禅公案 師から弟子への愛の一撃

 禅の話では、師が突然弟子を一撃し、
   その瞬間弟子が悟るという話がよくでてきます。

 臨済の「喝」は有名ですが、
   師から弟子への一打は目覚めのための一撃です。

 弟子がマインドのなかから目覚めるために打ちます。

 坐禅しているときには警策で打たれます。

 坐禅中に考え事をしているとき、
 あるいは眠くなったときなどに警策で打たれます。

 ときには、雑念を振り払い、眠気を吹き飛ばすために、
 自分から願い出て打ってもらうこともあります。

 全ては無心になるため。無意識から目覚めるためです。

 禅の公案が悟りのためのひとつの手法として
 用いられているのも同じ原理です。

 公案は考えても絶対に解けない問いです。

 普通、問いを立てるのは頭で考えるためです。

 頭(頭脳)はとても優秀で、問いを立てれば
 一秒間に百万ビットのコンピューターに負けないぐらいの
 早さで回転して、答えを探そうとするのだそうです。

 問いが正しければ正しい答えを導きだしますが、
 問いが悪ければ求める答えが得られません。

 しかし禅の公案は考えることでは答えは得られない
 ことになっています。

 頭で考えて得られる答えはすべて間違い、
 ということで、頭で答えている限り喝を食らいます。

 禅の公案は頭の思考をストップさせるためのもので、
 マインドのコンピューターをフリーズさせるためのものです。

 そしてその頭(マインド)から抜け出たときにひらめきがやってきます。

 思考によって得られるものではない体験がそこにあります。
 言葉では説明のできないものです。

 英語では「アハ! エクスピアリアンス」と言われますが、
 「あ、そうか!」と突然気づきがやってくる体験です。

 その気づきは論理的脈絡はありません。
 論理的思考では決して得られないものなのです。

 例えば、こういう禅の公案があります。

 「小さなガチョウがワインボトルのような瓶に入れられて、
 餌を与えられ、育てられています。
 そうしているうちにガチョウは大きくなって、
 瓶いっぱいになるぐらいに成長しました。

 そのガチョウは大きくなりすぎて、
  小さく狭まった瓶の口から出てくることができなくなってしまいました。

 そこで、公案とは、
 「その瓶を壊さずに、かつガチョウを殺さずに、
  ガチョウを外に出すにはどうすればよいか?

 あなたならどのように答えますか?

 しばらく、1分間でいいので、
 ここで読むのをやめて考えてみてください。

 あるいはちょっと考えるのをやめて瞑想してみてください。

 この公案が解ければ、あなたは悟れるのです。

 それでは先に進みましょう。

 瓶を壊せばガチョウは簡単に取り出せます。

 ガチョウを細切れにしても取り出せるでしょうが、
 ガチョウは死んでしまいます。

 公案が解けるのは体験による気づきがあったときなので、
 答えがあるわけではありません。

 しかし、説明のための一例として、答えを書いておくと、

 ここでの気づきは「Goose is out」。
 「ガチョウは出ている」ということなのです。

 ガチョウとはあなたです。

 瓶というのは社会の枠であったり、あなたの思考のとらわれです。
 条件付けや信念、あなたを閉じ込めているもの。
 あなたに悩みや苦しみを与えているもの。

 「あなたの悩みや苦しみ、鬱や不幸は、
 あなたが自分で作り出しているだけだ」

 と言われても、あなたは納得はできないでしょう。

 でもそれらの悩みや苦しみを解く気づきをもたらすのがこの公案です。

 この公案がほんとうにわかれば、
 すべての悩みや苦しみからも解放されている自分にも気づくでしょう。

 なぜなら、その瓶はあなたが自分で作ったとらわれであって、
 本当のあなたは最初からそんな瓶の中になど入ってはいなかったのです!

 そのことに気づいた瞬間、それが悟りの一瞥になるのです。

 そのために禅僧は身命をかけてこの公案に取り組んでいるのです。

 あなたが肉体だと思っている限り、その瓶を出ることはできません。

 あなたは社会のしがらみや、さまざまな自分の思い込みによって
 瓶の中に閉じ込められています。

 そうすることで悩みや苦しみを自分で作り出しているのです。

 論理的思考は直線的、二元的です。

 常に良い悪い、正しい間違っている、優れている劣っている、
 明るい暗い、ポジティブネガティブなどの二元性で成り立っています。

 そしてそれらを比較し、分析し、判断します。
 そして思考は水平的であり、そこには時間があります。

 瞑想は垂直的であり、時間が存在しません。
 直線的でもなく、二元的でもなく、
 ただそれらの二元性に気づいている目撃者です。
 瞑想のなかではすべての同一化、とらわれから自由です。

 公案は思考によってではなく、瞑想が深まったときに
 解くことができるように設計されています。

 「あなたは誰ですか?」という公案があります。

 頭で考える限り、さまざまなに自己(私)を分析することから
 答えを導きだそうとします。

 自分は肉体であり、思考であり、感情であり、名前であり、
 誰それの子供であり、親であり、会社に勤めていたり、
 いろんな役職があったり。。。

 しかし、それは本当にあなたですか?

