瞑想は、正しい道の上にあれば、あなたを愛で満たす

Oshoが語る、瞑想についての言葉。

瞑想とは冒険だ。人間のマインドが企てうる、
    最大の冒険だ。瞑想とは、ただ在ること 
 ー 行為もなく、思考もなく、感情もなしに。
    あなたはただ在る、それはまったき喜びだ
                          (Osho:『オレンジ・ブック』)

瞑想はマインドにとっての冒険です。
なぜなら、瞑想はマインドにとっては
未知なる領域への旅だからです。

マインドは常に何かをすることに関わりたがります。
何もしないでいることができないのがマインドです。

マインドとは思考のことであり、
ときには感情も含んで「マインド」と呼ばれます。

「思考もなく、感情もなしに」とはマインドもなしにということです。
 そのマインドがない状態が「瞑想」です。

そして、その「ただ在る、それはまったき喜びだ」
ということはマインドの理解を超えています。

マインドから見れば、瞑想は無為であり、
時間の無駄でしかありません。

それが喜びだなんて、信じられないことです。
その冒険をしてみるのが、瞑想です。

瞑想の第一歩は、あなたの身体から始まる。
    だから、覚えておきなさい、人に植え付けられた
   自分の身体についての否定的な感情は何であれ、
   捨ててしまうことだ。

 身体は、物質界でも、精神世界でも、
   たんなる道具にすぎない
     (Osho: 『The Path of Meditation』)

 
 物質的な世界と精神的な世界は対立するものと考えられがちです。
    精神的な世界を探求する瞑想をするには、
    物質的なことや体を否定すべきものだという考えが古来からありました。
 
 それが体を否定するために断食したりする苦行だったりします。
 ヨーガなどでも針の上に座ったり、片足だけで何時間も立っていたり、
    ヨギのさまざまな修行の体系がありました。
 
 キリストなどでも、お金持ちが天国に行くのはラクダが
    針の穴を通るよりも難しい、と言われたりします。
 
 物質的な豊かさと精神的な豊かさは相容れないことのよう
    に考えられてきたりしています。
 清貧というのはその考え方の一つです。
 
 しかし、体を整えることが瞑想の第一歩です。
 断食は正しく行えば、健康法でもあり、
   体を整えるのに役立ちます。
 
 ヨーガも体を整え、食事を整え、呼吸を整え、心を整え、
    調心調息は瞑想の準備として行われるものです。
 
 心身一如という言葉があるように、心と身体は一つなのです。
 
 自分の体を愛し、大切にケアーすること。
 体が健康であることが、物質的にも精神的にも
   満たされるための第一歩です。

愛は、正しい道の上にあれば、あなたを瞑想的にする
 瞑想は、正しい道の上にあれば、あなたを愛で満たす

              (Osho:『究極の旅』)
 
 精神的な探求の道には、愛の道と瞑想の道とがある、
 という言われ方がされていました。
 
 いわゆる愛の道というのは神への愛の道であり、
 男女の愛でもあり、全てを受け入れ、
 イエスと言って行く道です。
 キリスト教やスーフィーなどはこの愛の道として有名です。
 
 いわゆる瞑想の道というのは、一人で坐禅をしたり、
 ヨーガをしたり、孤独に一人歩む道であり、
 全てを否定して胃く道です。
 
 仏陀はネティ、ネティ(ノー、ノー)と言いながら、
 執着を断ち、所有を断ち、全てを捨て去る道を解きました。
 それが瞑想の道として知られています。
 
 その話を聞いたときには、
 瞑想の道を歩むべきか愛の道を歩むべきか、
 随分悩んだものです。
 
 全てを断ち切って、世間を捨てて、
 瞑想一筋の禅僧のようになるには、
 恋愛もしたいし、美味しものも食べたいし、
 世間への執着が強くあったからです。
 
 でもOshoは、その両方が大切だと言います。
 
 もちろん愛の道も瞑想の道もあるのですが、
 その行き着く先は一つ。
 
 瞑想だけで愛が欠けていても、それは本物ではないし、
 愛だけで瞑想が欠けていてもそれは本物ではない。
 
 本当に正しい道を歩んでいれば、
 愛はあなたを瞑想的にするし、
 瞑想はあなたを愛で満たす。
 
 この言葉を聞いたとき、何か、ホッとしたのを思い出します。
 
マニーシャが「ゾルバがブッダに出会うとき」という瞑想のワークショップを開催します。

http://www.oshoartunity.com/osho_sammasati/event_workshop/#2

   瞑想の道を歩みながらも、愛の道を歩む。
 精神的な道を歩みながらも、物質的にも豊かに生きる。

 そんなヒントが得られるでしょう。

たいていの場合、エネルギーはあなたから離れていく
 ─ この世の物に向かって、対象に向かってだ。

 エネルギーがあなたから離れていくために、
 あなたは虚しく感じるのだ。

 エネルギーは離れて、戻ってくることはない。
 あなたはエネルギーを浪費しつづける。
 やがてあなたは消耗し、不満を感じる。
 何も戻ってこない。徐々にあなたは虚しく感じるようになる。

 毎日エネルギーはただ漏れ出ていって、それから死がやってくる。
 死とは、あなたが疲れ切り、使い尽くされたということにほかならない。

 人生における最大の奇跡とは、このことを理解し、
 エネルギーをわが家へと向けることだ。

 それは、内面への回帰だ。
 あなたは世間から離れるわけではない。
 あなたは世間に住む 
 ー何も後にする必要はないし、どこかに行く必要もない。

 あなたは世間に住む、しかしまったく異なる方法でだ。
 今やあなたは世間に住んでも、自分自身に定まっている。
 あなたのエネルギーは、自分へと戻りつづける。

「あなたはもはや外には向かわず、内に向かっている。
 当然のことながら、あなたはエネルギーのプールに、貯水池になる。

 そしてエネルギーとは喜び、まったくの喜びなのだ。
 ただそこにエネルギーがあり、溢れている。
 そしてあなたは喜び、分かち合うことができ、
 愛を与えることができるのだ。

「どこに行こうと、何をしようと、いつでも内なる光のもとで、
 気づきをもってやりなさい。それが瞑想のすべてだ

 ─もっと注意深くなることだ。
 同じ人生を生きるがいい。
 ただあなたの注意を変えなさい 
 ─ それをもっと強烈にすることだ。

 同じ食べ物を食べ、同じ道を歩き、
 同じ家に住み、同じ女性や子供と一緒にいても、
 あなたの内側からまったく違った在り方であってごらん。
 油断せずにいなさい!

 同じ道を歩くがいい、けれども気づきをもってた。
 あなたが気づけば、同じ道も、突如として同じではなくなる。
 というのも、あなたがもう同じではないからだ。

 あなたが気づいていれば、同じ食べ物も同じではない。
 というのも、あなたが同じではないからだ。

 同じ女性も同じでなくなる。
 あなたが同じではないからだ。
 あなたの内面が変れば、すべてが変わる。

「もし誰かが内側を変えれば、外側はすっかり変わる。
 私によれば、世間の定義とはこうだ 

 ─ あなたは、深い内なる闇に生きているに違いない。
 だからこそ世間が存在している。

 もしあなたの内なるランプに火が灯れば、
 突如として世界は消え、そこには神性なるものしかない。

 すべては、あなたの内なる気づき、
 あるいは気づきのなさにかかっている。

 それこそが、なされるべき唯一の変化、
 唯一の変容、唯一の革命なのだ

(Osho: 『The Dhammapada: The Way of the Buddha』)