「存在の詩」立ち読みコーナー

 

存在の詩

 

復刊に寄せて

 一九七七年の初版から四十三年。多くの人に愛読され、少なからぬ人たちが生き方を変えるきっかけとなった本書が装い新たに再デビューするというので、かなりの時間をかけて訳文を見直した(幸い大きな改変はない)。

 このあいだに、日本では本書も引き金となって「精神世界」というジャンルが生まれたり、世界的に何度かの新宗教ブームが起こったりしたが、ここで語られている内容が古びることはなかったようだ。

 初版当時と変わらないのは、いや、ある意味でもっと危機が深まっているのは、分断が進む社会で格差や貧困、差別などに向き合う人びとの苦しみ、人間の価値をお金やモノや地位だけで測ろうとする偏見、そして日々の現実となってしまった気候変動をはじめ、地球環境=自然生態系に悪影響を与える現代文明のあり方だ。しかも、これらの問題はすべてどこかでつながっている。

 本書のテーマは「ありのままの自分でありきること」に尽きる。「エッ、そんな簡単なこと?」と思うだろうが、老子の「無為自然」同様、簡単なようで、そう簡単ではない。ほとんどの文化で、生まれたときから「ありのままの自分」を否定する方向の躾や人づくりが行われているからだ。日本も例外ではなく、私たちは知らぬまに自己規制と自己否定でがんじがらめのまま死んでゆく。

 そこから自由になるには、自分が何にどう縛られているのかを瞬間ごとに観察し続ける眼力に加え、縛られていることさえありのままに受け容れて「何もしない」胆力が要る。縛りの多くは、社会生活上の必要性や機能があって身につけたもので、本当に残念なのは、縛られている事実に無意識のまま、それが自分だと思い込んで生きていくことなのだ。

 私の経験では、刻一刻、自分の マインド がどう動いているかについての観察眼を育んでくれるのが瞑想であり、さまざまな制約を内化してしまっている事態を含め、徹底して瞬間の真実を生きる勇気こそが本書の核心である。それ以外に何も要らないことを、OSHOから学んだ。

 これまで一般にはとうてい手のとどかなかったチベット密教の奥義が本書のような形で表に出るのは、二 ○世紀後半以降、世界各地の先住民文化から部外秘の伝承が明かされ始めていることと軌を一にするのだろうか。多くの場合、理由は「人類全体がその知恵を必要とするほど危機が深まっているため」とされる。

 社会への適応過程で刷り込まれた「自分でないものになろうとする」根深い衝動から自由になり、〈いま・ここ〉にくつろぐこと ――時代と文化を問わず、達成幻想に囚われたすべての探究者を打ちのめすこの劇薬が、これほど美しい言葉のダンスに乗せて、これほど多くの人に届けられたのは初めてかもしれない。

星川淳


目 次

    復刊に寄せて星川淳

第一話 マハムドラー ─ 最後の、そして究極の体験 9

第二話 心とは実在なのか。それともただのプロセスなのか? 75

第三話 光と闇の本性について 137

第四話 行為と行動のデリケートな違い 189

第五話 タントラは偉大なイエスマンだ 245

第六話 意志の道、ヨーガ 愛と降参の道、タントラ 319

第七話 あのね それ両方もらうよ! 389

第八話 鏡になる 457

第九話 自分の靴ひもをひっぱって空に昇れるか? 519

第十話 大いなる海――終わりなき旅の終わり 579

第一話マハムドラー――最後の、そして究極の体験


 

第一話

マハムドラー

最後の、そして究極の体験

 

ティロパは「マハムドラーの うた 」の中で
次のようにうたっています……

マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
いまこの うた を与うべし

くう 」は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり

 

究極の体験というものは全く体験なんかじゃない。肝心の体験者が消え失せてしまっているからだ。そこに体験者が存在しないとき、それについて何が語られ得るだろう?誰がその体験を話して聞かせるのだろう?

