1974年3月21日。
Oshoのエンライトメントデイ(Oshoが21歳の時に悟りを得た日)にボンベイからプーナに移り住むことになりました。
ジョティもOshoとともにプーナに移り住むつもりでOshoを追いかけてプーナに着きました。
そしてその翌朝、ジョティはOshoに会いに行きます。
そこでのOshoのジョティへのアドバイスは、Oshoとともにいたいジョティにとっては受け入れるのが難しいことでした。
「物事を放棄することには賛成しない」というのがOshoのアドバイスでした。
これまでのインドの伝統では「サニヤシン」というのは世捨て人であり、世間を放棄して瞑想や修行に明け暮れる人々のことを指していました。
しかし、Oshoのサニヤシンは世捨て人ではあってはならない、というのがOshoからの基本的なメッセージでもあります。
仏陀の時代にはそれも許されましたし、仏陀の弟子たちは世間を放棄して、瞑想のための修行の生活をしていました。
仏陀自身が王宮を出て、王子となる道を放棄して修行の道を歩んだのですから、当然と言えば当然の成り行きです。
しかし現代社会の中では事情が異なっています。それぞれの個人が自分で生計をたて、自分の人生を生きていく必要があります。
Oshoは新しいサニヤシン(Oshoの弟子)のあり方として、世間の中に生活しながら瞑想をしていくことの道を説いています。
しかし、ジョティにボンベイに戻って家族とともにいることをOshoがアドバイスしたのは、後になってジョティが気がついた別の意味もあったのです。
それはまた別の機会に。
それでは「一万人のブッダたちへの百話」、「物事を放棄することには賛成しない」をお楽しみください。
ジョティは語ります。
「 早朝、8時間近く熟睡して、とてもすっきりと目覚めました。私たちが宿泊しているホテルは大きな樹木で囲まれていて、小鳥たちがもうさえずり始めています。
屋根のないベランダに座ってお茶を飲んでいると、天国にいるような気分に感じられてきました。
ボンベイとは大きな違いです。全てがとてもゆったりとしているようです。Oshoがボンベイを出たことを嬉しく思います。
Oshoに会いに行くために、9時までに出かける用意を済ませ、リキシャに乗りました。ラクシュミが私を迎え入れ、家の内部や庭を案内してくれました。
Oshoにとって完璧な場所に思われます。これからはOshoに誰にも邪魔をされることなく、庭を散歩したり芝生の上に座ったりしてもらえます。
その日の午後、Oshoに会うためにもう一度やって来ました。Oshoは庭で安楽椅子に座って目を閉じています。私はそこまで歩いていって、Oshoの左側の芝生の上に静かに座りました。
非常に静かで、木立の中でさえずる小鳥の声しか聞こえてきません。突然、すぐ近くで汽車が走る大きな騒音が立ちました。私は妨げに感じました。
ところが汽車が立てる騒音が消えていくにつれ、静寂は更に深まりさえしました。しばらくしてOshoが目を開いて私に微笑みかけました。
Oshoは私に「ボンベイにはいつ帰るのかね?」と尋ねました。
私は「Osho、ボンベイには帰りたくありません。プーナにいたいんです」と言いました。
するとOshoはボンベイに何か問題でもあるのかと尋ねました。私は首を横に振りました。
それからOshoは、物事を放棄することには賛成しないことを事細かに説明しました。
私はこれからも自分の仕事を続け、実家に住み、プーナには可能なときに訪れるべきなのです。
私が帰りたがらないでいるのを見てOshoは
「あなたはボンベイで私の仕事をしなくてはならない。
時期が来れば呼ぶ」
と言いました。
私は泣き始め、Oshoを見つめました。Oshoはくすくすと笑って「
泣いている方がもっと美しいよ」
と言いました。私は目に涙をためて笑いました。
それからOshoは私の頭に手を置いて「グッド」と言いました。
私はOshoの足許に触れ、絶望して泣き叫ぶハートとともにその場を離れました。」
今日はここまでにします。
えたに