OSHO 衝撃の宣言

シーラがアメリカのコミューンを出てしばらくしたあと、OSHO は衝撃の宣言をします。

サニヤスムーブメントの時代が変わった瞬間です。

私は、ちょうどこの激動のアメリカのコミューンに2週間ほど滞在していたので、この場の雰囲気というのはよくわかるのですが、背後で起こっていたことについてはまったく知りませんでした。
ちょうどいろんな調査がコミューンで開始されたころで、いろんな噂がちらほらと耳に入りはじめた程度でした。

私がアメリカのコミューンに到着した日に「昨日シーラがコミューンを離れた」という噂を耳にし、このOSHO の宣言がなされたのは私がコミューンを出てからのことでした。

その後私は、しばらくカリフォルニアにいたサーファーの友人を尋ねていて、カリフォルニアの寿司屋でアルバイトしたり、ビーチで遊んでいたので、こんな宣言がなされていたとはつい知らず、しばしアメリカでの生活を楽しんでいました。

日本に帰ってしばらくして、赤い服を着て、OSHO の顔写真のロケットのついたマラを下げて日本の瞑想センターを訪れると「どうして赤い服を着てるの?」と言われて、きつねにつままれたのを憶えています。

と同時に、赤い服を着なくてすんだということについては、ほっとしている自分もいました。

みんながネズミ色の背広を着ている東京で、男性が上下まっ赤な服を着て、マラを下げて歩いていると、どれだけ周囲から浮くことか。

最近、たまたまハロウィンの日に渋谷にいたのですが、大勢の若者たちがが仮装して歩いていたので、最初はそれがハロウィンの仮装だとは知らず、どこか異次元の世界に迷い込んだのかと思ったぐらいです。
当時、赤い服をきて東京の街を歩くのは、毎日がひとりでハロウィンしているっていう感じでした。

こういう宣言をした背景には、OSHO が述べているように、独裁政権に支配される可能性をなくすと同時に、シーラの犯罪が明るみに出て、ひと目でサニヤシンと分かる人たちが社会で迫害を受けないための配慮もあったのだろう、という話も聞きました。

当時はOSHO のサニヤシンたちはオレンジピープルというふうにも呼ばれていて、どこを歩いていてもひと目でそれとわかる、いでたちでしたから。

このような宣言がされたとはいえ、みんなはそのあともOSHO の顔写真の着いたペンダントのマラは付けていた人たちが多くいました。
赤い服も、徐々に普通の色に変わっていきました。

OSHO の宣言とは次のようなものです。

シュンニョは書いています。

「1985年9月26日の講話。ダイヤモンドをカットするにはダイヤモンドが必要です。
OSHO が次のように語るのを聞いたとき、これから起ころうとしていることは、私たちにとって苦い体験になるだろうと予感しました。

「今日はとても重要なことを宣言したい。
おそらくこれから言うことは、シーラとその仲間たちがあなたがたを搾取するのに役立っていたかもしれないと思うからだ。

私が明日もここにいるかどうかはわからない。
それなら今のうちにこれをしておいて、ふたたびあなたがたがあのような独裁政権に支配される可能性をなくしておいたほうがいいからだ。

すなわち、今日からあなたがたはどんな色の服を着てもいい。
このまま赤い服を着ていたいならそれもいいだろう。
このメッセージは世界中のすべてのコミューンに伝えなさい。
すべての色がそろったならばより美しくなる。
あなたがたが虹のすべての色合いの服を着るのを私はいつも夢見ていた。

今日からは虹を私たちの色としよう。

2番目のこと──マラを返しなさい。
そうしたくないならそうしないでもいい。
それはあなたの選択だ。
だがこれからはマラは不要だ。
コミューン代表のハシャにマラを返しなさい。
マラを持っていたければそれも自由だが。

3番目のこと──
これからはサニヤスのイニシエーションを受ける人には、
マラも与えないし、赤い服を着るようにとも言わない。
そうすることで私たちはもっと簡単に世界に広がってゆけるだろう!」

OSHO の言葉には不吉な響きがありましたが、それでも拍手と歓声が聞こえ、私はぎょっとしました。
まるでおろかな群衆です──
シーラのミーティングでの拍手とまったく同じでした。

ラジニーシマンディールを出る多くの人たちは大喜びで、いろいろな色の服を買いにブティックに行きました。

私はヴィヴェックに会いました。
私も彼女もこの変化から不安を感じていました。
彼女は私に言いました。「彼はつぎにはコミューンを解散するかもしれないわ」

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)