OSHOのドライブ

OSHOがアメリカにいた頃、毎日ドライブしていたそうなのですが、スピード違反のチケットを2回切られたそうです。

それだけではなく、OSHOのドライブには、いつも秘書とか身近でお世話をしている人が同乗していたそうですが、その運転たるや、尋常ではなかったようです。

私が運転するときも、いつもスピードを出しすぎているようで、1度ならずパトカーに追いかけられたこともあり、いつもスピードを出しすぎていると同乗者から苦情を言われつづけるのですが、OSHOに比べれば、ずいぶんおとなしいドライバーなんだと思います。

あるとき制限速度を超えて走っていたときに、後ろにも友人がついてきていたので、その後ろを追いかけてきたパトカーに気がつかずに、捕まってしまったことがあります。

そのときに、その警官に「同じスピードで走っていたのに、どうして後ろの車をつかまえないんだ?」と聞いたことがあります。

そうすると、その警官が言うには、「先頭を走っている方を捕まえる」のだそうです。

それを聞いてからは、先頭を飛ばすのではなく、飛ばしている車を見つけて、そのあとをついて飛ばすようにしています。

それはともかく、今回は、OSHOはどんなドライバーだったかというエピソードです。

それではOSHO秘話ヒストリアシリーズ、第5話をお楽しみください。

シュンニョは書いています。

OSHOは運転の練習をはじめました。
OSHOはヴィヴェックと一緒に城館の階段を降りてくると、グルジェフ風の黒いロシア帽を3人の同乗者にかぶせ、自分でハンドルを握りました。

OSHOの運転するオープンカーは、帆を開いたり閉じたりしながら、丘を下っていきました。
OSHOは運転しながら、運転席のいろいろなボタンを試していたのです。
見ている私たちは驚いてしまいました。

まさかOSHOが運転するとは思っていなかったのです。
OSHOが運転するのは、少なくとも20年ぶりだったはずです。

OSHOはインドの小型車しか運転したことがなかったでしょうし、そのうえインドは左側通行でした。
ともあれ、それは素晴らしい光景でした!

毎日、OSHOはヴィヴェックとドライブに行きましたが、それには彼女のほかに、ふたりの人が招待されました。
ある人にとっては、それは想像を絶するドライブでした。

青ざめた顔で、震えながら戻ってきたものです。
城館に戻ってきたヴィヴェックが、神経をなだめるための強いウイスキーを求めることも1度ならずありました。

OSHOは高速で運転するのが好きでした。
OSHOこそ路上を運転する唯一の「目覚めた人」であり、だから彼の運転はだれよりも安全なはずなのに、OSHOの車が大きくふくらんで曲がり角を曲がったりすると、同乗者たちは「あっ」とか「うっ」とかいう叫びを押さえきれません。

OSHOはいつも高速車線を走りました。
OSHOは何度か「車のなかにはあまりにも多くの恐怖がある」と言いました。
一度、OSHOは車を止めて「もっとみんなくつろがないなら、私は車の運転を一切やめる」と言いました。

後部座席に座っていた人が「さっきもうすこしでぶつかりそうでした」と叫ぶと、OSHOは「それはあなたの判断(ジャッジメント)だ」と言いました。

OSHOの調理係をしていた意気盛んな60歳の女性、エルグーンは、暗い嵐の晩にOSHOとドライブをしましたが、それはこれまでの人生でももっとも高揚する体験だったと言いました。

あとからOSHOは、ドライブ中に、ほんとうに「今ここ」にいられたのはあなただけだったとニルグーンに伝えました」

そういえば、思い出すのはインドでのタクシードライバーたちの運転です。

今でこそ高速道路ができましたが、以前は舗装もされていないような道をボンベイからプーナまで4時間ほどかけてタクシーで行ったりもしたのですが、そのタクシーの運転たるや、まさに命がけでした。
高速でぶっ飛ばしながら、前のトラックの荷台と30センチも離れないようにくっついて走るのです。

前の車がちょっとでもブレーキを踏んだらアウトのような状況です。
追い越したり追い抜かれたりしながら、車の雑踏のなかを走り抜けるのです。

そういうインドでの車の運転に慣れていたら、少々の車の運転には驚かなくなります。

それにしても、みんなが青ざめるような運転をしながら、「もっとみんなくつろがないなら、私は車の運転を一切やめる」というなんて、マスターなんだかだだっ子なんだかわからないよなー、と思ってしまいました。

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)