自分の愛の育て方

自分の愛をどのようにして育てるのか?

今回のOshoの講話では、その愛の根本問題について語っています。

しかし彼は、非常に逆説的な語り方をしています。
それは、私たちが非常に逆説的なことを教えられてきて育ってきたからで、そのことを認めるのは、これまでの固定観念にとらわれて聞いていると難しいかもしれません。

「セルフィッシュ」という言葉を聞くと、自分本位、利己的、わがままという意味を連想して、なんだかそれは悪いことのように思ってしまいます。

ところがOshoは言い放ちます。

「私があなたに教えているのは
 自己中心であること(セルフィッシュ)だ」

セルフィッシュネス(自己中心)であることは、世間では非難の目で見られることが多いです。

とりわけ日本では、自分が犠牲になってでも他の人を思いやり、他の人に尽くすことが美徳とされてきていましたので、こういうOshoの言葉を聞くと反発してしまいそうです。

でも、それは日本に限らず、キリスト教の人たちも同じです。

聖書にもあるように、片一方の頬をぶたれれば、もう片一方の頬も差し出すのが愛だと教えれてきているので、このようなことを言い出すと、袋たたきにあってしまいそうです。

しかしOshoの言葉は愛について、さらに深い側面を浮きぼりにしてくれます。

このような逆説的な言葉を言いながら、その深い真理を明らかにしていくという話し方をOshoは往々にしてとりますが、Oshoの話を聞いているうちに、それは私たちの社会が逆なことを教えてきていたからなのかもしれない、ということに気づかされます。

「そもそも自分を愛することができない者が、どうして他の人を愛することができるのか?」

「本当の愛について知らずに人を愛することはできるのか?」

どうして関係性において、愛し合っているはずなの恋人や夫婦が、そして家族が、いつのまにか惨めさ、苦しみ、憎しみに陥り、怒りくるって暴力的になってしまったりするようなことが起こるのか?

今回のOshoの講話では、愛についての根っこの問題について語っています。

自己中心であるということはつまり
自分自身であるということだ

私が言いたいことは
世界の他の誰のことも考えてはいけない
自分のことだけ考えなさい
そして自分のことを考えることで
あなたは世界中のことを考えることになる

自己中心であれば
あなたは利他主義を見いだすことになる

それはあなたがずっと探し続けて
見つけられなかったものだ

なぜなら全てが逆さまだからだ
あなたは隣人を愛するようにと言われる
しかしあなたは自分自身を愛したことがない
自分を愛したことのない人間が
どうして隣人を愛せるかね?

いったいどこから
愛を手に入れようというのだ?
まず最初に自分がそれを持っていなければならない

あなたは隣人を愛している
あなたは愛について知らない
なぜならあなたは自分自身さえ愛したことがないからだ
隣人はあなたを愛している
彼は自分自身を愛したことがない

そのような馬鹿げたことが 世界中で起きている
人々は愛について何も知らずに愛し合っている
それは乞食のようなものだ
お互いに物乞いしあっている」

では、あなたがほんとうの意味で自己中心的になったとき、何が起こるのでしょうか?

後半部分では、Oshoは、その自分の内側の宝である愛、自由、歓びを見いだす方法、そしてそれらの自分の宝を育てる方法について語っています。

それでは、自分の愛の育て方について、Oshoのお話をお楽しみください。

今回、珍しくOshoは眼鏡をかけて登場。

日本語の字幕付きです。字幕が表示されない時には、画面の右下の「字幕」表示のためのアイコンをクリックして日本語表示を選択してください。

今日はここまでとします。

えたに