

目 次
序文 ハートからのカウンセリング
〈第一部〉
第1章 人格とその層 9
■ あなたは形をもたない意識 9
■ 形のないものが形をとって顕われる 10
■ 分離の体験 11
■ 二元性の世界に入る 14
■ 防衛のメカニズムと戦略 14
■ 理想と「べき」 15
■ 信念 16
■ アイデンティティ(自己同一性)- エゴ(自我) 17
■ 探究 17
第2章 人々に働きかける 20
■ 実存的セラピー: ボディマインド(心身) の層をさらに透明にする助け 20
■ 各層が他のすべての層に影響を及ぼす 25
■ 七つのチャクラに関連するボディマインド( 心身) の層 26
■ カウンセリングのはじめにおける第一のことがら 28
■ 各層を通してのガイド 31
■ 虚空(Void) の中へ手放しする 32 レットゴー
■ 源〈ソース〉、センター 33
■ 脱同一化 36
■ 欲望は鍵-〈エクササイズ〉 39
■ 欲望の探求の例 39
■ 生へのイエスあるいはノー-〈エクササイズ〉 42
■ 欲望を調べる-〈エクササイズ〉 49
第3章 心理的な痛みの解剖学 50
■ ペインボディ(痛みの身体) 56
■ 子供時代の意識 59
■ 理想の影響 60
■ 戦略の影響 63
■ 投影はどのように働くか 65
■ 受容の錬金術 67
第4章 導入のポイント 73
■ 苦痛をともなう問題があるか? 73
■ イエスがあるか? ノーがあるか? 75
■ 責任をとっているか? 75
■ 執着があるか? 76
■ 投資があるか? 77
■ 同一化があるか? 78
■ 共依存と投影があるか? 79
■ 過去世への退行─最後の手段 82
第5章 ひとつの問題を使って層を進む 85
■ 信念に気づきをもたらす 85
■ 理想と「べき」に気づきをもたらす 86
■ 戦略と防衛に気づきをもたらす 86
■ 感情に気づきをもたらす 87
■ フィーリングを増幅する 88
■ 虚空に入る 89
■ 源から話す 90
第6章 カウンセラー/クライアントの関係性 92
■ ラクダ 93
■ ライオン 93
■ 子供 94
第7章 NLPとヒプノシス 97
■ 無意識のマインド 97
■ ラポール( 深い信頼関係) 98
■ 身体を通してのペーシングと誘導 99
■ 言語を通してのペーシング 103
視覚
聴覚
体感覚
臭覚/味覚
デジタル
視覚的言語
聴覚的言語
体感覚的言語
臭覚的/味覚的言語
デジタル言語
■ 質疑応答 108
■ グループに向けて話す 112
■ 言語を通しての誘導 114
■ はっきりしないあいまいな言語 118
■ 目から読みとる情報 118
■ エクササイズ 120
第8章 エナジーリーディングのトレーニング 123
■ 私たちの真の姿 125
■ エソテリック・サイエンス(秘教の科学) 127
■ ハラ 128
■ 七つのチャクラ、七つの身体の発達とその呼吸 128
第一チャクラ
第一身体
第一身体の呼吸
第二チャクラ
第二身体
第二身体の呼吸
第三チャクラ
第三身体
第三身体の呼吸
第四チャクラ
第四身体
第四身体の呼吸
第五チャクラ
第五身体
第五身体の呼吸
第六チャクラ
第六身体
第六身体の呼吸
第七チャクラ
第七身体
第七身体の呼吸
■ エナジーリーディングの目的 139
■ トレーニングでの質疑応答 140
< 第二部>
「セラピーが存ビーイング在のアートに変わるとき」 155
―ラハシャ・フリッチョフ・クラフト自伝―
■ 外側で起こった雪崩 156 アバランチ
■ 内なる目覚め 164
■ 強靭な父親の八番目にして最後の子供 169
■ パン号での暮らし 172
■ 学校─救い 177
■ フラムでの楽しい最後の航海 180
■ 東洋で家に帰ったようなフィーリングを味わう 183
■ 医者になる 185
■ プーナの発見 188
■ 最初のサトリ 194
■ ヨーロッパに戻る 195
■ 父の死 196
■ OSHOコミューンへの参加 197
■ ランチでのカウンセリング・トレーニング 200
■ ヌラ―私の生涯の恋人 201
■ 実存的セラピストとしての第一歩 203
