OSHOは母国インドに戻ってからも、ワールドツアーの時と状況は変わらず、相変わらず政府などからの嫌がらせを受けていました。
しかし、このような状況はOSHOだけかと思ったら、2500年前のお釈迦さまの時代においても同じようなことが起きていたというのだから、驚きです。
実はお釈迦さまもOSHOのように社会改革者であり、お釈迦さまの活動は宗教的ムーブメントであったと同時に社会的なムーブメントであり、お釈迦さまも最後には暗殺されていたのです。
インドはカースト制度の国です。
司祭階級のバラモンが最上位で、その下にクシャトリア(王族・武人)、ヴァイシャ(庶民)、シュードラ(奴隷)そしてカーストにさえ入らない非差別階級の不可触民が存在していました。1950年にインド憲法が制定され、制度としてのカーストは廃止されましたが、現在でもインド社会ではカーストに基づく差別は色濃く残っています。
今でこそインドでも自由恋愛が増えているとはいうものの、異なるカーストの間で交際や結婚をしようとすると、家の名誉を汚したとして、親や親戚が相手を殺してしまう「名誉殺人」が頻発し、その数も年間数百から千件にも及ぶというのだから驚きです。
私の友人の家族もインドで出産して、15年以上にわたってインドに住んでいましたが、子供がインドの社会に入れてもらえないというので日本に帰ってきました。子供の頃から階級の違いは歴然としているのだそうです。
そのインドの階級制度は、お釈迦さまの時代には社会の基盤でもあったわけです。カースト制度はバラモン教を基盤とし、現在インドで全国民の8割以上が信仰しているヒンドゥ教は、バラモン教が土着の信仰と融合した宗教です。
このような制度においては、クシャトリア階級のお釈迦さまが布教活動をすること自体が、カーストに反する行為でした。なぜなら、当時は宗教活動はバラモンにのみ許されていたので、身分不相応の行為だったのです。
しかし、なんといってもお釈迦さまはシャカ国の王子でしたし、布教活動もシャカ国やマガダ国などの親の国、およびその友好国で行われていたので黙認されていました。
そして、お釈迦さまの初期の弟子たちは、全員がバラモン階級の出身であり、しかもすでに弟子が何千人もいるような人たちだったので、その人たちが帰依していたということがあるようです。ただし、それが黙認されていたのはカーストに反していたところまででした。
当時のインド社会において、女性は男性よりも圧倒的に低い地位にあり、バラモンの妻であっても儀礼的にはシュードラとして扱われていたのですが、その女性の出家を認めたことで、お釈迦さまの教団は反社会的だと糾弾されることになりました。
さらに男女の区別なく悟りを開くことができると説いたことで、それは当時の宗教観を根こそぎひっくり返すような出来事であったわけです。
それらのお釈迦さまの当時の言動は、まさしOSHOが現代の社会でやっているようなことです。
仏教の経典によると、お釈迦さまはチュンダという在家の信者に供された毒キノコにあたって亡くなったことになっていますが、苫米地英人氏によると、それは誰かがチェンダの持っているキノコに毒キノコをしのばせたのであって、状況としてお釈迦さまは暗殺されたと見るのが自然ではないかと述べていますが、とても納得できる推論です。
しかも苫米地氏によると、暗殺されたのはお釈迦さまだけではなく、お釈迦さまが亡くなる以前から、ほとんどの高弟が毒殺されているというのだから驚きです。
その理由というのが、お釈迦さまと教団がカーストに反したからだというのです。
以上は「お釈迦さまの脳科学 釈迦の教えを先端脳機能学者はどう解くか?」苫米地英人氏著、に書かれてあることです。
お釈迦さまの時代に起きたことと、その2500年前にOSHOの身に起きていることとがあまりに類似しているので、人間の意識はほんとうに進歩していないのだなぁ、と思わせられます。前置きが長くなってしまいました。
シュンニョは書いています。
1月の第2週 、ヴィヴェックはタイで3ヶ月を過ごすつもりてでアシュラムを離れました。
彼女のいないあいだ、私は彼女の部屋に住み、彼女のしていた仕事をしました。
ふたたび私たちは人々の偏執的な狂気のただなかにあり、状況は危険になっていました。
1980年に、ナイフを投げてOSHOを暗殺しようとしたヴィラス・トューペは、報道関係者に向けて「われわれは、OSHOをここに安住させるわけにはいかない」という声明を発表しました。
彼は国家治安維持法に基づくOSHOの逮捕を要求し、 さらに彼が指揮する団体 (ヒンドゥー・エクタ。アンドラン)に所属する空手や柔道の熟練者200人をアシュラムに送り込み、OSHOを力づくで連行するつもりだと脅迫してきました。
私たちは政府にも脅されていました。
彼らはアシュラムの間の外にブルドーザーを待機させ、いまにもアシュラムを押しつぶそうという構えを見せました。
そのうえ私には、いまにも警察が来てビザを取消し、国外退去を命じられるかもしれないという 懸念がありました。警察にアシュラムを襲わせるという脅迫のために、幾夜も眠れないことがありました。
私たちは全員に急を告げるための警報ベルを携帯し、各人が守備につくべき扉や窓も決めておきました。
OSHOの部屋につづく廊下に、はガラスの扉が2枚ありましたが、私はその2枚の扉に鍵をかけ、そのあいだで眠りました。そうすれば、警察が襲ってきたとしても、私の死体をまたがないことにはOSHOを連行できません。
その後、警察は夜には2回、昼には何回もやってきましたが、OSHOの住まいには二度と立ち入りませんでした。
サニヤシンの弁護士たちと、ラム・ジェタマラニという勇敢なインド人弁護士が、数ヶ月にわたり私たちのために法廷で争いました。そうするうちに警察からのいやがらせはしだいに減り、ヴィラス・トューペはコレガオンパーク アシュラムのある地毬に入るのを禁じられました。
プーナ市長はOSHOに謝罪し、政府の破壊工作班の活動をやめさせるのを手伝ってくれました。
それから2年間、サニヤシンたちは世界中のインド領事館でいやがらせを受け、OSHOに会うためにインドに入国すると思われたらビザをもらえませんでした。
たくさんのサニヤシンがボンベイ空港で足止めをくらい、なんの説明もないまま来たところに送り返されました。
ですが、それにもかかわらず、OSHOを訪れるサニヤシンの数はますます増えてゆき、それは津波のようでした。
どうやら戦いは終わったようでした。
私たちはふたたび、私たちのマスターのそばで静かに暮らせるようになったのです。
「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)