OSHOのダンス

シュンニョがここで書いていることを読むことで、その時期をOSHOとともに過ごした私には、そのときの体験がありありと思い出されます。

「そしてOSHOは、私たちと踊るようになりました。講話のためにチャンツー・オーディトリアムに入るときとそこから立ち去るとき、彼は私たちと踊ったのです。

音楽はワイルドでした。エネルギーが 雨のように降りそそぎ、火柱となって噴きあがりました」とシュンニョは書いていますが、これがどれほど強烈なものかは、その場でそのエネルギーを体験したものでないと、文字での表現にはかぎりがあります。

OSHOがダンスして、そのエネルギーを受けることがどんなことなのか!

OSHOが、今はサマーディとなっているチャンツー・オーディトリアムという小さな場所からブッダホールという数千人が入ることのできる場所に移って講和するようになったときにも同じようにOSHOは踊り、「ストップ・エクササイズ」をしていた時期にOSHOの講話を聴く機会にも恵まれました。

それは、まさにシュンニョが書いているように「私はOSHOに向かってなにか無意味な言葉を叫びます。叫ばずにはいられません。エネルギーはあまりにも強烈で、内側に抑えていることができなくなるのです」という状態になるのです。

まさに自分のなかに滞っていたエネルギーが浄化され、マインド(頭のなかにあった)がらくたを吹き飛ばし、からっぽにしてしまいます。ちょうどダイナミック瞑想をしたあとのようにすっきりとクリヤーになるのです。

そのあとの静けさのなかでOSHOの講話がはじまるのです。

そしてOSHOの目を覗き込むということが、どういうことなのか! 

私には一度そういう体験がありました。
Oshoがアメリカを出て、ワールドツアーの後、元いたプネのアシュラムに戻って、講話を始めたころに、私はOshoの講話を聞くためにインドのプネを訪れました。

当時は、チャンツー・オーディトリアム(老子館)という小さなホール(今はサマーディと呼ばれている場所です)で講話をしていました。

チャンツー・オーディトリアムは小さなホールなので、Oshoが講話をしている椅子と私が座っている場所と2〜3メートルしか離れていませんでした。

OSHOが講和したあとに椅子から立ち上がり、静かにナマステー(合掌)をして、みんなを見まわしながら立ち去っていくのですが、あるときそのOSHOの目と私の目が合ったところがあります。
その瞬間、バチッと音がしたような衝撃が私に起こりました。その思いがけない衝撃とともに、わけもなく涙が溢れ出し、その場を動くことができなくなりました。

講話が終わると、みんなはそのままその場を後にするのですが、私はとどめなく溢れ出る涙とともに、しばらく動くことができませんでした。なにかずっと自分のなかで長らく求めてやまなかったものが満たされるような感覚がありました。

その体験が私の人生を変えてしまいました。
シュンニョは、「この静止状態のなかで、OSHOが誰かの眼をじっとのぞきこむことがありま
した。その視線を受けるのはとてつもないことでした」と書いていますが、それはよくわかります。

私たちは当時、OSHOのダンスとともにあることを楽しんでいたのですが、そこでには「初期プーナに充満していたようなエネルギーをふたたびここに復活させるため、OSHOは大量の「ワーク」をしなければならないのだということでした」というOSHO意図があったのだということが、このシュンニョの手記から気づかされました。

私がOSHOのいるインドのプーナのアシュラムに通いだしたころというのは、まさに『彼は電気のようなエネルギーをもって雰囲気を一変させ、講話では炎のように語りました。彼はふたたびはじめたのです。私たちみんなと一緒に、ふたたび一からはじめようとしているのです』という時期でもあったのでした。

シュンニョは書いています。

そしてOSHOは、私たちと踊るようになりました。
講話のためにチャンツー・オーディトリアムに入るときと、そこから立ち去るとき、彼は私たちと踊ったのです。
音楽はワイルドでした。エネルギーが 雨のように降りそそぎ、火柱となって噴きあがりました。
私はOSHOに向かって、なにか無意味な言葉を叫びます。叫ばずにはいられません。
エネルギーはあまりにも強烈で、内側に抑えていることができなくなるのです。

それから「ストップ エクササイズ」がはじまります。
OSHOは踊りながら、私たち全員をどうにもならないような熱狂へとかきたてておいて、そして突然、静止します。

彼の両腕が中空で静止した瞬間、私たちもそのままの姿勢で凍りつきます。
この静止状態のなかで、OSHOが誰かの眼をじっとのぞきこむことがありました。
その視線を受けるのはとてつもないことでした。
鏡のような空をのぞきこむことになるのですから。

この時期、私はしばしば初期プーナでの 「エナジー・ダルシャン」を思いだしました。
私が感じたのは、初期プーナに充満していたようなエネルギーを、ふたたびここに復活させるため、OSHOは大量の「ワーク」をしなければならないのだということでした。

ふたたびプーナに戻ってきて、すっかり荒れ果てているアシュラムを見るのはさびしいものでした。
OSHOのいないあいだにプーナのアシュラムに残っていたわずかばかりの人たちには、建物や庭を充分管理できませんでした。

OSHOがプーナに一戻ってからも、最初の2、3ヶ月のあいだ、アシュラムにいる人たちはどこかから寄せ集めたようで、サニヤシンにいつも見られる活気と高揚感に欠けていました。

ゴアから流れてきたフリーク (インドを旅行する西洋人で、好奇心からアシュラムを訪れた人たち)、なりたてのサニヤシン、疲れはてた古いサニヤシン。そうしたところでした。

この最初の2、3週間のあいだ、オーディトリアムで私たちと踊るOSHOは、私たちが応えられる以上の全面性と力を発揮しているのがうかがえました。

彼は電気のようなエネルギーを持って雰囲気を一変させ、講話では炎のように語りました。
彼はふたたびはじめたのです。私たちみんなと一緒に、ふたたび一からはじめようとしているのです。
彼がどんな魔法を使ったのかはわかりませんが、それは効果を発揮していました。
サニヤシンたちが訪れはじめました。はじめのうちはおそるおそるでしたが。

それまでの2、3年間は、みんなにとってはげしい学びの時期でした。
多くのサニヤシンは、その間に世間での生活を築きあげていました。家、車、仕事……。
そして彼らはそうしたものを捨てるのをためらっていたのです。
それでも何百人もの人々が、そうしたものを「まるごと捨てて、びくびくしながらも目をしっかり と見開いてやってきました。

2月の終わりごろまでには、アシュラムはエネルギーで沸騰するようになりました!そうした祝祭の雰囲気のなか、OSHOは世界の状況について彼が感じることについて語りはじめました。

カリール・ジブランの『預言者』という本について話しながら、OSHOは次のように語りました。

『……それでもカリール・ジブランは、自分の夢を実現するためのいかなる試みもしなかった。私は試みた。それで痛いめをみる。

……

私は世界中を旅した。
そして、私の見いだした事実は、まったく疑いようのないことだとわかった。
その事実とは、現在あるような人類は、袋小路にたどりついたということだ。
現在あるような人類からなにかを期待するのは、まったく馬鹿げている。

少数の人々は救われるかもしれない。そして私は彼らのために、意識におけるノアの方舟を造ろうとしている。
ノアの方舟ができあがったときに はもう、救うべき人はひとりも残っていないかもしれない。
それは充分わかっている。
彼らはみんな、すでに自分の道を行ってしまっているかもしれない』

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)