■ プーナに戻る 204
■ OSHO が肉体を離れる 208
■ ミステリースクールに加わる 209
■ 母の自殺 211
■ ミスティシズムのスクールでの指導 214
■ オーストラリアに本拠地をつくる 217
■ 覚醒前の最後のできごと 218
■ ラメッシュ・バルセカーとの対話 223
■ 老師との出会い 229
■ セラピーが存在のアートに変わるとき 230 ビーイング
《巻末資料》
ラハシャのコース・CDについて 235
参考文献 237
あとがき 238
ハートからのカウンセリング
私にとって、心の働きの様々な側面を理解するということは、自分自身の成長や他の人々との相互関係、または自分がひとりのセラピスト、カウンセラー、コースリーダーとして人に働きかけるうえでとても価値のあることです。
この本では実際のコースの中からいくつかの授業、エクササイズ、質疑応答などを分かち合いたいと思っています。それらはカウンセラーとしてのみならず、もっと意識的になり、目覚めたいと思っているすべての人にとって役立つことでしょう。
ラハシャ・フリッチョフ・クラフト
第1章 人格とその層
あなたの存ビーイング在とその人パーソナリティ格がどのように関わり合い、人格の層(P 8 図1参照)がどのように発達し、形づくられていくかというシンプルなモデルを
見ていきましょう。
あなたは形をもたない意識
本質的には、生まれる以前は、あなたには形がありません。あなたは意識そのものです。あなたは永遠です。一度も生まれることがなく一度も死ぬことがないものです。あなたはいつも“ここ”に存在しているものです。
もしあなたがマスターの誰か、例えば、仏陀、キリスト、OSHO や現代のサットサングのティーチャーなどのマスターに耳を傾ければ、「あなたは形のない意識そのものであり、喜び、自由、真実、安らぎと愛の質を携えている。あなたは意識なのだ!」と彼らは言うでしょう。
あなたが探しているものはすべてみな、すでにあなた自身なのです。あなたは真実であり、真実以外の何ものでもありません。あなたの本性はまさに愛なのです。あなたのエッセンスは平和なのです。あなたは限りない自由です。あなたが求めるものが何であれ、それはあなたなのです。
すべてのものが顕われてくる背景があなたなのです。
肉体に宿るまでは、あなたは広大無辺な広がりであり、境界をもたない終わりなき意識であり、無限のスペースと安らぎ、ハーモニー、信頼と自由です。あなたは形をもたないひとりのブッダなのです。
形のないものが形をとって顕われる
ある日、両親が愛を交わします。卵子と精子が出会い、この信じがたいほどの広大な意識が突然小さな一つの細胞の中に顕われて、細胞分裂がはじまり、身体を形づくります。その形のないものがボディマインド(心身)をとって生まれてくるのです。
肉体が子宮の中で育つうちは、あなたはその形なきものとの深いつながりを感じています。母親は、あなたのまわりにあって、あなたをあらゆる側面から包んでいます。食べ物は惜しむことなくへその緒を通して運ばれます。栄養とぬくもりというあなたが必要とするものはすべてそこにあります。何も心配することはありません。あなたは永遠を体験します。
そこへ、誕生という大激変が起こります。永遠に一つであることを後にして、あなたは子宮から出てきます。あなたは到着します─誕生です。プリンターにきれいに重ねられた紙のように、あなたのマインドは真っ白です。もしスタートがよければ、あなたはこの空くう、“今ここ”に在る状態の中でトータルに数年間を生きることになります。あらゆる瞬間が不思議に満ち、どの感
情もひとつ残らず表現されます。
私たちのほとんどは、誕生の直後に母親のお腹に直接触れて寝かされたという体験がありません。生後一年ほどの間、ずっと抱っこされ、絶え間なく母親の身体と触れ合うというような恩恵を私たちは味わうことがありません。私たちがこの母親との親密さはもう必要ではないと自分で決めるまで、その生命の源(ソース)の近くに留まれる機会をたいていの人は与えられていないのです。このような体験は誰にもないのではないでしょうか?
