生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ

生について
生きることについて
愛について

ただ考えていたい人々にとって
そのような人々にとって
過去と未来は完璧に素晴らしい
ふたつは永遠の広がりを与えるからだ

実際にそれを生きたことがなくても
それがあったときにその場にいなかったとしても
彼らは自分の過去を飾ることができる
好きなだけ美しく飾ることができる

その過去はたんなる幻影――映像だ
彼らは休みなく走りつづけてきた
走りながらいくつかのものを垣間見て
自分はそれを生きたと思い込む

過去においては、死だけがリアリティだ
生ではない

未来においても、死だけがリアリティだ
生ではない

過去に生きることを逃した人は
その隙間を埋めるために
自動的に未来について夢想しはじめる

その未来は過去から生まれた投影にすぎない
何であれ、過去に逃したものを未来に託す
そして、それらふたつの非存在の狭間に小さな瞬間がある─
それが生だ

ゴールド・ナゲッツ

もし、今ここを生きていなければ、生きることができなかった夢を、過去の思い出として好きなように飾りたてることができます。

過去は生きることのできなかった幻影で飾られることになります。

そして未来は、そのような生きられなかった過去からの夢を投影したものになる、とOSHOは語っています。

これってどういうことでしょうか?

例えば、好きな人がいるとします。

でも好きだと告白できないままで終ったとします。

告白していれば、ふられたかもしれないし、あるいはつきあって愛し合うことができたかもしれません。

でも、好きな思いを打ち明けなかったなら、その片思いの夢で美しい過去の思い出を作ることができます。

あるいは、打ち明けていたら成就したかもしれない恋いとして、思い出に残るのかもしれません。

するとその恋いが成就して、結婚したときの未来の夢を見ることもできます。

打ち明けない限り、すべては可能性として残されるので、どのような夢を抱こうと自由だからです。

それらはすべて自分の中の考えのままなので、どのように考えるのも自由です。

でも、もし打ち明けるとなると、リアリティに直面することになります。

ふられる危険を冒すことになります。

あるいは、つきあうことになってしまう危険かもしれませんが。

いずれにしろ、それは考えているだけではすまなくなり、リアリティに直面することになります。

それが現実であり、今ここにあることです。

もし考えつづけているだけだったら、現実のある今ここに生きることなく、過去と未来の夢の世界に住みつづけることになってしまう。

というようなことを、ここでOSHOは語っているように思われます。

それが愛する人への思いであろうと、自分がやりたいと思っている仕事であろうと、行きたいと思っている旅行でろうと、欲しいと思っているものを買うことであろうと同じです。

今ここを生きるということは、考えていることから、それを現実の行動に移すことであり、決断することによってもたらされます。

もちろん夢の中に生きるのは楽しいですし、リスクもないので楽なことではあります。

今を生きるリスクを冒すのか、ただただ考えつづけて、過去と未来の夢の中に居続けるのか?

過去においては、死だけがリアリティだ
生ではない

未来においても、死だけがリアリティだ
生ではない

今ここに生きるのか、過去と未来に死ぬのか。

「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」と悩んだハムレットの問いがここにあります。

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