OSHOの講話は私たちに「理解の錬金術」をもたらしてくれます。
この「セックスと死」についての講話は、そのことに理解をもたらし、その理解から気づきが生まれ、講話を聴くことで、「セックスと死」についての理解と瞑想が生まれてくるのです。OSHOのひと言ひと言には瞑想のヒントがあり、気づきと驚きがあります。
「瞑想とは気づきである」
と、OSHOはあちこちで話しています。「気づきってなんだろう」と思っていたときに、「理解しようと試みることによって、あなたとそうした事柄とのあいだに、なんらかの距離ができる。さらにまた、たとえそこにそうしたものがあっても、自分はそれと同一ではないと思えるだけの気づきが生まれる」というOSHOの言葉があれば、気づきとは「理解しようと試みること」によって生まれるものなんだ、という理解が生まれます。そして「理解しようと試みること」の意味はなにかというと、あなたと、そうしたことがらとのあいだに、なんらかの「距離ができる」「自分は、それと同一ではない」と思えるということなんだということが、気づきのエッセンスということがわかります。そして「セックスは死の分割払いなのだろう。そして死は、セックスの一括払いだ」なんていう言葉を読むと、OSHOって、なんという言葉の魔術師なんだと思えます。そのひと言のなかに、セックスと死についてのある理解が生まれます。
シュンニョは語ります。
カトマンドゥにいるとき、私はOSHOに次のような質問をしました。
彼の答はすばらしいものでしたので、 ここにその全文を収録することにしました。
「愛するマスター、私はこの2、3週間、セックスと死にまつわる強烈なフィーリングを味わっています。その理由を知る必要があるでしょうか」
OSHOの答を引用します。
「自分のマインドがどんなふうに動いているか、自分のハートがどんなふうにしているか、自分の内面でなにが起こっているのか、そうしたことを理解するのは、つねに必要なことだ。理解しようと試みることによって、あなたとそうした事柄とのあいだに、なんらかの距離ができる。さらにまた、たとえそこにそうしたものがあっても、自分はそれと同一ではないと思えるだけの気づきが生まれる。
これはおおいなる『理解の練金術』だ。
内面に起こるすべてのことを理解しようと試みなさい。
理解しようと試みることで、あなたはそれから分離する。それは客体となる。
あなた自身は、けっして客体とはならない。
あなた自身はつねに主体だ。
あなたの主体性が客体に変わることはない。
だから、試みることによって、あなたとあなたのフィーリングのあいだには充分な距離ができる。以上が第一のことだ。
そして第二のこと。この距離のおかげで、あなたは自分に起こっていることを理解するかもしれない。なにごとも原因なしには起こらない。
そして時には、起こっていることはとても根源的だ。
たとえば、あなたがしたのはとても根源的な質問だ。
それはセックスと死の結びつきについてだ。
あなたがその結びつきをはっきり見ることができれば、死とセックスとのあいだの差異はしだいに消えてゆき、両者はほとんど単一のエネルギーになる。
おそらく、セックスは死の分割払いなのだろう。
そして死は、セックスの一括払いだ」
「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)