それではここで、誰もが体験する誕生のプロセスを要約してみましょう。まず誕生の時にあなたが体験することは、しぼり出され、放り出されることです。母親の暖かいお腹の中から、硬くて、異質な外側に産み落とされるのです。永ニルバーナ遠の静寂から追い出され、外界の、未知のスペースにいる自分に気づきます。食料が供給されていた命の源から切り離されるのです。
この種の誕生体験は、誰にとっても最悪の日の原因となります。いつも側にあった母親の存在が突然消えてしまうことにまつわる強烈なトラウマです。ちょっと考えてみてください。あなたは心地のよい暗闇の中を穏やかに浮かびながら、自分の世界に浸っています。すると、カチッと誰かがあなたに何の相談もなく窓のブラインドを開けます。光。光って?あなたは光を見たこと
がありません。そしてあたかもそれだけでは足りないかのように、誰かの利口な思いつきで、呼吸に活を入れるために、あなたはおしりを思いっきり叩かれます。もしあなたがこの段階で抽象的にものを考える力をもち合わせていたら、「この人たちは誰なんだ? ボクひとりで呼吸をはじめることができることを知らないの? おおい、ちょっと待って!」と考え込んでいたかもしれません。ああ、それだけではありません。あなたのおしりを叩いた人が、こともあろうにあなたを逆さまにぶら下げ、背骨を伸ばそうとします。「背骨は子宮の中で長いこと丸まっていたのに、この人たちは何を急かしているのだろう?」。こうしてあなたは、深く呼吸することを怖れるようになるのです。
分離の体験
このとき、永遠の意識には何が起こっているでしょうか。あなたは次第に母親の身体とのつながりを切断された、分離した実体として自分の身体を体験しはじめます。あなたのボディマインドはまだ永遠の意識の中に包まれていますが、このときにはそれを忘れています。なぜなら誕生がトラウマになっているからです。
赤ん坊を見つめていると、主に二つの現象が見られます。一つ目の現象は、赤ん坊が目を覚ましているときには、常に動いているということです。足、手、頭、目が一時も休まず活動しています。常にエネルギーが変化し、移り変わっていきます。もう一つの現象は、赤ん坊が寝ているとき、永遠の中に漂いながら戻っているときに起こります。夢を見ることのない睡眠をとるとき、赤ん坊は源と再びつながります。安らぎと永遠が基調となって広がります。
赤ん坊を注意深く見守っていると、その赤ん坊の感情表現も絶えず変化していることがわかります。感情はわきあがってくるままに表現されます。赤ん坊の感覚は開いているのです。花を見れば、その花にすっかり魅了され、何か動くものを見れば、その動くものに対して敏感になり夢中になります。小さな鐘の音や何かがカタカタする音を聞くと、またそれが別の感覚の扉を
開いていきます。
もしあなたが健康的な誕生のプロセスと養育を経ていれば、ひとつの体験から次の体験へとエネルギーが流れ移行し、そしてまた、くつろいだり眠ったりすることで安らぎと源へと戻っていくことが繰り返されていきます。しかしそうなる代わりに一年目にして、あなたは何度も母親の身体との触れ合いのない状態に置かれ、ゆりかごの中に一人置き去りにされ、外部の源と切り離され、へその緒が切られたときのような誕生のトラウマを何回も体験することになるのです。
赤ん坊は次第に愛の源、栄養の源、食料の源はすべて外にいる母親にあるということを体験していきます。母親が外にある最初の源です。続いて父親や、他にあなたを世話してくれる人が現れます。滋養を得るために、赤ん坊は生に対して非常に実際的な態度を身につけます。駆け引きを覚えるのです。「何が何でも手に入れる必要がある」、これが赤ん坊のマントラになります。どんなことでも上手くいくことなら役に立つのです。「泣き叫ぶことで食べ物がもらえるなら、泣き叫ぼう」と赤ん坊は考えます。「泣き叫んでも無視され誰も側にいてくれないなら、何か別のことをやろう」「笑うことで上手くいくなら笑おう!」。自然に移ろい行くはずの赤ん坊のムードが“何が上手くいくのか”によって大きく影響されます。どんな種類の滋養が得られるか、またそれをどのように手に入れるかによって影響を受けるのです。こうしてエネルギーの自然な流れが型にはめられ、制限されるようになっていくのです。
