書店「読書のすすめ」代表の清水克衛さんの言葉に「縦糸の読書」と「横糸の読書」という言葉があります。
清水さんの定義によると、縦糸の読書とは問いを見つける読書、横糸の読書とは答えを見つける読書とのことです。
Oshoの本を読む(講話を聴く)にあたってもマニーシャの本を読むにあたっても、同じことが言えます。
もしこの本を横糸の読書、つまり答えを見つけるために読んでしまうと、探求の旅の障害になってしまいます。
答えを見つける読書というのは、知識を集める読書です。
自分が探求する代わりに、探求した人の答えを知識としてたくわえてしまう読み方になりがちです。
Oshoからたびたび聞いた言葉として、「わたしが話しているのは、あなたがこれまで学んできたことを全て取り去るためだ」という言葉があります。
Oshoの話を聞くことは、これまでの全ての既成観念を取り去られることです。
Oshoの話を信じることはできませんし、知識として蓄えることもできません。
なぜなら、彼の話を聞いていくと、あるときには一つのことを話していても、同じテーマについて、別のところで、どこかで矛盾したことや真逆のことを話しているので、もし知識として信じようとしていたら、混乱してしまいます。
ですからもしある既成観念、キリスト教であろうと仏教であろうと、あるいは世間のいわゆる常識であろうと、ある既成観念をもって彼の話を聞くと、それらの既成観念が揺さぶられます。
例えばキリストを信じていた人はOshoがキリストについて、まるでキリストその人が話しているかのごとき話を聞いて、まさにこのひとこそキリストに違いないと信じはじめたころに、こんどはOshoがキリストのことをコテンパンにこき下ろす話を聞くはめになります。
そうするとそれを聞いて侮辱されたように感じたり、怒ってしまい、彼のもとを去ってしまう人たちも多くいます。
そのOshoの両方の話を笑えるようになった人は、既成観念に囚われていた自分のマインドを笑えるようになった人です。
そのため彼はジョークをよく話します。
人間のマインドというのはいかに笑うべきものかを思い出させるために。
それはともかく、Oshoの本にしろマニーシャの本にしろ、横糸の読書として読んでしまうと自分の探求の妨げになってしまう危険があります。
しかし縦糸の読書として読むと、自分の探求を深める助けになるでしょう。
マニーシャは書いています。
「Oshoが話をしているとき、その言葉を運ぶ声が、私の体の特定の部分や、体をとりまく層に浸透するように感じられることがある。
彼のもっとも初期の、マントラの科学についての講話録の中で、ある種の音が私たちの内側のあるセンターに触れ、いかに反応を引き起こすかを語っているのを読んだのは、これを体験したあとのことだ。
とても興味深く読んだあとで、自分がそれを実際体験していたときに、それに関する知識を持っていなくて、かえってよかったと思う。
もし知識を持っていたら、私の頭は何が起こっているのか解説を始め、その体験を邪魔しただろう。さもなければ、体験を期待していたゆえに、体験を取り逃がしたかもしれない。
この探求の旅において大切なのは、無垢で無心であるということを、私は繰り返し学んでいる。
おそらく、だからこそ神秘家たちは、私たちにごく曖昧な方向性しか与えないのだ。
詳細な地図を持てば、かえって私たちは知らないという状態を失い、わかっているとは言わない者だけに示される道に、決して向かえなくなるだろう。
ある音は私の胸に、別の音は腹部や性器、さらに別の音は額や頭部などに共鳴するようだ。
Oshoの声は、どんな恋人の手より、もっと優しく親密に私に触れ、まるでドルシィマー(弦楽器の一種)となった私を奏でているかのようだ。
そんなある晩、講話の行なわれたホールをあとにしながら、私の中の本質的な何かが変わってしまったのを感じる。
まるで私の化学的構成が再編されてしまったか、細胞が不可解な方法で変化させられてしまったかのように。」