OSHOが食事をとった日

OSHOは自分でデザインした新しい寝室(のちにサマーディという、みんなが瞑想するための部屋になる)に移りましたが、そこでは健康のさらなる悪化に苦しみ、ほとんどなにも食べない日が続きました。

そんな状態が数週間、水だけを飲む日々が続いたあと、ある日、「なにか食べたくなった」と言いました。

そのとき、「新しい漆器が一式、日本人のサニヤシンたちから贈られてきて」いたのですが、その新しい漆器一式は私たちが贈ったものでした。

OSHOの状態を知り、私たちがOSHOに送った漆器が、どのように届けられたのかを知ったのは、このシュンニョの本の、この箇所を読んだときでした。

この日は、シュンニョにとって「私のダイアモンドの瞬間のひとつでした」ということですが、この箇所を読んだときには、私もそのダイヤモンドの瞬間をシュンニョと一緒に感じることができました。

この話を書くと少し長くなるかもしれませんが、書いてみます。

それは、リーラとの会話からはじまりました。

リーラはプラサードとともにOSHOのコミューンの「ミステリースクール」で教えていた人ですが、日本でのユニティインスティチュートのディレクターのひとりです。

このシュンニョの本のなかでは紹介できなかったかもしれませんが、OSHOが発表したボーディサットバ(菩薩)のリストのひとりにも名前が挙げられていました。

OSHOの発表のとおり、リーラは菩薩のような働きのために、この世に生まれてきたような人です。
もう25年以上も前のことになりますが、私たちは伊東の小室山に住んでいて、リーラやプラサードを日本に招待して、瞑想のグループなどを年に一度オーガナイズしていました。
https://unityinstitute.jp/institute リーラはこの左上の写真の人です)

リーラは人に贈り物をするための買い物を趣味としているような人で、当時は、日本に来るたびに、OSHOのために、いろいろな買い物をしていました。

そのひとつに、OSHOが着ている服で、OSHOが気に入っている素材の布を売っている店が日本にあるというので、毎年、そこに買い物に行っていました。

あるときリーラとの雑談で、「OSHOは日本の漆器がとても好きだ」という話題になり、「それなら輪島塗の漆器がいいよ」という話になりました。

そこで、「OSHOはスワンのデザインが好きで、日本では鶴の絵なのが残念だね」という話をリーラがしたときに、「それなら輪島塗の工房にデザインを注文すれば、そのデザインで制作してくれるよ」と、私が何気なく話したのをリーラは見逃しませんでした。

するとリーラが、その言葉にすぐに反応して「それはいいわね。それなら、OSHOのコミューンにどういうデザインがいいか聞いてみるわね」と言ったかと思うと、そのことをすぐに手紙を書いて、ファックスを送ったのです。

すると、なんと翌日に、OSHOのコミューンから「こういうデザインがいい」というスワンのデザインの描かれた数枚のファックスが送られてきたのです。自分が言った手前、引っ込みがつかず、輪島塗の現地に行って、そのデザインで製作してくれるところを探すことになりました。

今は朝ドラで輪島が舞台で、輪島塗のことなども紹介されていますが、そういう輪島塗の工場のことなど皆目見当もつかず、インターネットもないころでしたので、とにかく、まずは輪島に行って、あちこち店や工場を尋ね歩きながら、注文のデザインでオーダーメイドの制作をしてくれるところを探しまわりました。

そして、やっと一件、中堅どころで、ここならすばらしいものを作ってくれそうだと思える輪島塗の工房に出会い、アシュラムから受け取ったスワンのデザインで器を作ってくれるように注文したのです。

ところが、注文したはいいものの、言われた値段は予算をはるかにオーバーしていて、とても自分たちでは払えそうにもないものでした。

そこで、日本のサニヤシンの友人たちに「OSHOに輪島塗の漆器を一揃え贈りたいのだけれど、一緒に贈り物をしませんか?」と、カンパを呼びかけたところ、30人ほどの人たちから寄付が集まりました。

それでも半額ほどにしかならなかったので、足りない分は自分で出して、当時、毎年オーガナイズしていたインドへのツアーのグループを引率してOSHOのコミューンに行くときに、その漆器を持参したのでした。

お椀とお皿との5点ほどの漆器と、スワンの絵柄がはいった黒塗りの御盆のセットです。
一つひとつ桐の箱に入れられ、作者の名前が箱にも書かれ、白金のような素材で、スワンの飛んでいる図柄が描かれてあるものです。

それらの漆器のひとそろいを、寄付してくれた友人たちの名前のリストとともに、OSHOへの贈り物として届けたのでした。

当時、長くOSHOが、ブッダホールにも姿を見せていないという噂を耳にしていたのですが、シュンニョがその漆器が届いたときの様子をこの本で読んだときには、なにか、私たちの気持ちがOSHOにも届いたような気がして、とても嬉しく思いました。

OSHOは不思議な人で、直接会わなくても、なにかどこかで見透かされ、またどこかでつながっているようなところがあるのです。

シュンニョは書いています。

新しい寝室で暮らした時期、OSHOの身体は、ほとんどいつもひどい病状を見せていました。
OSHOの健康が悪化に向かうと、かならずやっかいなことになりました。
ひとつの疾患を治療するための薬が副作用を呼んで、次々と新しい疾患を生みだし、そして新しい疾患ほど手に負えないのです。

彼の身体は、微妙なバランスを保っていましたので、食事も薬もそれに合わせてありました。ほんのささいな変化でも問題の原因となるのです。
どれだけささいなことが問題となるかは、私たちの想像を超えるほどでした。

それでもOSHOはつねに、自分の身体にとって、なにがいちばん有益かを知っていました。
ですからいつも、医者の方がOSHOの言うことを聞くはめになりました。

彼は何週間にもわたり、食事と呼べるようなものをとりませんでした。
数日にわたり、水だけ飲んでいたときもありまし た。
ですが、とうとうある日のこと、彼はなにか食べたくなったと言いました。
私たちにとって、それはすばらしい日になりました。

新しい漆器が一式、日本人のサニヤシンたちから贈られてきていました。
日本の小さな町で特別に作らせたものです。
銀色の自鳥が飛翔する姿が描かれた黒塗りの漆器で、揃いの盆がついていました。
私は彼に食事を差しだしたあと、食事をしている彼の足元で、アヴィルバヴァと一緒に座っていました。

これは、私のダイアモンドの瞬間のひとつでした。
すべてはうまくいく、彼の身体は回復して、彼は、いつまでも私たちとともにいるでしょう。
私には、そう思えたのです。

ほんとうにそれを象徴しているようで、私はよろこびの涙を流しました。
そのよろこびは長つづきはしなかったのですが。

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)