母親が着替えさせているときに、赤ん坊が暴れると、母親はイライラするかもしれません。母親は何も言わないかもしれませんが、赤ん坊は感じ取ります。母親は「愛しているわ」と言うかもしれませんが、それでも赤ん坊は母親のそのイライラを感じ取ります。例えば子供が着替えたばかりの服を汚し、母親がそれに対する怒りを感じたとします。その怒りが言葉では表されなくても、子供はそれを感じ取ります。赤ん坊は「自分にはどこか良くないところがある!!」というメッセージを受け取り、エネルギーを抑えることを学びはじめます。ある種のエネルギーがゆるされないからです。抑えたり、我慢したりすることで、身体が緊張し、それが痛みとして現れます。
赤ん坊が感情を表現しているときに、母親から異なる反応を受け取ることがあります。自分は母親の神経にさわるのだというメッセージを受けるときがあります。母親が疲れたり、フラストレーションを感じていたりするのかもしれません。すると赤ん坊はこう言われていると感じます。「お願い、邪魔をしないで!」 赤ん坊は母親に完全に依存しているので、そのメッセージを受け取ります。そして「ボクのすることで、滋養としての源から切り離されてしまうならやめた方がいいや」と感じ、正常な生の表現に内側で抵抗することを学びます。こうした反応が続くことで、身体の緊張が増し、感情の痛みが子供の身体のエネルギーシステムに留まりはじめるのです。
あなたが抵抗するものが何であれ、それは心理的な痛みを生じさせます。正常な流れが否定されるのです。あるがままの真実であることと、どのように振舞うべきかとの間に葛藤が生じはじめ、そこに摩擦と痛みが生じます。人は自然な傾向として、痛みを避け、楽な方へと向かいます。あなたはだんだん策略家となっていきます。痛みを避け、快楽を得るために、あなたは真
実を歪める術すべを習得するのです。
母親から切り離される痛みであるバース・トラウマ(出産外傷)という人生最初の衝撃は、生命を脅かし苦しいものであるために、無意識の深いところであなたは「こんな痛みはもう二度と感じたくない!」と決めます。そしてその痛みを避けるためにあなたは、感情のまわりにレンガの壁、バリヤーを張ります。これが今日あなたが深い感情を怖れる理由なのです。
二元性の世界に入る
3歳になる頃、ちょうど単語や概念が自分の言葉になりはじめるとき、あなたは空っぽのマインドに何かを描きはじめます。あなたは二極化された世界、二元性の世界へと移り住み、マインドの中で生きることがますます増えていきます。すべてが一つであり、あるがままを無条件に受け容れていたところから、旧約聖書に書かれている「知識の木の果実を食べ」はじめます。「エデンの園」を去り、世間の期待にそった自分を形づくろうと戦略と防衛のメカニズムをつくりはじめます。
防衛のメカニズムと戦略
防衛メカニズムと戦略が発達しはじめるということは、あなたが称讃を集めようとし、また孤独と拒絶を避けようとすることを意味します。純粋な肉体のエネルギーや、自然なフィーリングや感情のまわりにシールド、層を張りめぐらせていきます。それらは歪められます。あなたは抑圧したり、順応していきます。緊張が、肉体や感情体の心理的な傷に立ち現れます。ボディマインド(心身)に閉じ込められた、未解決のエネルギーパターンが集積されます。ペインボディ(痛みの身体)が形を成しはじめます。
ひとたび自分の要求やフィーリングをあるがままに受け容れなくなると、あなたはそれらを何らかの方法で歪めざるを得なくなります。まわりに受け容れてもらえない要求やフィーリングを、あなたは抑圧するかもしれません。それらを表現すると罰を受けるという怖れから、あなたはその欲望やフィーリングを否定するかもしれません。いったんあなたの一部が隠されてしまうと、その否定されたものは他者の上に投影されるようになります。あなたが自分に対して否定していることを他人がしているのを見ると、心が痛みます。あなたは悪いと決めつけ、批判しはじめます。その痛みを感じないように過去のことを書き換えたり、正当化したりします。あなたの基本的な要求をもっと受け容れられやすいものに転化したりするかもしれません。
戦略の例として、衝突を避けるために、いつも良い子でいる八方美人になろうとするかもしれません。注目を集めるために戦う人になります。痛みを感じることを避けるために仕事、テレビ、コンピュータゲーム、過食、アルコール、ドラッグなどで気を紛らわせます。
自分の生活を調べ、痛みを避けるために自分が何をしているかを見てみてください。痛みを避けるためにしていることが何であれ、その戦略は上手くいっていないことがわかるでしょう。それでもあなたはそれを続けているのです。おかしいと思いませんか?
