Oshoの講話の聴き方

今回は、Oshoの講話の聴き方についてです。

Oshoの講話は、とても多次元に渡っているので、さまざまな見方、聴き方が可能です。

それは別にOshoにかぎったことではなく、なんであれ、ものごとを深く見ることができるかどうかは、その人の感受性によるものです。

一流の画家のこの世界を見る見方、一流の音楽家の音を聴く聴き方、詩人の世の中を見る見方は、おそらく一般の、その訓練や感受性がない人が見たり聴いたり、感じたりする世界とは別の世界でしょう。

あるいは、例えば同じ人を見る場合でも、その人を愛している人がその人を見る見方と、その人を嫌っている人がその人を見る見方では、同じ人を見てもまったく異なった印象を受けるでしょう

同じように、Oshoの言葉を聞き、Oshoを見ていても、受け取る人によって、さまざまに受け取られていることと思います。

いつもOshoの講話のビデオの最初に「言葉で分かち合われる静寂」という文字が流れます。

あれだけの言葉を語りながらも、Oshoがわかちあっているのは、言葉ではなく、静寂なのです。

禅でも、あれだけの公案や言葉を語りながら、そこで教えていることは不立文字 教化別伝だったりします。

道元も「正法眼蔵」などの難解な分厚い書物を残しながら、最終的には、只管打坐というひと言だったりします。

Oshoの言葉も、そのようにOshoが語りつづけているのは、単なる仕掛け。

その静寂のなかで、伝わるべきものが伝わるということです。

新約聖書でもイエスはしばしば「聞く耳のあるものは聞きなさい」というふうに語りかけています。

Oshoは、最初は私の言葉を聞いていることからはじめていれば、そのうちサイレンスも聞くようになるだろうし、最初は目に見えるものを見ているうちに、目に見えない存在を感じることができるようになるだろうと語っています。

かといって、Oshoが何かをしているわけではなく、私たちが何かをしなければならないわけでもありません。

Oshoの言葉を聴いているうちに、あるとき、たまたま、偶然に、突然、あなたはそれまで聞かなかったこと、見ていなかったこと、感じられていなかったことに気づくかも知れません。

それは起こるかもしれないし、起こらないかもしれません。

それが起こるときには、ほんとにある日突然起こることなので、起こってみないことにはわかりません。

何が起こるかは、起こってみてのお楽しみ。

言葉を越えたものなので、Oshoとしても話しようがないのでしょう。

そんなOshoの講話をお楽しみください。

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今日はここまでとします。

えたに