OSHOに盛られた毒との闘い

この時期、1987年から1989年にかけて、プーナの瞑想コミューンは活気に溢れていました。

OSHOの講話も活力に溢れたものでした。とはいうものの、OSHOが講話をしなくなる1年ほど前からは、講話の出だしのときの声は、力がなくて大丈夫だろうかと思われることもありましたが、話している間に、いつもどおりのパワフルな声に戻っているのでした。

しかし、その背後では、OSHOはアメリカ政府に盛られたタリウムの毒の影響で、ますます身体が衰弱し、さまざまな症状に苦しめられていたのです。

OSHOの講話を聴いているかぎりでは、そのようなことは想像もできないことでした。

シュンニョがこのように書いてくれているからこそ、当時の外からは、はかりしれないOSHOの状況がわかるのです。

OSHOのために、さまざまな療法が求められて、そのためになにかできないものかということは、みんなの願いでした。

それらの情報は公開されていましたので、私たちも、いろいろなものを提供したりもしました。放射能というと、今では福島原発の放射能の漏洩問題が大きいので悪い印象しかもたれませんが、日本ではラジウム温泉など、放射能を利用した代替療法なども民間療法として盛んです。
文中にある「放射能ベルト」というのは、そういうもののひとつです。

そういうOSHOの健康状態とはうらはらに、OSHOの瞑想コミューンでは、『ミスティック・ローズ』の瞑想や「ヤーフー!」の挨拶、さまざまな新しいことが次から次へと創りだされていっていたのです。

シュンニョは語ります。

「OSHOのためにプールと、最新の設備をそろえたエクササイズ・ルームを造る計画もありました。
9年にわたり、OSHOの身体が毒と闘うあいだ、彼を肉体にとどめておくのに役立つような、あらゆる方法を、誰もが懸命に探そうとしていました。9年というのは毒の効果が持続する期間です。

私たちは日本から送られてきた、いろいろな治療法を試しました。
毒物の排出を助けるという飲み薬、特殊な入浴法そして放射線ベルトまで。微量の放射線には、さまざまな病気を治療する効果があることが日本では証明されているのです。
イタリアの人里離れた山のなかに暮らす練金術師から、日本の著名な科学者にいたるまで、世界中の友人たちから、OSHOのための薬や薬草が届きました。

それでもOSHOの身体は、ますます弱くなっていました。
彼は午前中の講話をやめ、かわりにアヌブッダと日本人のアナンダから、マッサージのセッションを受けるようになりました。

それでもまだ、夜には私たちに講話をしていました。
OSHOは「ドロップ・アタック」という症状を見せるようになりました。急激な血圧降下による突然の卒倒です。

このことから、彼の血管、とくに心臓部の血管に障害が起きている可能性が強まってきました。
まわりに誰もいないときに彼が倒れて骨を折りはしないかと、私たちはいつも心配するようになりました。 (私はほんとうにそれを恐れていました)それでも私たちは、彼に常時つきまとうことで、彼自身の空間を侵害したくはありませんでした。

2月、屋根が替えられて、宇宙船のようなデザインになった新しいブッダホールで、OSHOが光明を得てから25年目の日を祝うセレブレーションがありました。

そして、その日から 『ミスティック・ローズ』(神秘の薔薇)と題された 一連の講話がはじまりました。
この一連の講話は、新しい瞑想法、新しい瞑想グループ、そして新しいあいさつが生まれるきっかけになりました。それらはすべて、OSHOが自然が生みだす魔法を目の当たりにさせてくれました。

新しいあいさつの言葉は 「ヤーフー!」といいます。OSHOがブッダホールに入るときと、そこを去るとき、私たちは両手を高くあげて、いっせいに「ヤーフー!」と叫びOSHOにあいさつするのです。

OSHOはこれをたいそう楽しみました。
毎晩OSHOが眠りにつこうとするとき、私は彼に毛布をかけ、明かりを消してそっと部屋から出ていくのでしたが、私が毛布をかけていると、彼は眼をニコニコさせて私を見つめ

「ヤーフー、チェタナ」と言いました」

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)