マスターと弟子の関係

 法華経には、お釈迦さまが衆生を導き、教化するために説いたという7つのたとえ話があります。

 法華七喩(ほっけしちゆ)と言われ、 三車火宅、長者窮子、三草二木、化城宝処、衣裏繋珠、髻中明珠、良医病子などのたとえ話です。

 三車火宅、長者窮子、衣裏繋珠の教えなどは小学生のころ絵本などで読んだり、母親がお話としてして話してくれたり、どこかで耳にしたことがあるでしょう。

 このなかで、化城宝処というのは、法華経の化城喩品に出てくるお話です。

 そこでは、本当の救い(悟り)に至る道を歩んでいるときに、途中でくじけそうになる人たちに対する方便が説かれています。

 それは以下のようなお話です。

 「宝のある場所(宝処)に向かって遥かな遠路を旅する多くの人々がいました。しかし険しく厳しい道が続いて、みんな疲れてうごけなくなってしまいます。

 その中に一人の導師がいて、方便力をもって幻の城を化現させ、そこで人々は休息して疲れを癒します。

 人々がそこで満足しているのを見て、導師はこれは仮の城であることを教えて、そして再び宝処に向かって出発し、ついに人々を真の宝処に導きました」というお話です。

 この物語の導師は仏で、旅をする人々は一切衆生、長い道のりは仏道修行の厳しさや困難、化城は三乗の悟り、宝処は一乗の悟りを意味すると言われています。

 この譬えは、お釈迦さまが一つの仏に至る道『一仏乗』を説いたときに、これまで説いてきた『声聞、縁覚、菩薩』の三乗は実は真実にいたるための化城(まぼろしの城)のようなものであるということを説いているとされています。

 OSHOはこのことを、ハートの教えとして次のように、美しく語っています。

 いったんあなたがハートへとやって來て、その歓び、その歌、その美を知ったら、もう少し遠くまで歩くことを厭わないだろう。

 そしてあなたをハートへと導いた導師(マスター)は、その間にあなたの中に信頼をも生み出している。

 それは、導師は自らが語ることを本当に知っており、道を知っているに違いないという信頼だ。

 導師は言う「道は遠い。それは実存と実存との出会いだ」。

 あなたが実存に到達すると、彼はこう言う。

 「さあ、これから本当の旅が始まる。いままではその用意をしていたのだ。それは準備にすぎない」

 実存から宇宙意識へ……。

 その旅に終わりはない。だが歓喜は深まり続けるーー

 いまあなたは、ゴールなど実際には存在しないのを知っている。

 ゴールを持ち出すこと自体、初心者向けだ。子ども向けだ。

                  ーー和尚 Osho Upanishad

 私たちは、人生を生きる上で目標やゴールを持ちなさい、というふうに言われます。

 そしてその目標を実現することが人生の目的であるかのように教えられます。

 この物質的な世界では、さまざまな願いや欲望を実現するための、現世利益の教えが充満しています。

 もちろん肉体を持つ身ですから、それらの物質的な欲望を満たすことも喜びであり、人生の一部ではあります。

 しかしそれはお釈迦さまや悟りを得たブッダの目からみれば、それらはしょせん初心者向けの、子供のための化城でしかないようです。

 OSHOはマインド(頭)からハートへの道、そしてハートからビーイング(実存)への道ということを語っているのをよく耳にします。

 「マインドからハートへは少し努力が必要だけれども、ハートに至れば、そこからビーイング(実存)へは努力なく、自然に起こる」と。

 しかし、まだ先があったのです。

 実存から宇宙意識へ……。

 その旅に終わりはなく、歓喜は深まり続ける、という道が。

 OSHOのもとへは世界中から、さまざまな人が訪れ、彼の弟子になります。

 彼の弟子になった人のことをサニヤシンといいます。

 マニーシャはサニヤシンとしてOSHOの身近にいて、さまざまなサニヤシンのことを見てきました。

 マニーシャは書いています。

 「サニヤシンとしての私の人生すべて、そしてOSHOと続けてきたワークを根底で支えているのは、私か感じている彼との絆だ。

 彼に初めて会ったとき、昔からお互いを知っていたという何とも不思議な感覚があった。

 そのとき感じた正しさと懐かしさの感覚と、彼とともに生きるのはわくわくして楽しいだろうという思いは、月日を経て深く献身的な愛へと変わった。

 私は自分が一途なサニヤシンであり、OSHOへの愛は、かつて経験した中でもっとも深く、神聖な感覚だと思っている。

 しかしサニヤシンになってからこの十二年間に、人々が彼の許に來ては去ってゆくのを見てきた。

 その中には親しくしていた友人もいたし、誰にも増して彼に傾倒しているように見えた人も多かった。

 あるスーフィーはこう言う。

 導師(マスター)に呼ばれた千人のうち、百人がその呼びかけを聞く。その百人のうち十人が呼びかけに応える。応えた十人のうち五人が導師のもとに留まる。

 OSHOはこれが導師のワークのすべてだ、とまで言っている。

 導師は彼とともに道を歩み、地獄も高波も厭わない本物の帰依者を見つける必要がある。道の過程でそうではない人がわかる。

 彼はそんな弟子をやめさせる方法を見つけなければならないが、それは弟子を傷つけるあからさまなやり方ではない。

 導師は偽物の弟子をやめさせるとき、まるで弟子が自分から弟子をやめるのだと感じさせるような方法を使う。

 そういった人々は、たまたま近くを通ったからとか、友人が関っいたからという理由で彼のもとにやって来る。

 導師についてある概念や期待を持って来る人もあり、導師に対する彼らの考えに滋養が与えられているかぎりは、献身的な帰依者を完璧に幸福に演じる。

 しかし、いったんこれらの期待がーーたとえば、導師は自分を光明に導いふくれるといったーー打ち砕かれると、彼らは導師の許を去る、                           

 自分が去ることを正当化するために、そしてなぜ探求を投げ出すのかを自分と也人に説明するために、弟子だった人たちは導師に裏切られたと訴えるーー導師を罵り、彼の光明とワークの真価に異議を唱える。

 OSHOと過ごした年月に、私はこうしたことが起こるのを見てきた。

 元弟子の人たちが「サニヤシン」をやめるとき、私は弟子と導師との関係において、もはや引き返し不可能な地点というものがあるのかと思う。

 導師が、もはや自分の消すことのできない一部となっていて、弟子はもうそこに留まることもそこから引き返すこともできない。そんな地点だ。

 自分がその地点に到達しているのか、知りたいと心底希う。  

和尚との至高の瞬間

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