瞑想とは何か?
という問いは、これまで幾度となく問い続けられてきている、
古くて、新しい問題です。
そして、その答えも、百人いれば百通りあるのかもしれません。
あるいは、その答えは一つ、とも言えるかもしれません。
頭で答える限り、人それぞれの百通りの定義があるでしょう。
でも、瞑想とは実存的なもので、
「ただ在る」という状態があるだけなら、
それは考えてわかるものではなく、
それを体得することでしか得られないものです。
ただ「無」ないし「空」のみがあるだけです。
ここではOSHOサマサティにおける瞑想の定義を紹介します。
「ただ在るという状態は自然なので、
私たちは気づかないうちにそれに出会っています。
自分が体験したことは瞑想だったと、
気づいてすらなかったかもしれません。
たとえば瞑想は、あなたがハンモックに横たわって、
小鳥のさえずりを聴いているときにも起こることです。
あるいは静かな風景を眺めているとき、
音楽を演奏しているとき、愛を交わしているとき、
あるいはテニスをしているときにも起こります。
(スポーツをする人々は、このスペースについてよく知っていて、
それを「ゾーンにいる」と言います。
それは実際にはどこでも
- そう、病院やホスピスのなかでさえ -
体験できます。
そのきっかけとなった状況がどれほど異なっていようと、
そこには以下のような特徴があります ー
*内面と外界が「ひとつだ」という、くつろぎと調和の感覚。
*完全に今にいて、努力することなく気づいている。
*思考がもはやでしゃばってはいない。思考は普段より静かになり、
少なくなり、もっとゆっくりになる。あるいは、
完全に無思考になることさえある。
*問題だと思えていたことが、消え失せるまではいかなくても、
遠ざかって見える。思考や感覚のみならず、
肉体のさまざまな感覚、
うずきや痛みについても同じことが言える。
それを冷静に眺め、
自分から離れたものとして眺めている。
つまり、何ものにも「自己同化」していない。
*あるがままの直接的体験。
*自分の肉体を超えて拡大する感じ。
自分を新しい仕方で、自分の物理的自己に限定されていないエネルギー
として感じる。高揚感を感じることもある。
*「これこそが真の自分だ」という感覚。
*時間に対する知覚が変わる。
たとえば、この空間から出てきたら、時計によれば、
ほんの数分しか経ってないと思うかもしれない。
しかし、その中に没入していたときは、
永遠のように見えた。
こうした瞑想の体験がどう感じられるのか、
日常の言語にはこれを説明する言葉がありません。
残念なことに、これは大部分の人々の日常の体験ではないからです。
この、「意識的に在る」という体験を、
「至福」あるいは「歓喜」と呼ぶ人もいます。
この深遠な喜びを描写する最善の言葉は、「在ること」かもしれません。
マニーシャによる日々の瞑想を体験するワークショップ
「ゾルバとブッダが出会うとき」はこちら
OSHOのメッセージ動画(13)はこちらから
「死に直面している人を気の毒に思わないように
自分自身を気の毒に思うがいい
死があなたを取り囲むにまかせ
その味わいを得てごらん
無力さを 非力さを感じることだ
無力だと感じているのは誰だろう?
非力だと感じているのは誰だろう?」
「もしあなたが 死を祝祭の瞬間へと変容できれば
あなたは友人 父親や母親 兄弟
妻や夫を助けたことになる
あなたは存在の中で可能な限り
もっとも大きな贈り物を彼らに贈ったのだ
そして死の近くでは それはとてもやさしい」
「死がそこにあるときには
とても敬意を払う必要がある
というのも 死はまったく普通ではない現象だからだ
それはこの世の中で もっとも尋常ならざる現象だ
死ほど神秘的なものはない」
「恋人が死ぬときには
その人が愛していた人の中でも何かが死ぬ
なぜなら 彼らは互いに深く関わり合っていたからだ
そしてもしあなたが とても多くの人たちを愛していたなら
─ たとえば もし仏陀のような人が亡くなれば
─宇宙全体からエネルギーが中心へと戻る」
「いかに生きるべきか 分からない人たちがいる
そして いかに死ぬべきかを知っている人は
ほんのわずかしかいない
それはもっとも偉大なアートだ
というのも それは 生の絶頂だからだ」
「自分の中に不死なるものがあることを知らなければ
成し遂げられはしない
そして その不死なるものは つねにそこにある
─ それこそ あなたの観照する意識だ」