OSHO毒殺の陰謀

今日からは「OSHOと過ごしたダイヤモンドの日々」の17章、タリウム──OSHO毒殺の陰謀──よりお届けします。

タリウムというのは、OSHOがアメリカ政府に逮捕され、刑務所を理由もなくたらいまわしにされたときにOSHOに盛られた毒の名前です。

痕跡を残さず、症状からしか特定できないのですが、OSHOの身体は日に日に筋弱し、痛みは耐え難いものとなり、免疫力は落ちるばかりでした。

そのなかでOSHOはボンベイからプーナに戻り、最後のワークを再開するのです。私が毎年OSHOのもとに通って体験したのは、この時期です。

アメリカのオレゴンの時代にも少し訪れたことがありますが、そこでのワークとインドの最後のOSHOのワークとは、まったく質を異にしたものでした。

今から思えば、それはほんとうにOSHOの渾身を込めたワークだったのだということがよくわかります。
この1987年から1990年までの3年間に、OSHOは本にして48冊分の講話をしました。

OSHOは、その時期のおよそ3分の1は病に伏していたことを考えると、これは驚異的な量です!
しかも、インドに帰ったからといっても、政府などの対応は、OSHOの母国なのに、ワールドツアーのときと状況はさほど変わらなかったのは驚きです。

シュンニョは、そのときの状況を次のように語っています。

『1987年1月のはじめにプーナに戻ってきたとき、私は前に、そこを離れたときから、100歳以上も年をとったかのように感じました。

私はそのあいだに、何回もの生、何回もの死を味わいました。
花の咲きみだれる庭園にもいました。
その庭園が破壊されるのも見ました。

それでもOSHOは、いまだに進みつづけていました。
彼は今もなお、人間の生得の権利と彼が呼ぶところの光明ヘと向けて、私たちを導こうとしていました。

1987年から1990年までの3年間に、OSHOは本にして48冊分の講話をしました。その時期のおよそ3分の1は病に伏していたことを考えると、これは驚異的な量です!

OSHOはボンベイに4ヵ月いたあと、1月4日の夜中の4時、プーナに到着しました。
アシュラムの門からの道には、彼を迎えるサニヤシンたちがずらりと並んでいます。車の後部座席で横になって眠っていたOSHOは目を覚ましましたが、起き上がらずに、毛布をかけたまま、みんなに手を振りました。夜中に起こされた小さな子供のようでした。   

3時間後、警察がやってきました。
OSHOがプーナに入るのを禁止する旨の令状を携えてです。

その令状は、OSHOがプーナに入る直前に渡される手はずになっていました。もし、道の途中でこの令状が渡されていたら、OSHOはプーナに入ったことで法を犯したことになっていたはずです。

ところが、OSHOは暑さと交通渋滞を避けて夜中にボンベイを発っていたので、わずが2、3時間の差で、警察はOSHOを取り逃がしました。

警察は強引にアシュラ厶に入り、ラオツーハウスヘ、そしてOSHOの寝室へとなだれこみました。OSHOはまだ眠っていました。OSHOが眠っているあいだに彼の寝室に入った人は、それまでひとりもいませんでした。ですからそれはとんでもない侵害、とんでもない侮辱として感じられました

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)