そして、彼はサニヤスの意味について次のように語る。

「自己を知らない立場から生を見ることがサンサーラ、世間だ。自己を知っている立場から生を見ることがサニヤスだ。

だから、誰かが私に、自分はサニヤスを取ったと言うたびに、私には、そのすべてがまったくの偽物のように見える。このサニヤスを『取る』は、世間に対抗する 行為だという印象を生みだす。

サニヤスは取ることのできるものなのか? 知ることを『取った』と言い得るのか? 

そして、そのようにして取られた知が、本当の知になり得るのか? 

取られたサニヤスは、サニヤスではない。真理を外套のように身にまとうことはできない。真理はあなたの内で目覚めるべきものだ。

サニヤスは生まれでる。それは理解を通して訪れ、そしてその理解のなかで私たちは変容されつづける。

私たちの理解が変化するにつれて、何の努力もなく私たちの視点が変わり、そして振るまいも変容される。

世間はそのままそこに あるが、サニヤスは徐々に私たちの内側で生まれ始める。サニヤスとは、『私は身体であるだけではなく、魂でもある』という認識だ。

これを知ることよって、 私たちの内にある無知と執着が落ちていく。世間は外にあり、そして、それは依然としてそこにあり続けるだろう。

しかし、私たちの内では、それに対する執着 が消える。別の言葉でいうなら、そこに世間はない、私たちの内にサンサーラはない」

OSHO, The Perfect Way, Number 3

ちなみに、私のサニヤス名は、Awami Antar Gatasansa という、サンスクリットの名前がついている。

Swami(スワミ)というのは、インドでは普通に用いられている言葉で、英語であればMr.(ミスター)というような敬称として用いられているが、意味は「主人」「マスター」という意味で、自分自身の主人であるという意味。

禅の公案集、無門関にある禅の話で、瑞巌和尚という方は、毎日自分自身に向かって「主人公」と呼びかけ、また自分で「ハイ」と返事をしていた、という話があるが、その「主人公」というのに近いのかもしれない。

Antar = Inner (内なる)

Gatasansa = Free from Attachment (執着からの自由) 

という意味が書いてあったが、ガタサンサの「サンサ」というのはサンサーラという意味で、「Gata」というのは般若心経の最後のマントラ、ガーテーガーテーパラサンガーテーという言葉にあるのと同じで、ガーテーというのは「彼岸に行く」という意味で、「この世のサンサーラの輪廻を離れて、彼岸に行く」という意味に近い。

OSHOがここでサニヤスの意味で語っている意味、まさに私の名前の由来そのものでもある。

それはともかく、OSHOがサニヤスで意味していることは、ただひとつのことだけでしかない。

それは、「瞑想する」ということ。

「私は、私のサニヤシンたちに生を余すところなく生きてほしい。だが、そこには絶対的な条件、断固とした条件がある。

その条件とは気づき、瞑想だ。

まず最初に 深く瞑想のなかに入りなさい。そうすればすべての有毒な種子であるあなたの無意識を浄化することができる。

そこに何も腐敗するものがなくなり、あなた内側 にあなたを牛耳るものがひとつもなくなる。

そうなったら、何であれ、あなたがしたいと感じることをやりなさい」

OSHO, The Dhammapada: The Way of the Buddha, Vol. 6. Number 40

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