瞑想で起こるかもしれないこと

瞑想というのはとても不思議です。

瞑想のなかでは、ふだん体験しないようなことが起こったりもするので、それをガイドしてくれる人が必要になることがあります。それがマスターの存在です。

禅僧で有名な白隠も、禅の修行中にさまざまな不思議な体験をしたことも書いています。

ときには坐禅中に空を飛んであちこちを訪れるような体験もあったそうで、まさに幽体離脱したような体験です。

そういう現象に惑わされないように導くのがマスターですが、また瞑想する人が正しい道を歩んでいるかどうかということを見極めるのもマスターの役割です。

マニーシャは、その瞑想の過程で自分がピカソの絵のような感じに感じられたり、奇怪なことを感じたりもしたので、その状態についてOshoに質問をします。

そのときの瞑想状態は2週間続き、そのスペースは過ぎ去っていきました。

Oshoが講話のなかで「瞑想をすることはできない。瞑想は恩寵として訪れる。瞑想のテクニックはその瞑想が起こることのできる状況を準備するに過ぎない」というような趣旨のことを語っているのを聞いたことがあります。

Oshoが講話をし、コミューンの場を作ったのはその瞑想が起こりうる状況を作るためでもありました。

私たちは、「瞑想法」を実践することが瞑想をすることのに思うかもしれませんが、実際はそれは瞑想が起こることのできる状況を整える準備運動のようなものでもあります。

瞑想はあるとき訪れ、そしてそれもまた去っていくのです。

白隠は「大悟(大きな悟りの体験)数度、小悟(小さな悟りの体験)数を知れず」と書いています。

悟りの体験さえも、やってきては去っていくのです。

マニーシャは書いています。

講話中、自分の知覚が歪められることがある。
 体の一部分……膝の上においた手や足しか感じられない。

 また、立体派の絵画のように感じるときもある。
 私の両腕が体の片側についていたり、耳が鼻のあるべき場所にあるように感じられたり。

 そのうえもっと奇怪なことを感じ始めたので、それについてOshoに質問する。

目でものを聞き、耳で見るなどということは、ありえるでしょうか?

Oshoはそれに答えてこう言う。

人が完全に沈黙するとき、たしかにその人は耳で見、目で聞くことができる。

そうなると感覚器官に区別は存在しない。
その人はただ、感受性そのものになる。
耳、目、鼻……それらはひとつの感受性の中に溶ける。

その感受性を通じて見、聞き、 感じる……
そしてあなたは沈黙したままだ。

このように耳で知り、目で聞くことは、
決してあなたの沈黙を乱さない」

「そうだ、マニーシャ。
 これこそ、私がここ何年も試みてきたことだ。
 あなたがたのためにその状況をつくりだすことを。

・・・・・・だから、
あなたが心から喜んでそれに応えてくれたことを、
私はこのうえなく幸福に感じる。
あなたはこの宇宙の沈黙の一部になったのだ。
これこそが、あなたの真の現実なのだ」

「この現実の中に”あなた”はいない」

今日、いつも通りの日課をこなしながら、自分が新しいスペースにいるのを感じる。

それはまるで、いままでどこかに閉じこめられていて、鍵をあれこれ使って扉を開けようとしていたのが、突然何かがカチリと鳴り、扉が開いたという感じだ。

もしくは「私」というジグソーパズルが完成したような感じと言ってもよい。

感覚について奇妙なことは何もない。
それでしばらく私はそれを「新しい空間」と呼んだが、実際それは過去40年の経験よりも、もっと私らしく、より親しみ深く感じられる。

それは私がかつて完全だった頃、完全に調和し、いや私の不完全さと完全に調和していた頃を再体験しているようだ。

私は中心に落ち着いており、内側は静止して沈黙している。
そして初めて、それは講話中だけでなく、一日のあらゆる活動と、人との関わりの中に浸透している。

それは非常に楽で楽しく、正しく自然に感じられる。
このスペースからは、何か間違ったことをしたり言ったりするはずがない。

もし私が、たとえそうしたとしても、何人のつま先を踏んだかなどと心配して、 緊張することもない。

私の体はスムーズに楽々と動く。
感情や思考は、もはや私を風の中の木の葉のように揺すったり、コントロールしたりする要素ではない。

いらいらさせたり、調和を乱すものは何もない。そ
んな内的調和の中にいると、外側のすべても調和の中にあるとしか見えない。

これは私がどう在ることが可能か、どう在るべきかを示す一瞥だ

……本当の私がいかなるものかという……。
あるがままの自分に完璧に満足し、これ以上素敵な状態は想像できない。

私はいま、Oshoが
私たちに加えるべきものは何もなく、
ただ再発見すべきものがある
と言った意味を理解する。

2週間後、そのスペースは過ぎ去った。
それはどこからともなくやって来て、そして消えていった。

それを呼び戻すことはできない。
願ったとしても、かえってやって来るのを妨げるだけだろう。

その一方で、私に訪れた素敵なこと、私に備わった可能性の経験としてそれを思い出すことができる。

気がつくと、私はそうしてばかりいる。……
なぜならその経験は私をとても優しく、
感謝に満ちた気持ちにして去っていったから。

もう二度と同じことが起こらないとしても、
そのように在ることが可能だということを私は知っている。

このたった一度の経験が、
私の瞑想してきた13年間を、ほんの短い間のことのように感じさせる。」

和尚との至高の瞬間