

目 次
まえがき 1
序章 6
1 愛しのお父さん 10
2 秘密 21
3 初めてのヒーリング 24
4 あなたは誰? 30
5 薬屋 36
6 「王の身代金」 48
7 じっとたたずむ時 59
8 ダマスカスヘの道 67
9 ゴールド・ヒル 70
10 その夜「バランス」は生まれた 75
11 大会 81
12 「打ち上げ」作業 93
13 オリンピア 104
14 コベンハーゲン 111
15 カラー・マジック 117
16 「バランス」ボトルの使い方 124
17 チャクラ 136
18 オーラソーマ「バランス」のサブタイトル 169
19 「バランス」ボトルのサインとシンボル 204
20 ニューエイジの子供 212
21 エッセンス、ポマンダー、クイントエッセンス 229
22 小さな奇跡 243
23 ヒーリングの源泉 247
24 動物界 260
25 オーラの飛翔 273
26 ヴィジョン 280
27 「デヴ,オーラ」 285
付録 292
訳者あとがき 297
まえがき
この本は、それはたくさんの人のハートに触れました。著者の誠実さがそこに輝き、神に中心を置いた彼女自身を映し出しています。ヴィッキー・ウオールその人を知るという特権に浴した私たちは、彼女がどれほどおしみなくオーラソーマの発展に身を捧げたかをよく理解しています。
七年前にあるひらめきを受けて誕生したオーラツーマが、今に至るまで、驚くべき勢いで国際的に広がっているのは、まさに彼女が神の導きを信頼した結果なのです。彼女はつねに、真の謙遜をもつて信念に従いました。
重病を抱え、毎日の生活を厳しく律しなくてはならなかったにもかかわらず、ヴィツキーは溢れるようなユーモアのセンスと、深く愛する能力を失うことはありませんでした。
今年の一月、ヴィッキーは突然大いなる園へと呼び戻されました。彼女を失ったのは本当に淋しいことですが、オーラソーマを手にし、それがそこここで美しい花を咲かせているのを見、そしてつねに神聖な知恵が私たちを導き、方向づけ、私たちの指から神聖なヒーリングのエネルギーが流れるのを感じるたび、私たちはヴィッキーの存在を身近に感じることができるのです。
この本が最初に出版されて以来、ヴィッキーが講義をしに出かけた国はドイツ、スイス、フランスを含む多くのヨーロッパの国々にわたります。そして今、オランダやスペイン、遠くアメリカや南アフリカヘも彼女のヴィジョンをもたらし、講義をする時がやってきたのです。オーストラリアのクイーンズランドでは、ヴィッキーから直接教えを受けた二人のセラピストによって、すでに第二世代のセラビストが生まれています。そして今、オーストラリアの他の州からも講義の依頼が届き、新たな光が灯されようとしています。どうかこの本がさらに多くの人々のハートに触れ、ヴィッキーのオーラソーマ・ファミリーに、より多くの人たちが集いますように。すべてが刷新される時代、新たな時代への彼女のヴィジョンを実現するのは、私たち一人一人なのですから。
マーガレット・コックビン
1991年 テットフォードのデヴ・オーラにて
序章
そっと歩んでください、友よ。あなたの歩むのは、私という人生の織物の上なのですか
ら。目もあやな縦糸と横糸によって、時の初めから、繰り返し繰り返し演じられてきた美
しいドラマ、必然へと運命づけられ、やがて明かされる目的へと進んでいく、その歩みの織り成す見事な模様の上を歩むのですから。
私はロンドンに生まれました。七番目の子供の、そのまた七番目の子としてです。父もその両親も、→ンディズムの人でした。ハシディズムというのは、聖書の神秘的な側面を含む深い宗教の一派で、父はカバラとゾハールま註モーセの五書のへどフイの神秘主義的注釈書)のマスターであり、そんな背景のせいで、植物の癒しの作用や、薬効に関する知識、そして自然の癒しの方法に詳しかったのです。その知識は私に受け継がれましたが、そんな父との幸せな時間は、継母の執念深いいじめにあって長続きせず、とうとう十六歳で私は家を出ました。
