本物の宗教と偽りの宗教

スティーブ・ジョブズは「電話を再定義する」と言ってiPhoneを作りましたが、Oshoは宗教を再定義して、宗教を作りませんでした。

宗教(しゅうきょう、英: religion)とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである(Wikipedia)、と定義されています。
Oshoはその観念体系、教義、儀礼、組織のすべてを否定しました。

そのために、あらゆる既存の宗教から非難を受けることにもなり、迫害も受けたわけですが、それは私たちが真の宗教を取り戻すためであって、宗教そのものを否定したわけではありません。

Oshoは仏陀やキリスト、老子、マハヴィーラをはじめとする、光明を得て、現在の既存の教祖となっている人たちについて、そして、その経典について多くを語りましたが、それはそのオリジナルの教えに戻るためであって、教義、儀式、組織となってしまい、本来の教えが失われてしまっている既存宗教に対して、宗教を再定義するためでもあったのです。

そして、それらの仏陀やキリスト、老子、マハヴィーラたちが生きて教えた時代と、現在とは人々の生活様式やマインドがまったく異なってしまっているので、それらの教えも本来の教えの主旨が伝わらなくなってしまっているという状況が生じています。

ですから、Oshoが今語っていることというのは、もし今、仏陀やキリスト、老子、マハヴィーラがこの世に現れたら、どういう教えを説くのだろうか、ということでもあるように思われます。

ではOshoのいう宗教とはいかなるものでしょうか?

Oshoは語ります。

この宗教 religion という
言葉は大変美しい言葉だ
これは religere という
言葉に由来しているが
religere とは再結合する
ふたたび結ばれて一体となる
という意味だ

誰と結ばれるのだろう?
自分自身とだ!
自分の存在の源泉とだ

それにまたなぜふたたび結ばれるのかな?
これは あなたがたがその存在の源泉と
すでに結ばれているからだ
これは再結合だ
あなたがたがその源泉に近づくのは
これが初めてではない
そうでなかったら
あなたがたはいったい
どこから来たというのだ?

では、本物の宗教と偽りの宗教との違いは何でしょう?

Oshoは語ります。

宗教は儀式ではない
宗教とは 
あなたがたがたが行う何かではなく
あなたがたが「なる」何かだ
したがって 社会には偽りの宗教が
存在する可能性はいつでもある

偽りの宗教は 内面的な変容が
外面的な儀式におき換えられたときに出てくる
そうなると人はさまざまなことをやりつづけ
それは深く根づいた習慣になるが、
何も達成されることはない

人々は教会や寺院に通っては
同じ祈りをくり返しくり返し献げるが
何ひとつ起こらない

道をたどる途中どこかで
彼らは見失ったのだ

道のどこかで彼らは
本物のコインを失くしたのだ

それでニセのコインを
あててそれにおき換えた

このことを憶えておきなさい
つまり真の本物の宗教は
あなたがたの在りざまに関わるものであって
あなたがたのすることに関わるものではない
ということを

それはあなたがたの外側の生き方と
なんら関係はない
それは内部の中心(センター)と関係がある
中心に変化があれば
当然ながら外面はそれに従う

だからあなたがたの外側の生活にも
変化が起こってくる

だがその逆が真実とはならない
外側を変えることはできても
それが中心を変えることはありえない
それにその場合 
あなたがたは偽善者の生活を

偽善の生を生きることになる
中心とはちがった外面をもつことになる
いやちがっているだけではない
正反対のまったく逆の外面をもつことになる
そうなったらあなたがたは
二つに分裂するだけだ

「あなたが死ぬまでは」
 第八章 これもまた過ぎ去る