目覚めるということ

マスターの役目とは、あなたが目醒めることができるような状況をつくりだすことだ
とOshoは語っていますが、「目覚める」とはどういうことでしょうか?

仏陀は悟りを得たあと、私たちは夢幻(ゆめまぼろし)のなかに生きていると語っていますし、光明を得た人や悟りを得た人たちは、例外なく同じことを語っています。

また、光明を得ることや悟りを得ることを「覚醒する」というふうに言いますが、そのことも「目覚める」ことを象徴しています。

目覚める前の私たちは眠りこけて、夢を見ている人生を生きていることになりますが、眠っているというのはどういう状態をいうのでしょうか?

目覚めるというのは真の自己を自覚することであり、眠って夢を見ている状態というのは偽物の自己の概念に惑わされている状態です。

偽物の自己というのは、本当の自分ではないもの、社会や両親やまわりによって形成されたもののことです。

ところが私たちは子供の頃から、両親や社会やまわりからあなたについてのイメージやさまざまな概念、しつけを受けてきて、それが自分だと思い込んでいます。

自我が形成されていく過程で、そのようなまわりからの条件付けを受け入れながら自我を形成してきています。

そしてその自我を自分だと思っています。
その自我は自分の肉体、思考、感情、人格などによって構成されています。

そしてそれらの自我の意識は無意識に蓄えられます。

西洋の心理学では無意識の発見はフロイトによるものとされています。
そしてユングはさらに集合的無意識を発見したとされています。

しかしすでに仏陀の教えによる仏教では末那識・阿頼耶識など深層意識についてかたっていますし、唯識思想では意識について、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の八識の区別をしています。
さらに天台宗では阿摩羅識を加えて九識、真言宗ではさらに乾栗陀耶識を加えて十識があるとされています。

Oshoは意識を中心として、意識の下には無意識、集合的無意識、宇宙的無意識があり、意識の上には超意識、集合的超意識、宇宙的超意識があるとしています。

まず「目覚める」というのは、意識だけではなく、それらの無意識や超意識を含めた全ての意識に気づくということです。

つまり、無意識に支配されるのではなく、それらのいわゆる無意識の部分についても気づいていることができるということです。

無意識のなかにいる自我に気づくというのは、自分がその自我のなかにいる限りはできません。

それは夢の中にいて、その夢の中から醒めることができないのと同じです。

その夢から覚めるのは誰かに起こされるか、よほどの悪夢にうなされたときです。

夢から覚めるのはそう簡単なことではありません。

それは自分だと思っている自我から引き離されることでもあるからです。

自我が自分だと思っているかぎり、それらの自我から自分を引き離されるのは、皮膚のように自分の一部になっているものを引きはがすようなものなので、最初はそれを受け入れることなどできません。

それはまさに自我(エゴ)が傷つけられることなのですから、自我に対する同一化が強いときにはそれは不可能なのです。
自我が否定されるのは自分が殺されるのと同じように感じます。

現代の心理学によると、私たちは90%以上が無意識で支配されているようなのですが、それは自我の90%が無意識であり、さらにいえば、その無意識が自我を形成しているともいえます。

目覚めるというのはそのような自我(エゴ)から目覚めるということでもあります。

ところが私たちはその自我こそが自分だと思っています。

覚者から見れば、その自我は偽物の自己の概念でしかないのです。

そこで、その自我の夢のなかにいる弟子を夢から目覚めさせるために、禅ではマスターは弟子を打ちます。

それは弟子が無意識であることを指摘し、自我から抜け出し、今ここにいることができるようにするための方便なのです。

その禅でのマスターから弟子への一撃は、Oshoとマニーシャの間ではどのように繰り広げられたのか?

マニーシャの話は、どのようにマスターが弟子を目覚めさせようとしたのかということの一端がわかります。

マニーシャは語ります。

「今晩のOshoの講話は禅の先達、大慧の経文のシリーズからのものだ。
 弟子を打つという、禅の導師の一見狂気じみたやり方について彼は語る。

言葉で打つこともあれば、物理的に身体を打つこともある。
禅の導師は弟子をーー愛を込めてーー窓から放り出すことさえあると知られている!

手段はどうあれ、導師の一打の目的は、弟子を目覚めさせ、弟子の自我を露にすることにある。

誰かがあなたを打ち、そしてあなたは悟りを開く
Oshoは続ける。
頭はそれを信じることができない。
ある一打があなたの無知を破壊してしまう理由など、あるようには思えない

禅を学ぶことはできないし、導師が禅を弟子に与えることもできない。
なぜなら、弟子はすでにそれを内側に持っているのだから。
単に思い出す必要があるだけだ。

それはちょうど、喉まで出かかったある名前を思い出そうとするときに似ている。
たしかに知ってはいるのだが、思い出そうとすればするほど、緊張してしまう。

そんなときは、思い出そうと懸命になるのをやめたほうがいい。
リラックスして何か別のことをしているうちに……
そうだ! と突然思い出す。

一打は『あなたが緊張を忘れるのを助ける』とOshoは表現する。
当然、禅の伝統に親しんだことのない人々は、そんな行動に衝撃を受ける。

まだマニーシャには、
その期が熟していないが、
かりに私が彼女を突然、
いまここで打ったとしたら、
あなたに理解できるだろうか? 
おそらくあなたは『この人は気が狂ってしまった』と思うだろう

 『しかし、それはいずれ起こる。
 私は、ゴータマーブッタより
 もっと多くの人々を光明に導かぬうちは、
 この世を去るつもりはないからだ。

 私は誰が翼を持ち始めているのか、
 誰に一打の用意ができ始ぬているか、
 常に目を光らせているーー
 だから驚かないように。
 誰かが打たれたときは、
 それを祝いなさい!
 その人は光明を得たのだからーー

というわけで、私はまだ充分に熟していない。
おそらくOshoは、私の中にまだ青い果実を見ているのだろう。

その実は私の内側で堅く閉ざし、
己を守ろうと必死で枝にしがみついている。

たしかにサニヤシンになったばかりの数年間は、彼が私に与えた数打を、感謝を持って受け止めることができなかった。

その当時は、Oshoに打たれると自分自身に対して批判的になり、自己否定に走り、自分を痛めつけようとした。
私は人格、つまり私の肉体、思考、感覚、そして行動といったものをすべて足した合計が私だと思っていた。

当然それらを批判されると、あるがままの自分を受け入れられず、だれか別の人間になるべく努力しなければならないと感じた。

Oshoは私を打って誰か別の人間にしようとしていたのではなく、私の真実の自己が顕われるのに手を貸そうとしたのに、それがわからなかった。

彼は私がつくりだした偽物の自己概念がどのようなものであるかまず明らかにし、そして偽物の概念を消去するつもりだったのだ。

私たちの条件づけや、集積し続けてきた思い込みが本質的なものではないと気づいたからといって、服を脱ぐように簡単に落とすことはできないとOshoは言う。

それらは皮膚のようなものだ。
だから私の思い込みが白日の下にさらされたとき、まるでOshoが私の皮膚を剥がしているように感じた。

それは痛みに満ちていた。
そして私は混乱した。なぜなら、かつて私を愛した誰よりも私を愛してくれているとわかっている人が、私に痛みを与えているのだから。

混乱し、傷ついて、Oshoが私を打つたびに、私は彼から自分を切り離し、遠ざかった。

しかしあの頃から今日まで、ガンジス川に水が流れ続けるように、生は流転し、多くが変わった。

そして私自身、ずいぶん変化したに違いない。
なぜならーー最初は優しくーーOshoは再び私を打ち始めたから。」

和尚との至高の瞬間