恋人が親友と恋に落ちたら?

自分の恋人が親友に恋に落ちたら、あなたならどうするでしょう? 
それは、あなたの愛が試されるときです。

Oshoが話していることというのは、単なる理想論でもないし、哲学でもありません。
それはまさに現実的な生き方なのです。

Oshoは自分が話すことを、そのまま生きている人です。
それは彼自身の体験であり、彼自身の生き方なのです。

ところが、Oshoのような境地に達していないと、そのような現実に直面したときに、これまでの条件付けがじゃまをして、そう簡単にはOshoがいうようにはいきません。

シュンニョの恋人ミラレパが、彼女の親友でもあるヴィヴェックに恋すれば、うろたえるのがあたりまえです。

それに対するOshoのアドバイスとは?

シュンニョは語ります。

「彼(ミラレパ)はほんとうに女たちを追いまわしました。
 ミラレパはヴィヴェックが好きになり、ふたりは夜をいっしょに過ごしたがりました。

うろたえている私を見て、Oshoがどうしたのかと尋ねたので、私は事情を話しました。

Oshoはこんな意味のことを言いました

―――OSHOのまわりにおいてさえ、
ほかの人と楽しむ自由を
自分の恋人に許せないようなら、
私たちは世間の人たちとまったく同じようにふるまっているということだ。
「ここでそれが不可能なら、どこでそれが可能だね?」
とOshoは言いました。

この単純な言葉にこめられた真実にはっとして、私は意識の方向を変え、それを理解しました。

正しい遠近感をもって状況を見られるようになった、と言ったほうがいいかもしれません。

Oshoがこれほどの愛と忍耐を持って私たちといてくれるのですから、自分のふたりの友だちが一緒に時を過ごしたがったからといって、それほど大騒ぎする必要はないと思えてきたのです。
ただ気楽に受け止めればよいと思えてきたのです。

私がOshoとともにあるのは、だれかと結婚したり、申し分ない関係を結んだりするためではないということを、私は何度も自分に言い聞かせました。

もしも、そのようなことが目的だったなら、私はコーンウォールの故郷にとどまり、気のいい農夫か漁師とでも一緒になっていたことでしょう。

ボンベイでの6ヶ月のあいだ、私はミラレパとヴィヴェックがイライラしがちになったのに気づきました。
ふたりはウルグアイを離れてからお互いへの関心を失ったようでしたし、ヴィヴェックはラフィアと一緒にいると、ずっと幸せそうでした。

ですがラフィアが遠くに行ったいま、ミラレパとヴィヴェックの間に、なにか抑えているものがあり、緊張した雰囲気が漂いだしたのに気づきました。

ふたりがふさいでいるので、ある晩のこと、私は抜けだして友人のアパートに泊まりました。
つぎの日、ふたりはとても幸せそうで、おかげでみんなの雰囲気まで変りました。

私はふたりに「あなたがたのじゃまをしないように出て行ったのよ」などとは言いませんでしたし、ふたりも私になにも言いませんでした。

ですが、こんなささいなことで私のふたりの親友がしあわせになれたことを見たのは、私にとって「突破口」とも呼べる体験でした。

「私の仲間たちは私を通じて互いに結びついている」
とOshoが語るのを聞いたことがあります。

私の恋人のOshoへの愛は、私にも精気を与え、ふたりの愛を豊かにしてくれます。

私たちは結局のところ道の途上にあるふたりの探求者なのです。
道の途上でふたりが出会えたのは、ボーナスのようなもの、存在(エグジスタンス)の気前のよさを示すひとつの事件のようなものです。

愛にあふれるOshoのような人をともに愛するようになったとき、ふたりの関係には新しい次元が加わっています。

ミラレパからの詩や質問にOshoが答えるときにはいつも、私はとても感動しました。
自分の詩や質問に答えてもらったときよりもずっと深く感動しました。

 「Oshoと過ごしたダイヤモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)