自分自身であること

自分自身であることは
満足するために必要なものすべて──
自らの生に意義と重要性を
与えるものすべてをもたらす
ただ自分自身であり
自らの本性に従って成長していけば
あなたは天命を全うするだろう
   ──Osho 「ゴールド・ナゲッツ」

Oshoの言葉は、ひとこと、ひとことが深く熟考する言葉となります。
そのひとこと、ひとことが瞑想の言葉とも言えます。

ゴールド・ナゲッツには、そういうOshoの英知の言葉が編集されているので、毎朝、そのひとことを読むだけでも、自分の人生を振り返る機会となります。

「自分自身であること」という言葉でさえ、深く考えていくと、それだけでも1冊の本にもなるでしょうし、一生のテーマともなります。

ある意味、私自身も「自分自身であること」、そもそも「自分は誰か?」ということを求めてOshoに出会ったのですから。

「自分は誰か」と問うことは、それだけでも、人が人生を生きるにあたっての永遠の問いともなります。
その問いを問うことが禅の公案にもなっています。
インドの聖者、ラマナ・マハシリは、その問いを問うことで悟りを得た人として有名です。

「自分は誰か?」という問い、あるいは「父母未生以前の本来の面目如何?」という禅公案は、頭で考えても解くことができない問題でもあります。

だからといって最初から考えない、というのではなく、頭で考えて、結局どこへも行き着かない、ということがわかって、はじめて頭以外の解決策を求めることになります。

あるいはその公案を考え抜いた末、突然、頭(マインド)から外れて、悟りの一瞥をえるかもしれません。

それは、自分が自分だと思っているのは本当の自分だろうか?
ということから問いを考えることからはじまります。

少し考えればわかることですが、「自分だ」と思っているのは、実は生まれてからこれまで人から聞かされ、その情報をもとに自分が受け入れ、信じ込んできている、人からの意見の寄せ集めでしかありません。

赤ん坊や幼児は白紙の状態で生まれてきますが、そこに両親や家族や教師や社会からのさまざまな情報が入り込んできます。

それらのまわりからの自分に対する評価や期待、自分の経験や社会のもろもろの規則や信念などを聞かされ、それを意識的、無意識的に受け入れていく中で、子供の中に自我が形成されます。

私たちは、そのようにして掲載された自我を自分だと思ってしまっていますが、それが果たして本当の自分自身なのでしょうか?

その「自分」が両親の評価や期待の寄せ集めだとすれば、自分が望んでいると思っていること、例えば家を継ぐことやいい大学に入って、いい会社に就職することは、本当に自分の心から望んでいることなのでしょうか?

もしそれが、本当に自分が野人でいることでないなら、その欲望を満たしても、それは自分自身を生きることにはならず、人の期待を満たすための人生だったということになってしまいます。

そういう意味では、NHKの朝ドラの「まっさん」は、家の酒造ではなく、ウイスキーを作りたいんだという自分のやりたいことに気づいて、その自分自身に正直に生きた人でした。
だから彼は、たとえどんなに苦しんだり、苦労したとしても、満足する人生を歩んだ人なんだと思えます。

もちろん社会生活を生きるうえで、愛する両親の望みやまわりの期待に応えることは意味あるものであったりもしますので、それを否定する必要はないですが、
実は本当の自分のやりたいことは、それとは別のところにあるのであれば、その自分に正直に生きることが、本当に幸せな人生を生きるためには必要なことになってくのだと思います。

そういう自分自身がわかっていれば、社会の評価や周りからの期待とは関係なく、自分自身にとっての幸せとは何か、ということがわかるようになります。

それがわかっていれば、社会やまわりから評価されなくても、自分自身に取っては満足し、幸せな人生は送ることができるでしょう。

幸せかどうかは結局は自分が幸せと思えるかどうかだけの問題にすぎません。
でも、自分自身がわからないかぎり、自分の幸せがなんなのかさえわからないでしょう。

自分自身を生きていなければ、結局は人の人生を生きていた、ということにもなりかねません。
しかし、
自分自身であることさえできれば、自分にとって何が本当に満足を与えてくれるものかがわかるし、自らの本性に従って成長することもできるるようになります。
それが自分自身の天命を全うすることになるでしょう。

だから自分の人生の目的や使命、意味、あるいは人生のゴールを考える上では、自分とは本当は誰なのか、ということを問うことは大切です。
それがわかれば、天命を全うすることができるでしょう。