 「自分は肉体(思考、感情)を持ったガチョウだ」
 ということにとらわれた瞬間、あなたは瓶の中にいます。

 自分をガチョウに同一化したときに、
 あなたは瓶とも同一化して、瓶の中から出られなくなります。

 自分はこの肉体であり、自分の思考が自分であり、
 脳(マインド)で考える思考が自分であり、
 自分に湧き上がってくる感情が自分である。

 それらの肉体、思考、感情に自分を同一化して、
 そのガチョウが自分だと思っている限り、
 ガチョウは瓶に閉じ込められたままです。

 しかし真の自分はそれではなかった! 

 それらの全てに気づいている意識だ! 

 ということが瞑想のなかでわかったとき、「
 あぁ、そうか!」っと気づきがあったとき、
 その「気づき」の意識があなたなのです。

 それらにとらわれていた自己から覚醒するのです。

 自分はそれらに気づいている目撃者で、
 最初から瓶には入っていなかったんだ! と。

 すでに自分は瓶から出ている!

 その気づきが「Goose is out」。
 「ガチョウは出ている」

 という、悟りの一瞥になります。

 デカルトは方法論序説の中で
 「我(われ)思う ゆえに我(われ)あり」
 (コギトエルゴスム Cogito ergo sum)
 という言葉を残し、我を思考と同一化したことで西洋文明の基礎を築きました。

 西洋では思考が発達し、その二元論、分析的思考の発達から科学が発達しました。

 しかし東洋は瞑想を発達させ、思考ではない次元を探求し、
 そもそも「我」(われ)そのものがあるのか? 
 という問いをつきつめました。

 「私は誰?」という問いがそれです。

 私たちはそのようなデカルト的な自己に
 あまりにも同一化しているために、
 そこから目覚めさせる師の一撃は厳しいものにならざるを得ません。

 でもその一撃は外目には厳しく痛いものですが、
 打たれた弟子に取っては快感であり、至福なのです。

 禅の警策って、打たれたときには大きな音がして、
 とても痛いように思えますが、でも実際に打たれてみると、
 上手な人に打たれると、身体残りが取れ、眠気も飛んで、
 意識がすっきりとして、とても心地よいものです。

 下手な人に打たれると、ゴキっという鈍い音がして、
 めちゃくちゃ痛かったりもします。
 それでも目は覚めますが、痛みがジンジンして、後味が悪いです。

 それはともかく、上手な人に打たれた時は、
    パシッという大きな音とともに、
 その瞬間、気持ちがさわやかに研ぎすまされ、
 眠気もマインドも吹き飛びます。
 身体の凝りもなくなります。

 でも打ち手にもよります。
 下手な打ち手だと、ゴツっという鈍い音がして、痛いのです。

 OSHOとマニーシャとのここ数回このブログで取り上げているやりとりは、
 そこでOSHOが話す禅の講話と平行して話され、
 実際に師が弟子をどのように打っているのかということの実況中継のようなものです。

 師は弟子を、その苦しみの種となる無意識から目覚めさせる、という愛のために打ちます。

 師から打たれるためには、
 弟子にはその準備ができている必要があります。

 マニーシャはその準備ができている弟子でした。

 OSHOのマニーシャへの一打は愛の一撃であり、
 癒しの一打でもありました。

 そして弟子に準備ができているなら、
 師は必要性からでもなく、
 ただ純粋な歓びから打つとまでOSHOは語っています。

 そこにはすでに師もなく、弟子もなく、
 ひとつであることからのリーラ、
 宇宙的遊びが繰り広げられているような趣があります。

 前置きが長くなってしまいました。
 これはマスターと弟子との美しい物語です。

 マニーシャは書いています。

 「こうして私の嫉妬は宣言され、
 何千人ものサニヤシンの知るところとなり、
 ”公認″のものとなった。

 いま現在コミューンにいる人だけでなく、
 これからやって来る何世代もの人々が、
 知ることになるだろう。

 この出来事は私の受けたもっとも厳しい一打で、
 その衝撃に耐えかねて、地が裂けて私を飲み込んでしまえばいいと
 自分が願うのかと思ったが、意外にも私はかえって楽になったと感じる。

