OSHOの講話は、私が彼の講話を聞いていた1985年から1990年にかけてに関して言うと、一時期毎日朝夕2時間にわたって語られることがあったが、通常は1日に1回、朝か夜に2時間語られることが多かった。
その講話のときには、OSHOは原稿を見ることもなく、そのときどきに、どこからもなくやってくる言葉を語るのだった。
彼が原稿を読むのは、質問者からの質問を読むときと、講話の最後のジョークを読むときだけ。
いつも、どこからあのような言葉が泉のごとくとめどもなくやってくるのか、本当に不思議だった。
その秘密の一端は、彼の図書館にもあった。
彼の滞在していたアシュラムには、15万冊の蔵書が、ガラス張りの棚に収められた彼の図書館があった。
図書室には収まりきらずに、廊下の両側の壁一面に天井にまでぎっしりと収められていた。
彼は、古今東西のあらゆる知識を得ていたのだ。
そこに彼の学生時代にヒンディ語で描かれたノートまで保管されていたのを見たときは感動だった。
OSHOはこよなく本を愛した人だった。
大学教授時代に、1ヶ月の給料をすべてはたいて稀少本を買って読んだときの思い出話を、彼が話すのを聞いたことがある。
私はOSHOの本の中に描かれた絵を、シルクスクリーン版画にする企画をしていたので、空調がきいたその図書館に入って、OSHOの本を毎日何冊も見る機会があった。
私が見たすべての本に彼の署名が入っていた。
署名どころか、絵までも描かれているのだから驚きだ。
シルクスクリーン版画にするための、それらの本に描かれている絵を選ぶために、物音ひとつしない静寂の中で、彼が読んだ本とともに過ごすのは至福のひとときだった。
彼の講話で語られる言葉は、その静寂の中から降りてくるかのようだった。
OSHOによれば、彼が語るのは、私たちに知識を与えるためではなく、私たちがこれまで学んできたことをすべて落とすためだとのこと。
ラーニングではなく、アン・ラーニング。
私たちの知識でいっぱいになったマインドを落とすために、あれだけ膨大な言葉を語ったのだ。
道元が、只管打坐、不立文字を唱えながら、正法眼蔵のような膨大な書物を残したのに似ている。
言葉を使い、思考を持ってしまった人間の宿命なのだろう。
その思考を持ったがために悩みを持ってしまった人たちを救うには、言葉を使うしかないのだ。
彼が弟子に向けて講話を始めた初期の頃、1974年から1980年にかけてのオールドプーナの頃の講話とプーナ2の1986年から90年にかけての後期の講話とは、語る口調が異なっている。
初期の頃の彼の講話は、たたみかけるようなリズムで、比較的論理的にわかりやすく語られている。
OSHOの話を聞いていると、マインドは納得せざるを得なくなるのだ。
何を納得するかというと、マインドを落とすことでしか本当のことは得られないのだということを納得する。
そこでマインドは追いつめられる。
百尺竿頭を一歩歩むしか仕方がないところまでマインドが追いつめられて、明け渡しが起こる。
そのマインドの降参、明け渡しのひとつが、サニヤスだったりもする。
後期のOSHOの講話は、主にサニヤシンの人たちに語られていた。
すでに彼に明け渡した人たち。
論理的にマインドを説得する必要は以前ほどには必要条件ではなくなっていたせいか、初期の頃ほどには論理的には語られなくなっているように思えた。
OSHOが講話を語る場にいることは、彼の講話を聞くというよりも、ただ彼とともに坐るためだった。
後期になると、彼の話し方は非常にゆっくりとした語り口調になり、言葉と言葉とのギャップが長くなり、時として次に話す言葉を待つ瞬間は、永遠に感じることさえあった。
「その言葉のギャップにある沈黙に耳を傾けるように」とOSHOは語り、私たちは、彼の言葉にある静寂のなかで瞑想するために彼の言葉に耳を傾けていた感じだった。
そして彼の語りや、質問に答える彼の応答は、ウィットとユーモアにあふれ、いつもそこに笑いは絶えなかった。
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