私は子供の頃から繰り返し、不思議な体験をしていました。そうした経験の中には、自分が何をしたわけでもないのに人の病気が治ってしまうとか、人のオーラが見えるといったことがあり、幼い私は理解できないだけに、時には恐くなったものでした。そして、そんな体験の繰り返しのうちに、戦争となりました。
いたるところで、人が傷つき、死んでいき、戦争は私にとって、そうした人々のオーラのパターンを観る、霊 的な調査の時期でした。けれども私にとって決定的で、運命的な出来事は、ミドルセックスのウエスト・ドレイトンで、エドワード・ホースレーに会ったことです。彼は年老いた薬剤師で、いくつものハーブを壁に吊し、音ながらの方法で錠剤を作り、薬を調合していました。
ここで私は、心ゆくまで、父からの教えをもう一度復習し、使うことができたのです。この間に、いくつかの小さな奇跡が生まれました。原料不足の折に、手順を間違えて失敗作をこしらえてしまったのち、ふとしたひらめきによって、意外な方法を試したところ、とてもすばらしい治療効果のあるものが生まれた、ということもあったのです。
戦争が終わり、ホースレー氏が亡くなったあと、私は自分の手をヒーリングの道具として使えるよう、キロポディスト足治療医、まめ・を」などの治療にあたる医者)になることに決めました。初めは薬局で開業していましたが、のちに運命が私をバッキンガムシャーのグレート・ミツセンデンヘと連れ去り、そこで私は、三度の臨死体験をへて、その体験から、人に奉仕するためにこの世に戻されたのだと実感しました。
その後、さらなる災難が私を襲いました。突然の失明です。
おかげで私は、繁盛していたクリニックをたたみ、引退を余儀なくされたのですが、たくさんの人を癒し、たくさんの人たちの人生を変えたオーラソーマ「バランス」ボトルが生まれたのは、実はその後のことなのです。そしてそれは、まさに人の魂を映し出す鏡であることが明らかになってきました。
このユニークなカラーセラピーは、多くの生きたエネルギーを受け取りながら進化し、肉体、心、魂のすべてのレベルをヒーリングするもので、他の多くのセラピーの助けにもなります。
今や私は、海外で講義をする機会がどんどん増えています。またセラピストや一般の人たちのためだけではなく、海外で活躍する講師を養成するためにも、センターの必要性が明らかになってきました。リンカーンシャーのデヴ。オーラは、奇跡ともいえる方法で私たちのセンターになり、今や新しい時代のセラピーの先駆けとなるべく、世界中から生徒が集まってきています。
ここで特に記しておきたいのは、遥か昔、人類がその愚かな振る舞いによって減亡の危機に瀕したとき、ノアに最初のニューエイジ(新しい時代)の約束が与えられた、ということです。今日、いつ、誰が核のボタンを押すのかという恐怖で、たくさんのハートが震えている一方、キリストの再来と、ニューエイジについての約束が繰り返し説かれ、たくさんの人がその訪れを待っています。けれども私は心から言いたいのですが、それはもうすでにここにあるのです。ノアに与えられた約束の意味は、神は三度と世界を滅ぼそうとはしない、ということなのです。その契約は初めて、虹の七色を通して表されました。
わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。
創世記九章一三節
オーラソーマの新しい面は、日に日に明らかになっています。それは、成長し続けているセラピーなのです。この序章は、そのほんの始まりにすぎません。
1 愛しのお父さん
一九一八年、母がスペイン風邪に倒れたとき、父は母を救おうと、死に物狂いの努力をしました。高熱を下げるため、濡れた毛布で母をくるむ水療法を試み、その横で添い寝をしましたが、効果はむなしく、結局、戦争と子供をたくさん生んだことが災いし亡くなりました。母が死んだとき、父のハートも母とともに埋葬されましたが、ありがたいことに、同じ病に倒れた一番上の姉は、 一命をとりとめました。
