関係性が愛に変わるとき

今回でシュンニョの「OSHOと過ごしたダイヤモンドの日々」の16章「リレーションシップ」(関係性)──恋人たちの間でのこと──の章が終ります。

その最後にあたって、シュンニョはマスターとの関係性について書いています。

ここでマスターとの「関係性」というのは、言葉としては不正確です。

なぜなら「マスターと弟子との関係は、弟子の側からの一方通行」なので、そこには関係性がなりたたないからです。

マスターは「不在」なので、関係は弟子の側からだけのものであって、マスターの側にはないのです。

でも「愛」というのは、まさにそのようなものだとOSHOは語ります。

そこに「関係」があるかぎり、それは口のなかに苦い味わいを残さざるを得ないものであり、そこにはかならず不満があり、寂しさが残るものだ、と。

つまり「関係性」というものは、ある意味どこかで「災難」とならざるを得ない宿命があるのでしょう。

関係性というのはエゴとエゴの関係性であり、エゴがあるかぎり欲求があり、お互いがお互いを必要とし、その必要が満たされないときには欲求不満が生じます。

そこから災難が作りだされるのです。

OSHOは言います。

「関係は真のものにはなりえない」と。

真のものとは交感(コミュニオン)であり、ひとつに溶けていくことだとOSHOは語ります。

それが可能となるのは「不在」となったときです。

そのとき、ふたつのゼロが溶けあい、ふたつのゼロはひとつのゼロとなるのです。

シュンニョは語ります。

OSHOの講話を引用するにあたり、これを強調しておくのはとても大切だと思うのですが、私は自分なりの文脈のなかで、自分なりの理解に即してOSHOの言葉を使っています。

OSHOの言葉は、さまざまな解釈を許します。

OSHOを言葉で語ることはできないのですが、それでも私は、OSHOの言葉を私の理解に即したかたちで使います。

私にさしだせるのは私自身の理解だけなのですから。

私がOSHOに感じる愛は、いつもスピリチュアルなものでした。

彼と私の結びつきは瞑想による結びつきでした。

これは男性の弟子にも、女性の弟子にも同様にあてはまることで、性的にひきつけられるということとは無縁です。

私はOSHOのかたわらにいて、こうした愛を味わえたのですから、いつの日か私は、すべての人、この惑星上のすべての生き物のかたわらにいて同じ愛を味わえたらと思っています。
                                
OSHOはつぎのように語ります。

マスターは不在だ。
あなたも不在になったときには、ふたつのゼロはたがいに溶けあう。
ふたつのゼロは別々のものではいられない。
ふたつのゼロは別々のゼロではない。
ふたつのゼロはひとつのゼロになる。
 
2、3日前のこと、『私の側から見るならば、私は誰ともなんの関係も結んでいない。マスターと弟子との関係は、弟子の側からの一方通行だ』と言った。

チェタナが、こんな美しい手紙を書いてきた。

──あなたはとてもすばらしく語ってくださいました。
それは糖衣錠のようでした。
でも、それは私の喉につかえました。

チェタナ、私をもう少し飲んでごらん。
そうすればそれは喉を通るだろう。
不在の人をもう少し飲んでごらん。

私にはわかる。つらいことだ。
砂糖にくるまれているとはいえ、苦い薬だ。
関係は弟子の側からだけのものであって、それはマスターの側にはないと感じるのは、つらいことだ。

マスターもあなたを必要としていると、あなたは思いたい。
あなたは私にこう言ってほしい『私はあなたが必要だ。私はあなたをとても愛している』 
           
あなたの欲求はわかる。だが、それを言うことは嘘になる。
私にはただこう言えるだけだ──
私はあなたが必要ではない。私はあなたを愛している。

欲求はエゴとともにのみ存在できる。
私はあなたと関係をもてない。私は不在だからだ。

あなたは私との関係を持つことができる。
あなたがまだ存在しているからだ。
あなたが存在しているおかげで、あなたは私との関係を持てる。
だが、そうした関係は、中途はんぱで生ぬるいものにとどまる。

私が消え去ったように、あなたもまた消え去るならば、そこには出会いがあるだろう。
関係ではなく、ひとつになって消え去ることがあるだろう。

関係が満足のゆくものになることはない。
あなたはすでにとてもたくさんの関係を知っている。
それらを通じてなにが起きたかね。あなたは知った。あなたは親しんだ。
父母や兄弟や姉妹を愛した。女を愛し、夫や妻を愛した。

あなたは何度も何度も愛し、たくさんの関係を結んできた。
だから、どんな関係も口のなかに苦い味わいを残すということを知っているだろう。

それはあなたを満足させない。
ほんのつかのま満足することはあるかもしれないが、すぐにふたたび不満になる。

それはあなたを慰めてくれるかもしれない。
それでもまた、あなたは冷たい寂しさのなかに置き去りにされる。

関係は真のものにはなりえない。
真のものとは交感(コミュニオン)だ。
真のものとはひとつに溶けゆくことだ。

あなたが誰かと関係しているなら、あなたはその人と分かたれている。
そして分かたれているなら、醜く、いたずらもので、さまざまな苦悩の原因となるエゴは、かならずそこに残っている。
それはひとつに溶けゆくことのなかでのみ消える。

だからチェタナ、私の不在をもう少し飲んでごらん。
あなたを必要としていない私の愛を、もう少し飲んでごらん。
そうすれば錠剤は喉を通り、あなたはそれを消化できる。

そしてある日、あるすばらしい日に、あなたもまた私を愛しながらも、私を必要としなくなるだろう。

ふたりが互いを愛しながらも、互いを必要としなくなるとき、愛には翼が生える。
それはもはや普通のものではない。この世のものではない。
それは彼岸のものとなる。それは超えたるものとなる。
Unio Mystica Volume 1

「OSHOと過ごしたダイヤモンドの日々」
      http://u111u.info/kBc1

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