神は存在するか?

「神が存在するかどうか?」ということはキリスト教にとっては根本問題です。

しかし仏陀はもともと神については話しませんでした。
神が存在するかどうかについては最初から問題にしませんでした。

では、Oshoは神については、どのような見解、立場を取っていたのでしょうか?

ここでひとつ注意しておきたいのは、私がこれまで彼の言ってきていることを聞いてきた経験から見る限り、Oshoはひとつのことについて、何ひとつ固定した見解を取っていないということです。

というのは、たいていのことについては、どこかで真逆の見解を述べているからです。

仏陀は対機説法で、人に応じて法を説いたとされますが、Oshoもそうでした。

またOshoは学生時代ディベートのチャンピオンであったということも覚えておくといいかもしれません。

論理を駆使してものごとを話すことは、彼にとっては朝飯前のように思えます。

しかしOshoの場合は、単にそれだけではなく、論理を超越したところからものごとを伝えています。

もうひとつのOshoの強みは、それが彼の経験から話されているということです。

推理推論の問題でもないわけです。

ですから、それは信じるか信じないかの問題ではなく、それはOshoにとっては「知っていること」として話されるので、あれほどまでに説得力をもつのです。

覚者というのは、すでにそういうことについても見えている人、「知っている」ので覚者と言われるのでしょう。

私の家庭はキリスト教ではなかったのですが、子供時代に、よく母親から「そんなことを言うと神様から罰を与えられますよ」と言われ育ってきていたので(それだけ親の言うことを聞かなかったので、親の権威では足りず、神を持ち出したのかもしれません)、どこかで、そんなことを言うと神様から罰が下るんじゃないかと内心ヒヤヒヤすることがあります。
三つ子の魂って恐ろしいなって思います。

キリスト教徒ではない私でさえ、そう思うのだから、キリスト教で育った家庭の子供ならどう思うんだろう? と思います。

この講話は、Oshoがアメリカのコミューンに滞在しているときに話されています。

そのときのアメリカの大統領はレーガンです。

キリスト教を信じる国において、このような話を毎日していれば、追放されても仕方がないかもしれません。

とはいえ、そのような言論の自由がみとめられなければ、言論の自由が憲法で認めらている国とはいえませんが、Oshoの影響力はアメリカでも無視できない存在になってきていたのでしょう。

ダーウィンがキリスト教から危険視されたように。

今回のOshoへの質問はこうです。

「Oshoあなたは本当に神が存在しないと信じますか?」

これについてのOshoの答えは、直接お聞きください。

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今日はここまでとします。

えたに