そして父の元には、ほとんど新生児同然の私と、二、三歳の間隔をおいてずらつと並ぶ六人の子供が残されました。そんな父に与えられた選択肢は、二つだけでした。家政婦を雇うか、それとも再婚するか。そして父は、後者を選んだのです。
ポーランド人の血を引き、小柄でがっしりした体格の継母は、ブルーグレーのとても表現力豊かな瞳を持ち、優しい表情は一瞬のうちに、獲物を狙う猫の執拗な残虐さへと変わりました。そのまなざしは、私の胸に焼きつき、その後何年も夢に現れ、私を苦しめたものです。彼女は父を愛し、子供を欲しがったのですが、ついに一度も恵まれませんでした。
まだ生後数か月しかたたず、まったくよるすべのない私を、彼女はどうやら、欲しくてたまらない自分の子と思い込むようになっていったようです。まだほんの赤ん坊でありながら、私が母ので
はなく、父の面影を漂わせていたことも、彼女が幻想にひたる助けになったのでしょう。今こうして生後間もないころ、あるいは、子宮にいた頃を思い出してみても――それは、私の持って生まれた並々ならぬ能力の一つなのですが――そうやって思い出してみても、最初の二、三年間は、どんな不調和もトラウマ(精神的な傷)の形跡もないのです。その間、私は彼女の子供として、自然に育てられたのでしょう。七人の兄弟のうち、私だけが彼女を「ママ」と呼び、兄や姉は「おばさん」と呼んでいました。彼らは、最愛の母が亡くなって何か月もたたないうちに、その後釜に居座わった彼女を、よくは思っていなかったのです。そして、継母と兄や姉との関係は、次第に緊張を増していきました。
父は、そうした状況をまつたく気にとめていませんでした。子供たちの愛情を信じていましたし、生活を混乱に陥れたくはなかったからです。継母は、すばらしく料理がうまく、家政婦としては申し分のない人で、夫の必要とすることに絶対の価値を置き、鋼鉄のルールのもと、家の中は、すべてが規則正しく管理されていました。けれどもそれは、子供のための場所ではなく、本やおもちゃや遊び友達は、ちり一つ落ちていない家にとって招かれざる客でした。彼女はその点においては、ほとんど病的で、兄や姉や私が、彼女としっくりいかなかったのも当然といえば当然、彼らはまもなく、私をその冷たい氷の城に置き去りにし、 一人、また一人と、自分の道を見つけ愛しのお父さん
て家を出ていきました。
それでも兄や姉は、定期的に父に会いに、家に戻ってきていました。私の子供時代に暗い影を落とすことになった事件が起こったのは、そんな日々のことだったのですが、なんと悲しく皮肉なことでしょう、そうした不幸の引き金を引いたのは他でもない、私をもつとも愛してくれていた姉だったのです。
ある日のこと、彼女といるとき、私は「ママがね、こう言ってね」とか「ママがね、こうしたの」とか、くったくのないおしやべりにうつつを抜かしていたのです。というのも、その当時、私はまだ彼女を母親だとばかり思っていましたから。
そんな私が突然、姉にこう言われたとき、どんなに興味をそそられたか想像してください。
「あの人はね、お母さんじゃないのよ。言われたとおりにしなくたって、いいんだから」その時はそれで終わりましたが、その言葉は、私の頭にしみ込みました。それからしばらくたったある日、ささいなことで、継母との間に衝突が起こったのです。何についてのことだったのかも、もう思い出せないほどささいなこと、何か私に手伝ってほしいとか、そんなようなことだったのですが、私たちは、もう後戻りできないところにまで来ていました。隅に追い詰められた私に、数日前の記憶がよみがえり、私は挑むように彼女を見据え、こう言い放ったのです。
「あんたは、お母さんじゃないもん。言われたとおりにしなくたって、いいんだから」
