OSHOのアメリカでの沈黙

1981年6月にOSHOはアメリカに渡り、それから1985年に再び語り始めるまでの間、3年半に渡って、沈黙(サイレンス)の期間を過ごしました。

その間、ごく一部の限られた弟子との限られた会話以外にパブリックで話すことはありませんでした。

それまでプーナでなされていた講話や限られた少人数の弟子たちとの質疑応答などのダルシャンなどもなくなり、一切の活動をやめてしまったかのようでした。

当時OSHOの本を読みはじめていて、いつかOSHOに会いに行きたいと思っていた私にとっては、もうOSHOには会いに行けなくなってしまったのかと思って、大いなるショックと失望を感じたものです。

それにしても、沈黙に入る前のプーナでは、OSHOは1週間に100冊の読書をこなしていたとは、驚きです。

しかも、その読書のなかで、それらのOSHOの読んだ蔵書の少なくとも数百冊に、絵まで書いていたのです。

シュンニョは、このプーナでのOSHOの活動と、アメリカに渡ってからのOSHOの沈黙について、次のように書いています。

シュンニョは書いています。

OSHOは講話をやめて沈黙(サイレンス)に入りました。
そのころのOSHOは、以前にもまして透明で壊れやすく、肉体の内側にいる度合いが少なくなったかのように感じられました。

「あなたがたに話をしているおかげで肉体に留っていられるのだ」と彼は良く言ったものですが、確かに月日が断つにつれて、彼の大地との結びつきは薄れていくようでした。

プーナでのOSHOはいそがしい一日を送っていました。
6時に起床、朝の講話、1週間に100冊の読書、すべての新聞に目を通し、ラクシュミ(当時のOSHOの秘書)と打ち合わせをして、そして夜の講話、さらにサニヤスを授けたり、エナジーダルシャンをしたりしていました。

そういう彼がいまでは(アメリカでは)静かにひとりで部屋に座っていました。
彼はいまでも6時に起床し、それから長い時間をかけて風呂に入ると、専用のプールで泳ぎ、それから音楽を聴いたりしていましたが、1日に1度のドライブのとき以外は、弟子たちに接することがなくなりました。

何年ものあいだ自分の部屋で静かに坐っているというのはいったいどんな体験なのでしょう。
それについて、OSHOは初期の講話でこう語っています。

「話したり、食べたり、歩いたりといった、いかなる活動にも従事していない時の彼(神秘家)にとって、ただ呼吸することが至福に満ちた体験となる。

そういうときには、ただ在ることが、呼吸の出入りが、比類のない至福をもたらす。

それはあたかも音楽のようになる。それはナーダ(作り出された音とは違う内面の音)に満たされている
      「The Mystic Experience」

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)