内面的成長の障害

あなたは内面的に成長をしたいでしょうか?

もし、内面的な成長をしたいと思っているなら、どうすれば内面的な成長ができるかを知る必要がありますし、同時にその内面的な成長の障害となっているのは何かを知る必要があります。

今回は、その内面的な成長の障害となっているのは何か、ということについてのお話です。

実は、この内面的な成長は、その障害となっているものを取り除けば自動的に起こることなので、実際はひとつのことです。

それが今回シリーズで案内している本、「あなたが死ぬまでは」でテーマになっていることでもあります。

「あなたが死ぬまでは」ということの意味は、次のスーフィーの言葉にもとづいています。

「• • • • • • 贈りものはこの「死」のあとに来る。それ以前ではない。そしてこの死さえも、助けがあってはじめて可能になる」

その贈りものは「あなた」が死ななければ手にすることができないというのです。

その贈りものは、すでに用意されていて、すでに包装されて、あなたの名前も書かれているのに、あなたの方で受け取る準備がないので受け取れないというのです。

その贈りものというのは、あなたが心の底から求めているもの、イエスが「あふれるゆたかな生命」と呼んだもの、あなた自身の存在のもっとも奥底の核心にある、不死なるものです。

その贈りものを受け取るものを妨げ、内面的な成長を妨げているもの、それが「あなた」だというのです。

その「あなた」とは誰でしょう?

それが「エゴ」だとOSHOは語ります。

でも、そのエゴは落とそうと思っても、エゴを落とすはできません。
なぜなら、エゴを落とそうとするのも、また別のエゴだからです。

では、そのエゴをなくすには、どのようにすれば良いのでしょうか?

それはエゴを「理解」することによってです。

今回の「あなたが死ぬまでは」の第九章で紹介されているスーフィーの物語は、そのエゴを落とすことの理解を端的に助けてくれる物語です。

しかし、その物語の意味は、OSHOの解説があってはじめてその深い意味が解き明かされていくものです。

OSHOが解き明かす前置きの前提知識があって、はじめてそのスーフィーの物語の意味するところが理解できるようになります。

OSHOは語ります。

  私はあなたがたの内部を見る──
  が あなたがた自身以外 
  ほかにどんな障害も見えたことはない
  あなたがたは自分の行くてに立ちふさがっている
  このことを理解しないかぎり
  内面的な成長にむかってできることは何ひとつない

  もし誰かが障害になっているのなら
  身をかわしてよけることもできる
  迂回することもできる
  だが あなた自身が障害なのだ

  身をかわしてよけることはできまい
  誰が誰をよけるのだね?
  迂回して通り過ぎることもできまい
  誰が誰を迂回するのだね?

  逃げることはできない
  あなたがどこへ逃げようとしても
  「あなた」はついてまわる

  あなたがの障害になっているのはあなたがた自身
  それは あなたがたに影のようにつきまとう

  このことをできる限り深く理解しなければならない
  どうしてこの障害が生じるのか?

  この障害になっているエゴのメカニズムは
  どうなっているのか?
  あなたがたの被(かぶ)っている硬い甲羅
  それがあったら大空に向かって飛べはしない
  愛と祈りの世界の中に
  自分をひらいていけはしない
  このエゴの殻
  それはどのようにして生まれたのだろう?

  もしエゴの誕生を理解できたら
  それをどう溶解するか
  その秘密を知ることができる
  エゴの発生を理解すること
  そのこと自体が<自由>になることだ

    「あなたが死ぬまでは」
     第九章 あなた自身が邪魔

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エゴの構造を理解することは、心理学等で学ぶことでもありますが、それらはエゴの表層についての理解を与えてくれますが、その本当に深い次元からの構造を明らかにはしてくれません。

そして、それらの心理学の目的は、病的な心理の理解をすることが目的で発達したもので、日常的なエゴを維持することのためのエゴの理解です。

つまり、心理学ではエゴをいかに強め、教育し、病的なエゴではなく、立派なエゴを築くための理解を与えてくれますが、エゴをなくすための理解ではありません。

というか、そのエゴを本当に理解すれば、エゴには実体がなく、影にしかすぎないということがわかってしまうので、エゴを教育するという心理学の意味すらも失われてしまいかねません。

とはいえ、エゴは人間の成長段階で生じるものですし、その存在を否定することはできません。

また、エゴは社会生活にとってはなくてはならない機能を果たし、そもそもエゴがなければ、それを落とすという問題も生じません。
それだとエゴの発達しない幼児のままとどまってしまうことになってしまいます。

ちょうど果実が熟せば落ちるのと同じで、エゴも熟することが必要で、エゴも熟すると、その無意味さを悟って自然と落ちていくものかもしれません。

つまり、エゴの機能する範囲が理解できれば、エゴを持ちながらも、エゴにはとらわれないでいることもできるようになるのでしょう。

そして究極は、そのエゴもすべてなくなって、「ただ見る」ということだけが残るのでしょうが、それはまだ私にはわからない世界です。

それらについての詳しいお話は、要約では書けないことですので、OSHOの話を直接聞いていただくのが良いでしょう。

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