長い沈黙がありました。ブルーグレーの瞳が鋼鉄に変わり、その瞬間、私の後ろで、地獄の門ががしゃんと音を立て、その時から、すべてが変わりました。幻想はこっぱみじんになり、私は彼女のあらゆる欲求不満と憎悪のはけ口となったのです。それからの私の生活はまさしく、エリザベス・バレット・プラウエング(ギリスの女流詩人 1806-61)の一言つところの、「涙が、私の人生の彩りをすべて洗い流してしまった」でした。
継母は、その残忍さで、自分の目的を果たしたのは間違いありません。それは、私にとって学びの時でした。今でこそ私は、彼女の行動の根本にあったものに触れ、それを理解することで彼女を許すことができるようになりましたが。
しかし、子供の私は話し相手もいないまま、夜ごと秘かに枕を濡らしていました。唯一の慰めと言えば、愛する父が夕方帰ってくるということだけ、彼はいつも必ず「おやすみ」を言いに来てくれることになっていたのです。私の寝室は食堂の並びにあり、たぶん赤ん坊の時からの習慣でしょう、私の部屋のドアも、食堂のドアも、いつも開け放しになっていました。父の存在、そしてそのゆったりとした足音は、当時、誤解と不運によって私に降り注いでいた、あらゆる不幸を癒してくれたのです。
私は、うっとりしながら、ベツドに横たわっていたものでした。食堂のテーブルの上のナプキンはあくまでも自く、銀食器はきらきら輝き、キャンドルの淡い明かりに、ワインの入ったガラス瓶が柔らかい光を放っています。毎晩毎晩、まったく同じ儀式が繰り返されました。七時に夕食が始まり、二人は一日の出来事を話し合います。私は、父がデザートの洋梨の皮をむく手つきを、食い入るように見つめます。それは、待ちに待った瞬間がやってくる合図でした。父はいつも、みずみずしい洋梨の最後の一切れとともに私の元にやってきて(涙は久しく乾いておらず)、私に「おやすみ」のキスをしてくれることになっていたのです。
今世紀の初めには、子供たちは勝手が許されず、「早寝早起き」が広く実行されていました。それは私たちの家も例外ではなく、父が夕方戻ってくるまでに、長い長い準備の時間がありました。私は冬には、たいてい四時にはベツドルームに閉じ込められたのです。
四時から七時が、胸のふくらむ待ち時間でした。父が現れ、「おやすみ」を言ってくれるまで、私は決して眠りにつくことはありませんでした。
寝室のすぐ外にあるガス燈にまだ火が入る前の、薄暗いベッドで横になっていると、奇妙なヴィジョンが私の意識の中へと漂ってきたものでした。こうした感覚は、子供時代にある一定の間隔を置いて繰り返し現れ、私の生涯を通じて起こり続けたものです。私はいつの間にか、知らない旋律の歌を回ずさんでいました。おまけに歌詞も意味不明で、その響きといい、意味といい、私の住んでいる世界とはまるで何のつながりもないような歌。けれども不思議なことに、それはまるで、私が遠い音に使っていた言葉のように、懐かしい響きを持っていました。
そして繰り返し現れる、あるヴィジョンがありました。突然、まぶしい光が部屋中に満ちたかと思うと、背の高い、痩せた女の人が立っているのです。痛ましいほどやつれた彼女は、同じようにやせて、肋骨が透けて見えている猟犬を従えています。飢餓の様子が、ありありと見て取れました。にもかかわらず、彼らには育ちのよさと、威厳が感じられ、その気高さは、それはまぶしいほど。私はほんの三歳ほどの子供でしたが、恐怖も不安もなく、繰り返し現れては消える彼らを見守っていました。彼らの身の上は哀れではありましたが、どこかで分かっていたのです。これは彼ら自身が選んだことだ、と。それは、彼らの歩むべき道だったのです。
このヴィジョンは、ある日、別のヴィジョンによって、その意味するところがすっかり明らかになるまで、何年も繰り返し現れ続けました。その後、彼らは永遠の休息へと出掛け、そして、今生での役割へと戻ってきたのです。これによって私は、自分の体験に対する十分な理解を得ることができたのでした。