 私は裸にされ、特徴的性格である嫉妬深さが皆の知るところとなり、
 むしろ解放感をおぼえる。

 もうこの傷を隠す必要はなく、私自身に対しても他人に対しても、
 それを否定することは不可能になった。

 そして生まれて初めて、私は自分自身を憎んでいなかった。
 たぶんこれは、完璧でありたいという、
 クリスチャン的欲求から自由になる第一歩なのだろう。

 私は自分自身に対して理解を持って、
「あなたは嫉妬しやすい傾向があるのよ。
 欲張りの人、プライドが高すぎる人、
 野心的な人がいるように、あなたの場合は嫉妬深いのよ。
 さあ、わかったでしょう」と言える。

 そして今回初めて、彼に対して
 自分を閉じて拒否することもしなかった。

 彼が言ったことは正しかった。
 そして今回は、痛みというものをまったく感じない。

 講話が終って、OSHOの言ったことを思い出す
 ーー 一言ひとこと。

 実際、彼は私に対して常に優しかった。

 彼は私の意地悪さに対して偏頭痛の言いわけを与えて、
 そんな質問をするには、私には知性がありすぎると言った。

 彼は私の嫉妬は皆の嫉妬を代表しているもので、
 私自身もほかの人々の嫉妬の的であると指摘した。

 そして最後に、私を彼の編集者であり彼の言葉の貢献人だと
 公式に認めてくれた。

 マニーシャの編集した本は、何世紀にもわたって
 記憶されるだろうと発言することで。

 そのうえ、その晩の講話が終ってから、OSHOは彼の主治医であり、
 私のもっとも信頼する友人でもあるアムリットに、
 打たれたことで私が傷ついていないか尋ねたという。

 OSHOが私を気遣っていたと聞いて、私は心を打たれる。
 もしも私の中に、自分は愛される価値がないのではないかという疑いが
 少しでもあったとしても、彼の思いやりがそれを一瞬のうちに根こそぎにしただろう。

 その翌日、ザリーンーーOSHOが私と同様に打った女性
 ーーは講話を欠席している。
 明らかに、今度は彼女が偏頭痛に悩まされているのだ!

 彼女が打たれてから彼女と話す機会がなかったので、
 どうしているのかしらと思っていた。

 今晩の講話での質問は、一打についてだった。

 「痛みを感じて初めて、
 その人は一打を受けたと言えるのでしょうか?

 昨晩の私は痛みを感じませんでした。
 私はあなたが言ったことの真実を見ましたが、
 自分自身を憎んだりせず、あなたを愛するのをやめたりもしませんでした。
 私は取り逃がしたのでしょうか?

 必要ならあなたは私をまた打つでしょうが、
 そのときはもう、偏頭痛を言いわけにはできません」

 「マニーシヤ、導師は痛みを与えるためではなく、
 癒すために打つ。そして弟子は怒りではなく、
 計り知れない感謝をもってそれを受け取る

 とOSHOは語り始める。

 感謝を持って受け取られないかぎり、
 それは決して癒しとして作用しない」。

 私たちは傷だらけだが、その傷は外気にさらされて
 初めて癒されると彼は言う.

 「あなたはこう尋ねている、『痛みを感じたときのみ、
 一打を受けたと言えるのでしょうか?』

 そうではない、マニーシヤ。
 もし痛んだなら、あなたは取り逃がしたのだ。
 もしも痛まずにそこに感謝と愛を生み出したなら、それは癒す」

 「あなたは古い罪人だ、マニーシャ。
 あなたはこの奇妙な男と長いこと一緒にいる
」。

 ザリーンはここに来てまだ新しいので、
 理解すべきことが多く残されていると彼は言う。

 「私たちは意識を変容するという、もっとも偉大な試みに参加している。
 そのことを忘れないでいれば、障害をすべて切り抜けられる

 私は、ザリーンが頭痛を切り抜けられるよう願っている。
 だが、彼女はまだ來て日が浅い。こういう場所では、
 師は愛するときにのみ打つ、ということを知らないので、
 頭痛が彼女を襲ったのだ。

 師は、あなたが打つに値すると見たときにしか、
 あなたを打たない」

 「あなたはこう言っている。

 『私はあなたが言ったことの真実を見ましたが、
 自分自身を憎んだりせず、あなたを愛するのをやめたりもしませんでした。
 私は取り逃がしたのでしょうか?』

 いいや、マニーシャ。幸いにもあなたは取り逃がさなかった

 「『必要ならあなたは私をまた打つでしょうが、
 そのときはもう、偏頭痛を言いわけにはできません』
 とあなたは言ったが、あなたに約束しよう、マニーシャ。

 あなたがそれを必要としようとしまいが私は打つ……純粋に歓びから!

和尚との至高の瞬間

マニーシャ の瞑想ワークショップ
ゾルバがブッダに出会うとき