OSHOのワークへのアメリカ政府の圧力

OSHOがアメリカを出てからも、アメリカ政府のOSHOへの圧力は続きました。

各国に圧力をかけてOSHOを入国できないようにして、インド政府にも圧力をかけて、外国からのサニヤシンがOSHOに接触できないようにしたのです。

そのような状況から、OSHOはインドを出て、ワールドツアーに旅立つことになります。

OSHOのワークを継続するにはインド人のサニヤシンではなく、西洋人のサニヤシンを必要としていたのです。

その理由は、「インド人の弟子たちは瞑想はするが、私のために何かをする意欲はなく、西洋人の弟子は私のためになんでもするが、瞑想する意欲はない」というものでした。

OSHOのメッセージを世界に広げ、OSHOのワークを遂行するには、西洋人の弟子を必要としていたのです。

シュンニョは書いています。

アメリカ合衆国の法務長官であるチャールズ・ターナーは、合衆国政府のつぎのような意向を明確にしました──

OSHOをインドに隔離して、外国人の弟子たちと接触できないようにしなさい、外国の報道関係者との接触を制限し、言論のいかなる自由も許してはならない。

OSHOのワークを消滅させ、OSHOからのメッセージが世界に伝わらないようにするためです。

あきらかにインドは、アメリカからの強い圧力を受けていました。

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OSHOはしばしば日に2回、報道関係者に向けて話しました。
私たちは外に座り、弱々しい太陽の光を顔に受け、急流のせせらぎを背景にあれが話すのを聞きました。

「挑戦はあなたを強くする」という彼の言葉を覚えています。
インタビューアーに対するOSHOの忍耐強さは計り知れないほどでした。

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ニーラムがOSHOに昼食を用意し、彼と散歩に出かけていた日、私たち9人の西洋人はみな、クルの警察本部長のネギ氏からビザの延長を認めてもらいに行きました。
私たちはネギ氏と楽しくおしゃべりし、チャイを何度も飲ませてもらいました。
彼の方も、にぎやかな聴衆を前にして熊に喰われた旅行者の話をするのを楽しんでいました。

彼は「なにも問題はない」と受けあってくれました。
私たちは握手をすると、嬉々として車でスパンに戻りました。

翌日の12月10日、自分の部屋にいる私のところにデヴァラジが来て、私たちのヴィザの延長が無効にされたと言いました。

私は吐き気をもよおして、ベッドに座り込みました。
どうしてそんなことができたのでしょう? インドの出入国管理事務所の能率の悪さといったらひどいものです。
こんなにすばやい対応をしたということは、それが彼らにとって最優先の重要事項だったからにちがいありません。
インドの役所が、これほどすばやく仕事をするのをそれまで見たことがありません。

冬がせまってきた最近では電話をかけるのも大変でした。
天候が不順になってきていて、デリーへのフライトも終始キャンセルされています。
デリーにいるハシヤに電話しようとしても、なかなかつながりません。

一度は電話がどうしてもつながらないので、ハシヤは要件を伝えるために、私たちのところに飛行機で来たことがありました。

その日のうちに警察がスパンを訪れ、外国人はみな集めると「即座にインドを離れること」というスタンプをパスポートに押しました。

ヴィヴェック、デヴァラジ、ラフィア、アシュ、ムクタ、ハリダスは、ヴィザの延長を再度申請するためにデリーに向かったところだったので、わずか数分の差で警官に会わずにすみました。

ヴィヴェックがデリーに向かったその日の前日、私は彼女とニーラムとの会話を耳にしていました。ニーラムはヴィヴェックに言いました。

あなたがた全員がインドを出なければならないならOSHOはいっしょに行くと言っています」

ヴィヴェックはニーラムに言いました。
「どうか彼に私たちを追わせないでください。インドにいれば少なくとも彼は安全ですから」

ハシヤとアナンドはデリーにいて、高官たちとの面会の約束をとろうとしてさかんに活動していました。
当時の国内治安省大臣、アルン•ネルーはこの問題の核心にいた人物ですが、彼との面会の約束は何度も取り消されました。

ハシヤとアナンドはやっとある役人に会えたのですが、彼から「内密」に言われたのは、この問題を理解したければ、自分の仲間たちについて探ってみなさいということでした。

どうもラクシュミが内務省に手紙を送っていたらしいのです。
その手紙にはOSHOの外国人の弟子の名前が列挙されていて「OSHOの身の回りの世話をするのに、外国人は必要ない」と書かれていたといいます。

もともとはラクシュミが手紙に書いたその言葉を、私たちは役人たちから何度も聞かされるはめになりました。現実にはOSHOは外国人の弟子たちが必要でした。

OSHOは彼の「ワーク」のことを彼自身の生命にもまして大切にしていたからです。
OSHOのワークを遂行するには西洋人が必要でした。

OSHOはこんなふうにいいます。

「私のインド人の弟子たちは瞑想はするが、
 私のために何かをする意欲はない。
 私の西洋人の弟子たちは私のためになんでもするが、
 瞑想する意欲はない」

はじめ、私にはこのことがよくわかりませんでしたが、やがて実感することになります。

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OSHOはネパール行きの計画について話しました。
インド人はビザがなくてもネパールに入国できるので、それは簡単そうでした。

彼がこの辺境で少数の弟子たちに囲まれているだけでは、彼のワークは成長できません。
その弟子たちがOSHOを愛し、OSHOの世話をしてくれることは確実なのですが「そして彼は少数の弟子たちに囲まれてずっとしあわせに暮らしました」というのはOSHOにとって望ましい結末ではなかったのです。

彼のメッセージは、世界中の無数の人々に伝える必要があります。

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私たちが飛行機に乗るまで警官がついてきました。
デリーに到着した私たちは、小さなホテルで残りの人たちと落ち合いました。

ヴィヴェック、デヴァラジ、ラフィアの3人がまずはじめにネパールに向かい、宮殿を探すことになりました。
私たちはその翌日にネパールに向かい、カトマンドゥから180キロほど離れたポカラという町のコミューンに滞在することになりました。

2、3日後、ハシヤは2、3週間前になんの問題もなく与えられていたヴィザの延長を取り消されました。
警官がホテルにやってきて銃を突きつけ、彼女を空港まで連れて行きました。

1985年12月26日、カルカッタの「テレグラフ」紙は、つぎのように報道しました。

「政府はOSHOの外国人の弟子の入国を全面的に禁止することを決定した」

この決定を下したのは、内務外務大臣のアルン・ネルーで、インド大使館および各地域の外国人登録事務所は「OSHOの弟子であることが判明した外国人にはヴィザの発行も延長も認めてはならない。そういう人物には観光ヴィザを発行してはならない」という通達を受けていると書かれていました。

政府によるこうした措置を合理化するための理由というのはこうでした──OSHOはCIAのスパイだと疑われています

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

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