幸せと瞑想の関係

人はどうして神を求めるのでしょうか?

それはどうやら自分が不幸だからのようです。

自分のことを考えてみても、神様にお祈りしているときは幸せなときというよりも、不幸なときになんとかしてくれとお祈りしているときが多いようです。その前提として、自分の不幸は神様のせいだとでも思っているのでしょう。

それはともかく、神を探求しているとはいっても、実は求めているのは自分の幸福であったりします。

マニーシャは「和尚との至高の瞬間」のなかで次のような逸話を書いています。

「ある晩のダルシャンで、青白い、真剣な面もちの英国人の少女がOshoに、自分は神を探求していると言う。

それに対し、Oshoは微笑みながら、
我々は神ではなく、幸福を探し求めている。
だが幸福を求めていると言えば、利己的に聞こえる。
『神』はより受け入れやすいレッテルであり、より宗教的に聞こえる
」と語る。

彼女は侮辱されたと感じているらしい。彼女が自分は本当に神を求めていると感じており、自分の探求がそれ以下のものだと言われるのを嫌悪しているのは、明らかだった。

けれど私は、Oshoの答えを愛さずにはいられない。それは我々のスピリチュアリティに対する考えの正体を暴く、とても彼らしい実際的な答えだ。」

これは瞑想についても同じことが言えるようです。

人はどうして瞑想を求めるのでしょうか?

それは幸福を求めているからなのではないでしょうか。

瞑想を世に広めたのは仏陀ですが、それは彼が世の中の「生老病死」の四つの苦しみを見て、人生がこのような苦しみならば、王子であることに意味はないと思って出家をしました。

そしてその修行の結果悟りを得て、その悟りの経験から、苦しみから抜け出す道として瞑想を世に広めたのです。

ですから、人生で苦しみがあるときに、そこから救われる道として瞑想を求めるのはある意味自然なことです。

実際自分がなぜ瞑想に興味を持ったかというと、死に直面したことがあって、人生の意味を仏陀の悟りに求めていたようなところがあります。当時のいろんな悩みの救済を瞑想に求めていたのです。

しかし、Oshoは「Joy 喜び」のなかで次のように語っています。

人々は瞑想を求めている。
   瞑想が必要なのは、単にあなたが幸せを選択していないからだ。
 もしあなたがすでに幸せを選択しているならば、瞑想する必要はない。

 瞑想には治癒の力がある。 
 もしあなたが病気であれば、薬が必要だ。
 いったんあなたが幸せであることを選択すれば、
 そしてあなたが幸せになろうと決めれば、薬は必要ではない。
 そのとき、瞑想はひとりでに起こりはじめるからだ。

 非常に多くの宗教があるのは、非常に多くの人々が不幸だからだ。 
 幸せな人には宗教は必要ではない。
 幸せな人には寺院も教会も必要ではないーー
 なぜならば、幸せな人にとっては宇宙全体が寺院であり、存在全体が教会だからだ。

 幸せな人は宗教活動を追求しない。
 なぜならば彼の全生活が宗教的だからだ。

 幸福感を持ってあなたが行なう全てが祈りだーー
 あなたの仕事が礼拝になり、
 あなたの呼吸そのものが強烈な輝きを仕事に与え、恩寵になる。

 あなたがあなたの生と適合していれば、幸せは起こり、
 あなたが生とうまく調和すれば、
 あなたは何をしていようが、それがあなたの喜びになる。
 そのとき、突然、あなたは瞑想していることに気づくだろう。

 もしあなたが自分のしている仕事を愛していれば、
 そして、もしあなたが自分の生き方を愛していれば、
 そのとき、あなたは瞑想的になっている。

 そのとき、あなたを悩ますものはない。
 あなたを悩ますものがあるとき、
 それは、あなたがそうしたものに本当は興味を持っていないということを示しているだけだ。

Joy 喜び

しかし「幸せを選択」すればいいだけだと言われても
「幸せになれないからみんな悩んでいるんじゃないか」って言いたくなります。

「幸せを選択する」ということで幸せになれるなら苦労はないよ、って思います。

しかしOshoは、人が幸せになれるか、不幸せになれるかは単に選択の問題だと言っています。
なぜなら、人間は意識を持っていて、意識的になりさえすれば、それは自由の問題だと。

しかし、その自由に何かが起こっていて、何かがうまくいっていない、ともOshoは語っています。

人間はこの上もなく幸せにも、この上なく不幸にもなれるーー
 人間には選択の自由がある。
 だが、この自由はきわどく、この自由はきわめて危険だ。
 なぜなら、あなたの責任だからだ。

 そして、この自由に何かが起こっている。
 何かがうまくいっていない。
 人間はどうやら、逆立ちしているのだ。

何がうまくいっていないのか?

それは「Joy 喜び」を読んでみてください。
そうすれば、逆立ちしなくてもよくなるしょう。