これまでの人生の終わり

アメリカのOshoのコミューンに2週間滞在してOshoの弟子になった私は、日本に帰る前に、そこで知り合ったロサンゼルスに住んでいた友人の所に遊びに行きました。

彼はサーファーで、サーフィンをしたくて、ロスのラグナビーチの近くに住んで、寿司屋でバイトをしていたのです。

彼のところに数日居候した私は、彼につきあって、彼が夕方からバイトをしていた寿司屋で一緒にバイトもしました。
彼が店主に、私を友人だと紹介し、そのまま、私は赤い服を着て、マラを下げて、ガタサンサという名前で働いていたのです。

アメリカではバイトの基本給というのはほとんどないようなもので、チップが大きな収入源となっているようです。
そのお店では、チップはガラス瓶に集められ、それをみんなで分けるようなシステムになっていました。
サービスを気に入った人たちは、チップを多めにテーブルに置いていってくれるのですが、多くチップを置いてくれた時には嬉しかったものです。

アメリカでは私がどう見られようと気にならなかったし、どうせ数日のことでした。
寿司屋のお店もお客も、そんな真っ赤な服を着て、マラを下げていても、誰も気にするふうではありませんでした。日本では考えられないことでした。

しかし、日本に帰ってそんなカッコウをしていれば、そうはいきません。
アメリカから帰ってきたら、いきなり赤い服を着て、首から写真入りのロケットを下げていたら、気が違ったか、新興宗教に入信したのか、と思われて当然です。

単に服が変わって名前が変わっただけなのに、まるでこれまでの全人生がすべて変わってしまったかのようだでした。
あぁ、これで自分の人生も終しまいだ、と思えた瞬間でした。
いかに、これまでの人生が表面的なものごとでなりたっていたのかに気づいた瞬間でもありました。

それでなくても自分が誰かわからないでいたのに、それまで拠り所としていた過去の自分もなくなってしまったわけですから、ますます自分がわからなくなっていました。

まさに、「私は誰? ここはどこ?」という状態でした。

日本に帰って、あまりにも自分がまわりとかけ離れてしまったので、同じように赤い服を着た人達のいるOshoの瞑想センターに行くことにしました。

ところがその日本の瞑想センターに行ってみると、いつもは赤い服を着て、マラを下げた人達だったのに、赤い服ではなく普通の服を着ている人たちがそこにいました。

瞑想センターの受付に行くと、
「どうしてそんなカッコウしているの?」と聞かれる始末です。

聞くところによると、1週間前にOshoは「ノーマラ、ノーレッドクローズ」というふうに宣言したのだ、ということでした。
アメリカでは、さまざまなことが起こり、アメリカでのコミューンの建設に反対する政府や社会からの敵視があり、赤い服を着ていることでサニヤシンが危険になることがあったので、その配慮からでした。

こんな服装して、これからどうやって生きていくのだろうと、不安と緊張の入り交じった、張りつめていた気持ちだっただけに、もう赤い服を着なくていいと聞いた時は安堵した気持ちがそこにありました。

Oshoがアメリカから国外退去を命ぜられ、ワールドツアーに出たと知らされたのは、それから1ヶ月もたたない頃でした。(その後のアメリカで起こったことについてはシュンニョの「和尚とのダイヤモンドの日々」をお読みください。https://oejbooks.com/2015/07/08/conspiracy-of-poisoning-of-osho/ )

Oshoはそのことを予見し、サニヤシンを守るために、その宣言をしたのだろうということはあとでわかりました。

ソクラテスは毒殺され、キリストは十字架に架けられ、仏陀もそれまでの既存宗教からは異端児だったし、その弟子は迫害され、石を投げられ、殺された人たちもいるといいます。仏陀が毒キノコを食べて亡くなったのも、毒殺によるものだとの考察があります。

歴史は繰り返される。

Oshoも、まさにそのような危険にあったということはあとで聞されたことだでしたが、そんな危険を冒しながら、この世界に意識の革命をもたらしたのがOshoの人生だでした。

そのOshoのまわりには、実にユニークで、素晴らしい人達、そして変わった人達が、世界中から集まってきていました。

あれほど楽しく、愛に満ちたすばらしい世界はこれまでに経験したことがなく、Oshoのまわりの世界はまさに別世界の体験でした。

次回は、どんな人達がOshoのまわりに集まっていたのかということを、少し書いてみようと思います。