これは、私の初めての「過去生回帰」つまり、現在と関係のある過去を知る体験だつたのです。継母が家事の天才だったのに対し、父の本分はヒーリングでした。うちでは、医者を呼んだ覚えがありません。私たちがまだ小さいうちから、父は私たちのあらゆる必要を見て取って、あらゆる病気の世話をしていました。例えば私は、一扁桃腺がとても弱かったのです。
あるとき、それは炎症を起こし、私はあまりの痛みに惨めに涙を流していました。今でも温めた酢の酸っぱい匂いを嗅ぐと、父が丹念に茶色の紙を折り、その折り目に酢を注ぎ、それをリネンのハンカチで包んで、その上に熱いアイロンをかけていた姿がよみがえってきます。それから父は、そのハンカチで私の喉の周りを丁寧に湿布したのですが、次の朝には、もう痛みは消えていました。
それから何年も経ったのち、私はどうしてその処置が功を奏したのか、初めて理解しました。その起源は、古代の伝承にあったのです。当時のクラフト紙は、本のパルプをひいて作られており、紙の中に実際に木の繊維が透けて見え、さまざまな鎮痛剤の元となるエッセンスや樹脂が、豊富に含まれていました。それがアルコールや酸に溶け、熱を加えることで、さらにその効果が倍加されたのです。
私は来る日も来る日も、週末になるのを待ち焦がれていました。それは、愛する父が、私をさまざまな遠征に連れ出してくれる日だったのです。当時の男の人は、厳格な時間割で生きており、私の父もその例外ではなく、私は、自分たちがいつどこへ行くのか、何をするのか、すっかり分かっていました。
土曜日の朝は、床屋へ行くのが決まり。当時の男の人は、かみそりで髭を剃ってもらつていました。父はとても美しいブラウンの瞳を持ったハンサムな人で、そのまなざしは暖かくて表情に富み、相手のハートを射抜くようなところがありました。人を見るときには、まるで二つの祭壇にキャンドルがともるかのよう。大きくはないけれど、はしばみの実のような爪のそろった美しい手を持ち、一肩幅は広く、腰は細く、姿勢も良く、人づてに聞いたところによると、彼は八十五で亡くなるまで、少しの贅肉も身につけなかったとのこと。彼の身のこなしには、王者の風格がありましたが、にもかかわらず、彼はつつましい穏やかな人で、声を荒げた姿は、 一度も見たことがありません。真っすぐなまなざしだけで、事は足りました。常に、しみひとつない服を着て、すべてにわたってきちんとしており、自分の身体を神殿として敬意を払っている人でした。子供たちは皆、心から彼を愛し、尊敬していたのです。
床屋では髭を剃るのが普通でしたが、髪を切ることもありました。その間私は小さな木のベンチにぽつんと座らされ、ピンク色の鼻先だけ残して父の顔が熱いタオルにくるまれていくのを、息を呑んで見つめたものでした。果たして息はできるのだろうか、とそのたびにはらはらし、タオルがどけられ、父の顔が無傷で現れるのを見ると、本当にほっとしたものです。それから床屋は、氷のかけらのようなもので父の顔を撫でるのですが、それは今になって思えば、ミョウバンでした。ミョウバンには毛穴を閉じ、肌を引き締める作用があり、今日でも、たくさんのアストリンゼント・ローションに使われています。
次なる私たちの目的地は、父のクラブです。そこで私は、背の高いスツールに座らされ、ウエイターとも店員ともつかない人に面倒を見てもらうことになっていました。週に一度の大きな贅沢であるチョコレートバーが私のお相手、父は着ているものを汚さないようにと私の首に大きな白いハンカチを巻きつけたあと、女子供立ち入り禁止のクラブの奥へと、おもむろに消えていくのでした。私は子供ながらに、その中で何が行われているのか、あらゆる魅惑的な想像を繰り広げたものです。けれども、ある日、立ち入りを許された兄の一人が教えてくれたところによると、何のことはない、そこで皆はチエスをしていたのでした!
