問題の根本原因

時々、いろいろな問題がふりかかってきて、うんざりすることがあります。

どうしてこんなに問題がいっぱい、しかも一度にやってくるのだろうかと思うことがありますが、よくよく考えると、そのほとんどが自分で作りだしていることが多いことに気づかされます。

たとえばの話ですが、食事後に食器を洗っていて、コップを割って、手にケガをしてしまったとします。

それは薄いおしゃれな、お気に入りのワイングラスで、急いでいたので、ちょっと雑に洗っていて、手に力を入れすぎて割ってしまい、それだけではなく、そのガラスで手を深く切ってしまいました。

その傷が深くて治るのに数日かかり、その傷が直ったあとも傷跡が手に残ってしまいました。

手にケガをしたので、まわりは大騒ぎするし、割ったガラスの片付けをしなければならなくなるし、どうしてそんなヘマをしたのかと後悔して自分を責めたりします。

しかし、その原因を考えると、単にその瞬間、自分が注意深くなくて、皿洗いに注意を向けていなかったことに起因して引き起こしたことです。

これは単純な例ですが、いろんな問題を一つひとつ検討してみると、そのほとんどが自分の不注意から勝手に作りだしていることがほとんどです。

あるいは事前に準備していれば、その問題は生じなかったかもしれません。

問題が生じてしまってから、あとで考えると、その問題が生じたときにもっと注意深くあれば、あるいはその問題について、もっと深く見極めていれば起こらなかった問題であることが多いです。

そして、今生じてしまっている問題は、よくよく考えると、その問題についてこれまで目を背けてきたことであったり、じゅうぶん直視して検討してきていなかったことです。

そのように考えると、今ある問題は、もっと気づくようにという、存在から私に与えられた課題のようなものに思えてきます。

ですから、生じた問題というのは、その問題に不平を言ったり、まわりのせいにするのではなく、きちんとその問題を直視して、それがなんであるのかを見極める必要があり、その問題を見極めることができれば、問題は解消するでしょう。

つまり、今抱えている問題は、よくよく考えれば、そういう自分の不注意のツケであったり、問題を直視せず、きちんと見極めていなかったことにより生じたものなので、問題が生じているということは、その問題についての人生の課題を果たしていないわけで、課題をこなすまでは、その問題に直面させられることになのでしょう。

宿題をしないで、問題を放置していたり、気づかずにいたりすると、問題はさらに大きくなって人生にふりかかってきたり、何度も同じ問題がくり返されることになってしまうようです。

同じ問題が何度もふりかかってくるのであれば、なにか自分が果たしていない宿題がそこにあると考えた方がよさそうです。

Oshoによると、問題の根本原因は、それを直視しないことだといいます。

Oshoは語ります。

私たちの問題の多くは
それを直視せず
焦点を合せて、それがなんであるかを
見極めないからそこにある

ゴールドナゲッツ

これに関して思いだす、Oshoの言葉があります。

それは「ネガティブな感情は、それを直視すること(気づきをもたらすこと)で消えてなくなるけれども、ポジティブな感情は気づきをもたらすことで、さらに大きくなる」というものです。

たとえば怒りや恐怖の感情は、その感情に気づきをもたらすことによって消えていくけれども、愛や喜びは、そこに気づきをもたらすことで、さらに大きく広がっていく、というのです。

実際、試してみると、確かに怒りの感情などは、その感情が生じてすぐのときに気づけば、それは消えてなくなります。

でも、感情が大きくなってから気づいたときには、そこに気づきをもたらしても、その感情はそう簡単にはなくなりません。

自分がその感情、例えば怒りに気づきがないときには、すでに相手に怒りをぶちまけてしまってから、あとで気づいて後悔するのです。

Oshoは、それについては次のように説明しています。

たとえばマッチの火なら簡単に吹き消すことができるけれども、それが家に燃え移ってしまってからだと、そう簡単に消すことはできなくなる、と。

怒りの感情なども同じことで、ごく初期の小さな段階に気づけば簡単に解消できるけれども、感情が大きくなってからだと、解消するのは難しくなる。
それは不可能ではないけれども、気づきがそれだけ大きく育っていないと難しい、と。

でも、感情に気づく練習をしていくと、それらの感情が生じるごく初期の段階で、その兆候に気づくことができるようになります。

この練習をしている最初のうちは、怒ってから、あとで自分が怒ってしまったことに気づくのですが、だんだんと自分が怒っている最中に、自分が怒っていることに気づくようになります。

そして、さらに自分の感情に気づく練習をしていると、自分の怒りの感情が生じてきたときに「あ、今怒りの感情が生じてきている」というふうに気づくようになってきます。

つまり、それだけ自分の怒りの感情への気づきのセンス(感受性)が高まってくるのです。

そうすると、怒りの感情は、コントロールするまでもなく、ごく初期の段階で解消するようになりますし、相手に怒りぶちまけることもなくなります。

それはちょうど、マッチの火を吹き消すようなものだし、そもそも、そのマッチを擦って火をつける前に気づくようなものです。

そうすると、ある問題が生じたときでも、怒ることなく冷静に問題も対応できるので、怒ることに無駄なエネルギーを使わなくて済みます。
相手にいやな思いをさせずに済み、相手からのリアクションもなく、問題にも冷静に対応できるので、問題が問題ではなくなっていきます。

つまり問題というのは、それに気づかなければ大きな問題になったりすることでも、そこに気づきをもたらすだけで、問題が問題ではなくなります。

「問題」だと思っていたようなことでも、観点を変えて見れば、あるいは、より広い視野で見ることができれば、実は問題ではなくチャンスだと気づかされるようなことも多くあります。

つまり、私たちが問題だと思っていたことでも、そこに気づきをもたらすことで解消してしまったり、直視して見極めることで解決策がわかったり、あるいは視点を変えて、チャンスとして取り組むことができたりもします。

私たちの問題の多くは
それを直視せず
焦点を合せて、それが何であるかを
見極めないから、そこにある

今日は、このOshoの言葉を瞑想としたいと思います。

それではすてきな一日を。
Have a nice day