OSHOの講話のなかに「道元」がある。
道元は日本で花開いた禅の師のなかでも白陰とならぶ日本を代表する禅師だ。
私は禅を学ぶなかでも道元にとても惹かれていた。
禅を実践し、学ぶうちに、マスターを求めてOSHOに出会ったのも道元の影響が大きい。
ところがOSHOとともにいることは、道元が説いているような只管打坐のストイックな坐禅の道とは真逆の、全くの別世界だった。
生があり、愛があり、笑いがあった。
瞑想といえばダイナミック瞑想にクンダリーニ瞑想、その他ありとあらゆる瞑想を体験したが、踊りあり、カタルシスありの激しい動的な動きをともなった瞑想などもあり、只管打坐どころではなかった。
最初のころは、悟りを求めて師に出会ったのに、こんなことをしていていいのか、というとまどいさえあった。
しかし、OSHOを師と定めた以上、他にはどうしようもなかった。
そんなころ、たまたま丸善で「正法眼蔵」の英語版を見つけたときには、「いつかOSHOに道元の書いたこの本をもとに道元について語ってもらいたい」と思って、買い求めた。
とはいえ、そんなあてはなく数年がたったある日、インドのOSHOのもとにいた日本人の友人ギータから日本でOSHOの絵のプロジェクトに関わっていた私のもとに電話があった。
「OSHOが禅についての講話のシリーズを始めるので、禅についての講話を探しているのよ! 何か題材になるものがあればすぐに送って欲しい」とのことだった。
そこで、直ちに、「それなら、道元の正法眼蔵の英訳があるので、それなら送れるよ」と告げて、翌週にインドのOSHOのアシュラムに行くという友人にその本を託したのだった。
彼がインドに着いてから一週間ほどして、再びギータから電話があった。
「OSHOが道元についての講話をはじめたわよ!」
「え?!!」と言ったきり、次の言葉が出なかった。
まさか、あの難解だとされ、膨大な正法眼蔵について、OSHOの元に届いて、そんなにすぐに話しだされるとは思いもよらないことだった。
「すぐにインドのOSHOの講話を聞きに飛んでいきたい!」という衝動に駆られたが、今からチケットとビザを取ってインドに着いた頃には、道元のシリーズは終わってしまう。
咄嗟に出た言葉は、「その講話を翻訳して出版したいので、ぜひ僕にその講話の翻訳をやらせて欲しい!」ということだった。
まだ、本にもなる前のOSHOの講話の原稿が私の元に送られてきたのは、それから1ヶ月ほどしてからだった。
私は早速その原稿をもとにしながら翻訳に取り組みはじめたのだった。
OSHOとともにいて、このようなことが起こったのは一度や二度ではない。
何か、マスターと弟子の間では、目に見えないつながりがあるかのようだ。
OSHOはあるとき、このような話をしていたのを聞いたことがある。
「インドにはビーナという楽器がある。その楽器を立てかけてたところのまわりに人が集まると、その楽器はまわりに集まった人に共鳴して、自然と音楽を奏でる。マスタと弟子の間でも同じようなことが起こる」と。
まさにOSHOが話す講話ではそのようなことが起こることはしょっちゅうだった。
彼の講話を聞いているうちに、自分が抱えていた問題の答えが与えられたり、まわりで問題になっていることなどについて話されていることが多々あった。
ずっとOSHOに道元について話して欲しいと願っていた私の思いが叶ったのだ。
しかし、同時に、「OSHOは道元について、なんて言うのだろう?」というちょっと恐い思いもあった。
なぜなら、彼は仏陀であろうと、キリストであろうと、容赦なく滅多切りにすることがしばしばだったからだ。
そんな期待と不安とともに送られてきた原稿を読んだことが昨日のことのように思い出される。
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