OSHOは講話に命をかけていた

OSHOの講話は、このブログでも紹介したOSHOのYouTubeの動画のはじめに流れるメッセージにもあるように、彼の言葉を聞くというよりも、そこにある静寂に耳を傾ける感じです。

言葉を聞くよりも、その言葉と言葉のギャップに耳を傾けるのです。
初期のころの彼の講話は、流れるように、しかも論理的に話していましたが、晩年になればなるほど、彼の話し方はとてもゆっくりとした話し方になり、ますますそのギャップ(間)が大きくなっていくようでした。
OSHOとともに坐っていて感じられる静寂は、まさに何にもかえがたい至福のひととできでもありました。

そうしたときに、この事件が起こったのでした。

OSHOが講話に出てこないときがだんだんと多くなり、いつ再び姿を現し講話を聴けるのかということも予測できなくなり、OSHOとともにいて講話を聞くことのできる機会はますます貴重に感じられるようになってきていたその矢先、この事件が起こったのです。

もう二度とOSHOに会えなくなるかもしれない、ということは、その場にいた全員に大きなショックをもたらしました。このシュンニョの記事を読むまではOSHOがそこまでの身体の衰弱と痛みのなかで、これだけの講話を話していたというのは、私たちの想像をはるかにうわまわることでした。

しかも、その事件のあと、側近の人たちとこのようなOSHOとの会話がなされていたとは、私たちには知るよしもありませんでした。

これを読むと、OSHOが残されたすべての体力と命のすべてをかけてワークをしていたのだということがよくわかります。

OSHOはまさに私たちのために、これらの講話をつづけ、これだけのものを残してくれてたのです。

シュンニョは語ります。

「この一連の講話のあいだ、コミューン全体が禅の一打を受けたことがありました。
そのこだまはいまでも聞こえています。

講話中にくすくす笑いが聞こえたり、ざわざわしたものが感じられる日が2、3日つづいたある日のこと、OSHOは講話で、沈黙とレットゴーについての質問に答えていました。

みんなが一体となり、OSHOとともにどんどん高く昇ってゆく──ブッダホールにはそう感じられるような雰囲気がありました。息をするのも忘れそうになるほどのすばらしい講話だったのです。

沈黙とOSHOの声とが空の果てまで広がろうとしていたちょうどそのとき、突然、誰かのヒステリックな笑い声が聞こえてきました。OSHOは講話をつづけましたが、笑い声はますます高まるばかりです。そのうえ、ほかにも2、3の人たちが、やはり狂ったように笑いだしました。

OSHOはしばらく間をおいたあと、こう言いました。

「これは冗談にしてはひどすぎる」

それでも笑いはやみません。みんなが瞑想を中断されたまま、1分、1分と、時間だけが過ぎていきました。OSHOは聴衆を見わたすと、威厳と落ちつきに満ちたしぐさで、クリップボードを脇に置いて椅子から立ち、みんなに合掌をしてブッダホールを去りました。

「あすの晩は、私のことを待たないように」と、彼は言いました。

OSHOが立ち上がったあと、私は走っていって彼のためにドアを開け、それから彼に付き添って、部屋まで行きました。

私はあまりのショックで気分が悪くなっていました。部屋に着くと、私はかがんで、彼がくつを履き替えるのを助けました。私はあやまりたいと思いました。私の無意識も他人の無識も似たようなものなのですから。それでも口が動かせません。

OSHOは私に、ニーラム、アナンド、それに主治医のアムリットを呼ばせました。二人があらわれたときには、OSHOはもうベッドに横になっていました。

彼は、そうしてベッドに横になったまま、二時間あまりも彼らに向かって話しました。

「あなた方が私の話を聞けないなら、どうして私が毎晩ブッダホールに行く必要があるだろう?私はたいへんな痛みをわずらっている。私はあなた方のためだけに生きている。あなた方のためだけに毎晩出てきて話しているのに、あなた方には聞くことさえできないのなら……」

OSHOの部屋は凍てつくように寒く、そして暗いのでした。
ベッドの脇の小さな明かりだけが輝いています。

OSHOがささやくように小さな声で話すので、ニーラム、アナンド、アムリットは、OSHOの方に頭をよせて話を聞いていました。

私はOSHOの足の方に立ったままそれを見ていたのですが、自分がなにを感じているのかわからないほどのショック状態にありました。

「いったい私はなにを感じているの?」と自分に尋ねても、答はでません。私はうつろになり、自分に起こっていることが把握できませんでした。

「私は肉体を離れよう」とOSHOは言いました。

ニーラムが泣いています。アナンドはOSHOをジョークで笑わせようとしましたが、OSHOのユーモアのセンスはなんの反応も見せません――それは危険な兆候でした。

とうとう津波のような感情が押し寄せてきて、私はすすり泣きました。
「ダメです。行かないでください。私たちにはまだ準備ができていません。もしも、いま行ってしまわれるなら、私もあなたと一緒に行きます」

OSHOは話すのをやめ、頭を枕から持ち上げて、私を見ました……。
私は泣いていましたが、自分が劇のなかにいるようにも感じていました。
私たちはみんな、寒さに震えながら泣きました。とうとうニーラムが言いました。
「もう部屋を出て、OSHOを休ませてあげましょう」

………

彼は次の日の夜も、私たちに講話をするために出てきてくれました。

そしてその夜から、聴衆はただの聴衆ではなく、瞑想する人の集まりになりました。
私たちの「聞くこと」の質が変わりました。

はじめて講話に出る人でさえ、まるで絹の手袋をはめるように、するっとその質のなかに入りこむようになりました。それは、いまでも変わ っていません。

その2、3週間後から、OSHOは毎日の講話を終えるにあたり、ジベリツシュがはじまる瞑想へと私たちを導くようになりました。ブッダホールをいっぱいにした私たちは、誰もが無意味な音声を叫び、マインドにつまったがらくたを投げ捨てるのです。

そのあとでOSHOがこう言います。

「ストップ! 凍りついたかのようになりなさい」

私たちは彫像のように静止して座ります。
そして、OSHOが「レットゴー」と言うと、私たちは床に倒れます。

するとOSHOは、床に倒れた私たちを、やさしく、静まりかえった空間へと導いてくれます。
いつの日か、その静まりかえった空間は、私たちの本来の住まいとなるのでしょう。

私たちがいつか永遠の住まいとするところ、私たちの内面の世界を、彼は私たちに味わわせてくれました。
そして最後に、彼は私たちをその世界から呼び戻し、こう尋ねます。

「一万人のブッダをお祝いできるかね?」

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)