やがて、父は姿を現し、私の回の周りのチョコレートを拭いてくれます。そしていよいよ楽しみは佳境に入っていきます。私たちはいつもそれから、とても高級なフルーツショップに寄って、何かを買うことになっていました。そこには、ガラスの長いビンに入った輪切りのパイナップルがあつて、父はいつも、そのすばらしい香りの一切れを私にくれました。私はいつも、お目当てのパイナップルが長い二股のフォークでビンから取り出される様子にうっとり見入りながら、それが手元に届くまで、途中で地面に落ちたりしませんようにと、心のなかで祈ったものでした。そうした悲劇は一度起こったのですが、マナーにきちょうめんな父は、黙ってフォークに残った切れ端で我慢するように、と言い渡したのです。
私は立ったまま、みずみずしいその果物を夢中で味わいます。その間に父は、店の中で念入りに品定めをします。私は父がお金を払うのを、 一度も目にしたことがありません。五歳か六歳という年齢では、つけで物を買うなど知るよしもなし、私は父を感嘆の目で眺め、まるで神のようだと思いました。というのも、欲しいものを何でも好きなように持っていくように見えたからです。実際、父が聖書の「地のすべての呆実は、神のものである」というくだりを読んでくれたとき、私はその通りだ、と思ったものでした。
そして、お次はヴィクトリア・パーク。それは、テムズ川の北にある、ロンドンの広大な公園で、父は仕事の都合上、どうしてもこの周辺に住む必要があり、私もここが大好きでした。
この公園には、動くものや息をするもの何にでも興味を示す子供にとって、たくさんの楽しみがありました。おとなしい鹿がエサ欲しさに近づいてきます。父は、いつも必ず白いリネンの袋に、パン屑などをいつぱい詰めて持ってきていました。父がそれぞれの名前で呼びかけると、鹿の方もなれた様子で近づいてきます。それから、小屋の中にいるオウムに向かい、もったいぶつて「おはよう」をいいます。私は、どちらかというと、オウムは苦手でした。鋭いくちばしと、しわがれた声が恐かったのです。
池の端まで行くと、いつも裸足の子供たちが目に入りました。彼らは靴ひもを結わえて首から下げ、小さなジャムのビンと手作りの網を手に浅瀬に入り、虹色のトゲウオを追っているのです。私は、決してその仲間入りをすることはできませんでした。父は、ガラスの破片を素足で踏むことがいかに危険か、よくわきまえており、実際一度ならず、そうして怪我をした子供に手を貸してやっていたのです。それ以来、父は私に池に入ることを禁じました。私は、ビンの中で泳いでいる虹色の魚に見とれましたが、あるとき、ショツクのためか、あるいは扱いが悪かったのか、一匹の魚がお腹を上にして死にかけているのを目にしてからは、本気で魚を捕まえたいとは思わなくなりました。
父は、動物と植物の世界に完全になじんでいました。二人で歩いているとき、あちこちに豊富に生えている野草を指差しながら、私に聞いたものです。
「いつたい、どれが、パパのかわいそうな手を治してくれると思う?」
もちろん、かわいそうな手などありはしないのですが、私はどの草が愛しい父の役に立ってくれるだろうかと、あちこちのハーブや花の周りを、夢中で歩いて回ったものでした。そんなふうにして彼は、私の内にすでにあった本能が花開く助けをしてくれたのです。父がさまざまなハーブや花について説明してくれるたび、私の胸は躍りました。その言葉の一つ一つには、植物への愛があり、彼はそれぞれの植物の癒しの効用を、その植物との実際の交わりの中から見出していました。たとえ一本の草でさえも、むやみに摘むのは許されませんでした。
「必要があるとき以外は」父は言ったものです。「命を粗末にしてはいけない」
これは、私にとっては、まったくリアルなことでした。あるとき、ブルーベルの茂みが無残に引き抜かれ、みずみずしさを失い、まるで戦場で無益に死んでいった人々のように折り重なって倒れ、道端に投げ捨てられている姿を目にしたときの悲しさといったら。本当に、胸をかきむしられるような思いがしたものです。
こうした父との関わりこそ、私の幼い、満たされないハートの求めてやまぬものでした。目に見えるもの、あるいは目に見えない生命力を、私はすべて父を通して学んだのです。私たちはまるで、子供心に疑いもなく受け入れていた内なる知識の中で、 一つに結ばれているかのようでした。そしてまた、私の父は、そのまた父に結びつき、そしてその父はまたその父に、といった具合に。そんなふうに、永遠へと長い長い鎖が伸びているのが感じられるのです。
幼い私にはよく理解できない、奇妙な出来事がそれから幾度となく起こりました。そのパターンは私の生涯を通じて続き、やがてその果てに、理解と認識とが開けていったのです。












