月とOSHOと道元
このOSHOの「道元」のシリーズは満月に捧げられた。 OSHOはチャンドラ・モハン・ジャインとして生まれ、1960年代にインド各地で遊説していたときにはアチャリヤ・ラジニーシとして知られ、1970年代弟子をとりマスターと…
このOSHOの「道元」のシリーズは満月に捧げられた。 OSHOはチャンドラ・モハン・ジャインとして生まれ、1960年代にインド各地で遊説していたときにはアチャリヤ・ラジニーシとして知られ、1970年代弟子をとりマスターと…
OSHOの生涯にわたる最後の2年間は禅の講話のみを語った。 彼は1985年にアメリカを出て、ワールドツアーのあと1986年にインドに戻ってからは体調に不具合が生じ、とりわけ最後の1、2年は寝たきりで過ごすことが多かった。…
OSHOの講話のなかに「道元」がある。 道元は日本で花開いた禅の師のなかでも白陰とならぶ日本を代表する禅師だ。 私は禅を学ぶなかでも道元にとても惹かれていた。 禅を実践し、学ぶうちに、マスターを求めてOSHOに出会ったの…
OSHOは晩年の数年間、禅についての講話のみを語った。 それまでの生涯にわたって、禅だけではなく、古今東西の仏典、聖典、禅録、タオ、ヨーガ、スーフィズム、タントラなどの経典を題材としながら、人間意識の発展の局面すべてにつ…
OSHOにはさまざまなファンがいる。 ダライ・ラマは、「OSHOは、人類が意識の発達においての困難な段階を克服するのを助けるために、あらゆる可能性に働きかけている、光明を得たマスターだ」と語っているが、 世界で最も有名な…
OSHOの講話は、私が彼の講話を聞いていた1985年から1990年にかけてに関して言うと、一時期毎日朝夕2時間にわたって語られることがあったが、通常は1日に1回、朝か夜に2時間語られることが多かった。 その講話のときには…
OSHOのような広大なる人物をひと言でいうことはできないことを百も承知で、OSHOをひと言で言うと、どうなるか? 「広大なる人物」と書きましたが、私が知る限り、彼ほどの業績を人類に残している人はいません。しかもその範囲は…
私たちは生まれたときに親からつけてもらった自分の名前にとても同一化している。 新しいサニヤス名をもらって、その名前を変えるというのは、それまでの自己同一化を落として、それまでの条件付けから自由になることでもある。 それな…
そして、サニヤシンということも、ただ何でもない人、無名の人になるまでのゲームにすぎないとOSHOは言う。 「私がサニヤシンでありなさいと言うとき、それが意味するのは『ただ在りなさい』ということだ。 あなたの黄土色のローブ…
そして、彼はサニヤスの意味について次のように語る。 「自己を知らない立場から生を見ることがサンサーラ、世間だ。自己を知っている立場から生を見ることがサニヤスだ。 だから、誰かが私に、自分はサニヤスを取ったと言うたびに、私…