自分を目覚めさせるには?

どうしたら 自分の顔に冷水を浴びせられるのでしょうか?

How Can I Get Cold Water Thrown in My Face アメリカでのインタビューシリーズです。

どうやら、この記者は、自分を目覚めさせることに興味があるようです。

Osho
私は 自分が誰かより上だ   
といううふうにするつもりは全くない  
確かに 私はあなたとは違う  
しかし 上ではないし 下でもない  
違いというのは 
あなたは眠りこけていて  
私は目覚めている 
という意味でだ  

しかしそれは 
大した違いではない  
ほんの少し冷たい水を 
あなたの目に浴びせるだけで  
あなたは目覚めるだろう  

そしてそれこそが 
私が私の人々にしていることだ  
できるだけたくさんの冷水を 
彼らの目に浴びせること」  

<質問>
「どうしたら 顔に冷水を浴びせられるのでしょうか?  どうやったらいいのでしょう?」

Osho
私はすでにやっているよ  
あなたもわかっているはずだ  
ただ 震えださないように  
この部屋の温度は 摂氏3度だからね    
実際のところ 氷のように冷たい水を  
浴びせる必要などない  

あなたはすでに 
氷のように冷たいところに  
座っているのだから  
ここでは誰もが 
目覚めないわけにはいかない」  

<質問>
「私が眠っているとどうしてわかりますか?」

Osho
誰が眠っているのかというのは  
目覚めたものだけにわかるのだよ  

眠っている人間には  
誰が眠っていて   
誰が目覚めているかはわからない  

私は目覚めている  
だから私にはあなたが
眠っているのがわかる    

あなたにはわからないよ  
私は眠りの中で
語りかけているのかもしれない  
あなたは夢を見ているのかもしれない  
あなたは私について
確信を持つことはできない  

だが 私はあなたについて
絶対的な確信がある  

あなたの目は開いているが 
あなたは眠りこけている  

あなたは 少しでも目覚めようと  
一生懸命努力している  
そして メガネの奥から  
誰が目覚めていて 
誰が眠っているのかを
見つけようとしている  
それはいい兆候だ  

それは あなたはここに何度も
来なくてはならないということだ  
ついに あなたが目覚めるまでね  

目覚めた瞬間  
人はただショックを受ける  
全世界が眠っていることを知るからだ  

眠ったまま人々は 歩き 話し  
教会に行き シナゴーグに行き  
眠ったまま 本を書き 映画を作り  
ありとあらゆることをする  

しかし 
彼らのスピリチャリティの眠りは続く  

私がスピリチュアルの眠りというとき  
その意味は あなたは  
自分が誰かを知らないということだ    

あなたは自分の周りのこと  
すべてを知っているかもしれないが  
あなたが気づいていないことが一つある  
それは あなたのセンター  
あなた自身の実存だ  
 
あなたが自分を知った瞬間  
あなたは目覚める  

だから 目覚めと眠りを  
私は たとえとして使っているのだ」


荘子の「胡蝶の夢」の話を思い出します。  

「胡蝶の夢」というのは、荘子があるとき夢を見て、夢の中で蝶となってひらひらと飛んでいたら、目が覚めた。

はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、というお話。  

Oshoは別の講話のなかで、胡蝶の夢の話をしたことがあります。  

荘子が弟子に夢の話をして、「自分は蝶なのか、蝶が夢見ているのかわからない」と言ったら、その弟子がバケツに水を汲んできて、荘子にぶっ掛けて、「師匠、何を寝ぼけたことを言っているのですか?!目を覚ましてください!あなたは荘子じゃないですか!」と言ったことになっています。  

寝ぼけている人にとっては、自分が夢のなかにいるのか、目覚めているのかはわかりません。夢のなかで目覚めていると思っているかもしれないのですから。  

それは寝ぼけた荘子が、自分が果たして本当に荘子なのか、それとも蝶が夢のなかで荘子だと思っているのかわからなくなったのと同じです。

でも、目覚めた人から見れば、眠っている人や寝ぼけた人はすぐにわかりますね。  

それと同じで、目覚めた人にしか、その人が本当に目覚めているのか寝ぼけて夢見ているのかはわからないということになります。  

これは日本語の字幕が入っているビデオです。

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ちなみに、荘子の「胡蝶の夢」というのは、原文ではこういうお話です。

(原文の読み下し文)  

「昔者、荘周夢に胡蝶と為る   
栩栩然として胡蝶なり   
自ら喩しみ志に適へるかな   
周なるを知らざるなり   
俄然として覚むれば 
則ち遽遽然として周なり   

知らず 周の夢に胡蝶と為れるか 
胡蝶の夢に周と為れるか   
周と胡蝶とは 則ち必ず分有らん   
此を之れ物化と謂ふ」

(現代語訳)  

「いつのことだったか、
荘周は夢の中で蝶になった   
ひらひらと飛ぶ蝶だった   
その楽しみのなかで満足して   
自分が荘周であることを忘れていた   

突然目が覚めて、はっと我に返ると、
たちまちもとの荘周になった   
荘周の夢で蝶になったのか、
蝶が夢を見ていて
荘周になったのかわからない   

荘周と蝶とは、必ず区別があるはずだ   
このことがまさしく物化ということだ」  

「物化」ということがこの話のキーワードですが、いろんな解釈があるようです。  

辞書によると、 物化とは、万物が変化すること、 人が死ぬこと、とあります。  

ようするに、荘周と胡蝶とには区別があるはずだが、主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである、というふうに解釈されます。  

荘子の「斉物論篇」にある話で、斉物論とは「万物は全て斉しい(等しい)とする論」ということからすると、正誤・善悪・彼我、夢と現実、生死などを始めとした区別は絶対的なものではないことのたとえのお話だというふうに受け取れます。 

今日はここまでにします。

えたに