瞑想していいときと悪いとき

Oshoの講話を聴いていると、常に矛盾したことを語り続けています。

Oshoはよく、自分の話からドグマ(教義)をつくることは不可能だと語っていますが、その理由のひとつは、Oshoの話はすべてが対機説法によっているからです。

仏陀の話も対機説法を集積し、弟子たちがそれらの言葉を集めて編纂したものですが、Oshoの話も、さまざまな質問に答えたものであったり、さまざまな経典などをもとに話していますが、その話は常に、そこにいる一人ひとりに語りかけているものなので、聞いている人が違えば、その時々に話すことは異なってきます。

この事情について、Oshoは次のように語っています。

「瞑想していいときと 悪いとき」について、

Oshoは語ります。

時にはあなたがたの間に
瞑想をすべてやめた方がいい人たちがいる
その志向ゆえに 瞑想までもが
ひとつの気負いとなって 障害になるからだ

あるいはまた
その人の意向にまったく反して
瞑想を強制しなければならない人たちもいる
なぜなら人によっては
ある種の力み 緊張がなければ
変容が不可能なことがあるからだ

こういったことに関する技は実に微妙だ

ある種の緊張が必要なときがある
たとえば弓で矢を引くときには
一種の力みが要る
それがなければ矢は放たれない
だが、強すぎる緊張は
矢を折ることもあるのだ

瞑想は必要だ
一心不乱に努力して瞑想することが必要だ

しかし あなたがたはいつ始めて
いつ終るべきかがわからない
それを私はようく見ていなければならない

だから時折私は
「瞑想をやめなさい!」と言う
ところがあなたがたはそれが理解できない
というのも私はつねに
「瞑想しなさい!」と教えているからだ

それにまた 私は「瞑想に入りなさい」
と言わなければならないこともある
するとまた あなたがたには理解できない
それというのも 私が日頃
「努力など必要ではない 
それが来るときには来る

それはハプニングなのだから。。。」
などと教えているからだ

私のいる状況をわかって欲しいものだね
しかも私が働きかけなければならない人たちの数は多い
だから私は大いに矛盾したことを言い続ける

一人にはあることを言い
別の人にはその反対を話す
なぜなら人はみな 一人ずつ違うからだ

私がどんなことを話そうと
それは個人に向けられている
もし私が何かを言うとしたら
私はまさにあなたに
語りかけているのであって

他の誰にでもない

       「あなたが死ぬまでは」より