「存在の詩」の歴史を感じるカバー写真

この「存在の詩」は初版は、めるくまーるから1977年に出版されました。
 
しかし、実はその前に、すでに星川さんの手書きのガリ版刷りの小冊子が存在していました。
 
日本で最初にOshoに会いに行った人たちは、そのガリ版刷りの「存在の詩」を見た人たちでした。
 
そのガリ版刷りの小冊子は噂には聞いていましたが、清水さんのフェイスブックには、その手書きの原稿までが掲載されていて、ビックリです。さすがです。
 
このガリ版の文字には見覚えがあります。
私が「存在の詩」の復刊を企画したときに、最初に星川さんに、その翻訳を使わせていただけるかどうか、また、その場合にその翻訳を見直すことができるかどうかを打診したときに、見直しも含めて、快く承諾していただきました。
 
その翻訳の見直しの際に書かれてあった字が、まさにこれと同じ字でした(当然ですが)。
これだけの膨大な原稿を、毎回手書きで出版し続けたというのもすごいなと今更ながら感心します。
 
ただ、従来の翻訳が非常に人気があっただけに、そして非常に忙しいなかを見直すということでもあったので、その基本的なトーンは変えずに見直していただくということでしたが、とても丁寧に取り組んでいただきました。
 
そしてこの掲載されている「存在の詩」の表紙の写真、そのガリ版刷りの小冊子、めるくまーるの時代のカバーデザイン、そして今回の新たな復刻版のデザイン。
 
こうしてながめると、まさに時代の変遷を感じさせられます。
 
しかし、そこに語られるOshoの講話は、その時代の変遷を超えて、ますますその輝きを増して、今の時代に甦っているように思われます。
 
この本の原題には、「究極の理解」という副題が付けられています。
言葉を超えた、空(くう)という究極のものについての究極の理解。
 
「存在」がOshoの「存在」を通して語り、読むものにその「存在」の味わいをもたらしてくれるかのようです。
 
まさに「存在の詩」です。
 
それはいかなるテクニックも超越したものであり、ヨーガが到達したところからはじまる、ということが語られています。
 
このOshoの講話を聞いていた、ヨーガを実践していた聴衆のひとりが、この話を聞いていて、落ち込んでOshoに質問している場面もあって面白いのですが、
 
実はOshoはこの講話とは別に「アルファ・アンド・オメガ」という10巻にもおよぶヨーガについての講話をしているのです。
 
私はそれを全部読んだことがあるのですが、その講話では、そのヨーガの経典を書いたパタンジャリにOshoは最高の賛辞を送っています。
 
Oshoがヨーガを語るときには、ヨーガは最高のものとして語られています。
ヨーガを学んでいる人は、この本を読んでも、この本にある質問者のように落ち込まないでくださいね。(とはいえ、Oshoの質問者への応答も、愛に溢れていてすばらしいです)
 
何はともあれ、私たちが20代から30代のころ、ガリ版の小冊子や、めるくまーるから出版されたこのOshoの講話を読んで、はるばるインドまでOshoに会いにいったものです。
 

その当時、インドまでOshoに会いに行くとはどういうことだったのか? 
そこではどいうことがおこなわれていたのか? 

それについての詳しい物語は、ナルタンの「インナーラビリンス」に詳しく語られています。(https://amzn.to/3gIGZOm

 
そこでは、瞑想のメの字も知らなかったナルタンが(のちのOshoの通訳者として身近にOshoを体験することになる)、瞑想三昧の日々を送り、ヨーガのポーズも全く知らなかったにも関わらず、自然と体が動いて、ヨーガのポーズをとってしまうなど、不思議な瞑想の体験が書かれています。
瞑想に興味がある人にとっても、とても興味深い話が満載です。
 
などなど、ちょっと話がとりとめなくなってきましたので、ここらで筆を置きます。
 
そうそう、何を言いたかったかというと、私たちが若い時代に新しい生き方を求めてこの本に出会ったように、この新しい変革の時代に、新しい生き方を求める若い、20代や30代の人たちにもこのOshoのメッセージが届けばいいなと思います。
 
そこに40年経った今、この本が復刊された意味もあるのではないかと思うしだいです。
 
いずれにしろ、楽しんで読んでいただければ幸いです。