戦略通りに行動するには努力を要します。そのためにあなたは分離した状態に留まり、“他者”はあなたの痛みを引き起こしかねない潜在的な脅威となるのです。そして、あなたは防御しはじめます。このことが分離感をいっそう強めていきます。エデンの園、本来の自己、一なる状態からの追放が起こるのです。
理想と「べき」
たいてい両親というのはあなたが本来のあなた自身であるより、子供としてどうある“べき”かということに興味があります。これはつらいことなので、あなたはこの痛みから分離する方法を学び、さらにこの分離を正当化する術すべも身につけます。あなたは戦略の上に理想と“べき”の層をつくりあげます。「良い子でいなくっちゃ。怒っちゃいけない。隠しごとをしたり、うそをついたりしちゃダメ。賢くって、何でも知っていなきゃ。ちゃんとおとなしくして、騒いじゃいけないんだ」“受け容れられない”行いが生じるたびに、あなたは無意識のうちにその行いを“悪い”ものとしてレッテルを貼り、抑圧します。あなたはあるがままの自分でいてはいけないと自分自身に言い聞かせます。そしてあ・・・なたがあるがままでいてはいけないのなら、他の人もまたあるがままでいてはいけないのです! あなたは自分も他人も間違ったものに仕立てあげてしまうのです。こうしてさらに大きな分離がつくりだされます。
これはあなたの関係性がなぜ困難であるかの、あなたがなぜ自分のパートナーと一体感をもてずに争い合うのかの理由のひとつです。
信念
“べき”と理想を保ち続けるために、あなたは数々の信念の層や、理想の上に築かれたいくつかの信念体系の層に、盲目的に適応しようとします。自分はキリスト教徒、ユダヤ教徒、仏教徒、イスラム教徒、もしくはヒンドゥー教徒であると信じます。自分はドイツ人、アメリカ人、ロシア人、イタリア人、日本人であると信じます。あなたは思考が紡ぎあげた現実を信じ、それを守
ろうとします。ところがその根底にあるリアリティはあなたの信念について何も関知することなく、ただそこにあるだけです。
あなたが信じているところの神は幻想です。存在していません。あなたが信仰している神はただの思考にすぎません。聖書には「神は自らの姿に似せて人間を創造した」と述べられていますが、実際は人間が自らの姿に合わせて神をつくり出したのです。万能の神というのはとても強力な思考であり、「私の神こそが唯一の神であり真実だ」という信念をつくり出します。イスラム教徒たちは神とはアラーのことであり、それが唯一真実の神であると信じ、キリスト教徒たちはキリストの父こそが神であり、唯一真実の神であると信じます。これらの信念はお互いに橋を架けることのできない大きな隔たりを生み出します。ですから、この信念の層においては、人間は非常に分離しているのです。
世界中で起こっている戦争の多くは宗教戦争です。異なった信念をもつ者同士が衝突し合うもっとも激しいケースです。信念はただの思考であり、マインドの織物です。実在しませんがとても力強いものです。
マルクス主義者は存在するのは物質世界のみだと言います。意識は存在しません。彼らにとって、存在するのは肉体、マインド、そして信念のみです。唯一共産主義だけが進む道だとします。何百万もの人々が共産主義という名のもとに殺されました。より良い未来を信じることが、たくさんの“今”を殺すことを正当化しています。“未来”は思考、信念です。それは存在しません。なぜなら、“未来”が到着するとき、それはいつも現在として到着します。
アイデンティティ(自己同一性)- エゴ(自我)
信念というのは非現実の領域に存在するにも関わらず、とても強力なものです。結晶化した信念と、その底にあるすべての層が危ういのは、数あるアイデンティティ(自己同一性)とは明らかに異なる分離したアイデンティティをつくりあげることにあります。腱が骨に張りついているように、今まで話してきたすべての層にあなたは執着するようになります。それらの層の中であなたが同一化したものがあなたのエゴ(自我)を形づくります。そのエゴは、分離を引き起こしている種々様々な理由をもとに、空想上の人生を導き出します。エゴにはあなたの同一化に合わせて、なすべき務めがあるのです。エゴは生に対する「ノー」であり、生の自然な流れに対する「ノー」です。かつては変化に富み自由に流れていた川の流れが、硬直した水路になります。
目覚めの後に残る健やかな個性とは、ボディマインドと名前に対する相対的な同一化だけです。それがあなたのユニークなところなのです。エゴの限られた層が、肉体エネルギー、感受性、受容性、喜び、行動力、知恵、愛、慈悲、創造性、理解、気づき、明晰さ、全体とのつながりなどと特有に組み合わされることで、あなたのユニークな特質へと変容します。
探求
こういった信念体系はすべて二元性の幻想を私たちに信じ込ませるために存在が仕組んだ非常に精巧なからくりです。私たちに分離を信じ込ませることで、存在、生はそれ自らを再び見い出すことができるのです。一なる状態の中では何も起きません。生は二元性、二つに見えるものがあって初めて生まれることができます。そうすることで、その二つの対極が遊びはじめることができるのです。
ところがその分離感があまりに痛みを生じさせるので、あなたはスピリチュアルな旅をはじめるのです。あなたはかつて自分が持ち合わせていたことを知っていたものを探しはじめます。マスターのもとを訪ねるかもしれません。そしてそのマスターや先生たちが「あなたのエゴが問題だ、それらを取りのぞかなければいけない」と言っているのを聞きます。
数年に渡り、私はエゴをなくそうと懸命に努力をしました。私はエゴを殺すには自分自身を殺すしかないと気づきました。しかし、そうしたとしても上手くはいかないのです。私が実際に死ぬときに発見しなくてはなりませんが、私が知る限りでは、死んだり、殺されたりできるのは肉体だけです。マインドやエゴの構造は結晶化したエネルギーパターンとして存続し、新たにそれを演じるために次に生まれるための子宮を探していくと、様々な教えが述べています。ですから、自殺というのはあまり良い考えだとは思えません。
かつて、人々はエゴを捨てるために僧院に入りました。深い瞑想の中で、彼らは自己同一化を超えた真の本性を垣間見たのかもしれません。そして「 これが私だ。それが瞑想で分かったのだから、それを失わないために世捨て人となって僧院に留まらないといけない。そうすれば純粋な意識の境地にくつろげるだろう」と考えます。おそらく二十年の深い黙想と瞑想のあと、彼らは世間に戻らなければならなかったでしょう。そして、あるとき誰かが
彼らをからかうと、突然激怒し、「瞑想と内なる安らぎはどこへ消えてしまっ
たのだろう」と不思議に思うのです。
何が起こったのかというと、挑発されたことで、まだ同一化している未解決の人格の層が躍りでてきたのです。ですから、この世を否定し世間から離れることは、人生としては偏ったままになるでしょう。あなたは世界を怖れたままなのです。
私がインドのOSHO のコミューンに十年間住んでいたときにそれが起こりました。私はいつもコミューンをあとにして世間に戻ることに気が進みませんでした。OSHO は私たちが世間の中に出て行って、瞑想を試み、内なる安らぎがどれくらい深く根づいているか、またその変容がどれだけ本物かを試すよう強く話していました。
私たちはエゴを排除することはできません─エゴというのがそもそも第一の幻想なのです─けれどもそのエゴを調べ、そのエゴを超えたところにある「私は誰か」ということを探求しはじめることは可能です。その探求はたいてい、焦点を内側に転じることではじまります。
ここでは、主に二つのアプローチが可能です。ひとつは瞑想であり、それは気づきをもたらします。瞑想のテクニックを学び、油断なく醒めていることを実践します。静かに自分の思考、感情、身体の感覚を見守ります。それによって次第に脱同一化がもたらされます。もうひとつのアプローチはマインドの層をもっと透明にしようと努力する実存的セラピーです。気づきと愛のある受容によって、同一化は次第にゆるみはじめます。
どちらのアプローチも、全体の一部であるものに同一化を続けることは不可能であり、マインドの二元性を超えて量子的飛躍を行い、一なる状態になることは可能である、という深い理解に至ることを目指します。これを自分が誰であるかに目覚めること、自己認識、または悟りと言いますが、視点の変化にともない名前が変わるだけです。