主体が存在しないとき、そこには客体もまた存在しはしない。ふたつの堤は消え失せ、ただ体験という川だけが残る。そこに〈知〉はあろう。しかし〈知る者〉はない。

 それはすべての神秘家たちにとって、ひとつの難関であり続けてきた。究極なるものにたどり着いても、彼らにはそれを後に続く者たちに語り聞かせることができない。彼らはそれを他人に、知的な理解を求める者たちに語り聞かせることができない。彼らはそれとひとつになったのであり、彼らの実存が丸ごとそれを語っているにもかかわらず、知的なコミュニケーションだけは不可能なのだ。

 もしもあなたに受け容れる用意があれば、彼らはそれを与えることはできる。もしあなたのほうもまたそれを許すとしたら、彼らはあなたの中にそれを起こらせることはできる。もしあなたに感受性がありオープンならば――。だが言葉は駄目だ。シンボルも役に立たない。理論や教理など全くなんの用もなさない。

 その体験は〈体験〉というよりも、むしろ〈体験しつつあること〉と言ったほうが近い。それはプロセスなのだ。そして、それは始まりはするが決して終わることのないものだ。あなたがその中にはいり込んでしまうことはあっても、それをわがものにすることなどできはしない。

 それは一滴の水が海に落ちて行くのに似ている。あるいは海そのものが水滴の中に落ちて行くと言ってもいい。それはひとつの深い合一なのだ。一体性だ。あなたはその中に溶け去ってしまう。後には何も残らない、ひとつの足跡も――。そうしたら、いったい誰がコミュニケートする? 誰が谷底のような世界に戻って来る? 誰がこの闇夜に戻って

来てあなたに語りかける?

 世界中のあらゆる神秘家たちが、コミュニケーションということに関する限り、常に無力を感じてきた。コミュニオン(交合)は可能だ。しかしコミュニケーションは駄目だ。まず第一にこのことが理解されなくてはならない。

 コミュニオンは全く別な次元に属する。ふたつのハートが出会う――。それは〈情事〉だ。コミュニケーションは頭と頭、コミュニオンはハートとハートだ。コミュニオンはフィーリング、コミュニケーションは知識だ。ただ言葉のみ与えられ、言葉のみ語られる。ただ言葉のみ受けとられ、そして理解される。

 言葉 ――言葉はその根本的な本性からしてあまりにも死んでいて、それを通しては、何ひとつ生き生きとしたものが語られ得ないほどだ。あたり前の生活の中でさえ ……究極なるものはひとまず置いておこう。あたり前の経験においてさえ、あなたが絶頂の瞬間を、エクスタティックな瞬間を知ったとき、それを言葉で語ることは不可能と化す。

 子供の頃、私はよく朝早く川に行ったものだった。小さな村だった。その川はとてもとてもゆるい流れで、まるで全然流れてなどいないかにも見えた。特に朝、まだ太陽が昇っていないときには、とても流れているとは思えない。本当にのたりとして静かなものだ。

 朝、誰もおらず、水浴の人々もやって来る前、その静けさははかり知れない。鳥たちさえ歌わない。早い朝、無音 ――ただ静寂だけが浸み渡る。そして川面をおおうマンゴーの樹のかおり――。

 私はよくそこに出かけ、川辺のはずれまで行ってただ坐り、ただそこに居た。何をする必要もなかった。ただそこに居るということで充分だった。それはなんとも素晴らしい体験だった。水浴びをし、泳ぎ、太陽が昇れば向こう岸まで渡って行って、広々とした砂の上でからだを乾かし、そこに横になって、ときには眠り込みさえした。

 家に帰るときっと母は尋ねたものだ。「朝の間中、あなたはいったい何をしていたの?」「なんにも」と私。なぜなら、事実、私は何をていたわけでもないのだから。
 すると彼女は言う。「なぜそんなことがあり得るの?四時間というもの、あなたはここに居なかったのよ。何もしていなかったなんていうことがあり得るのかしら? 何かしらしていたに違いないわ」

彼女は正しい。しかし私も間違ってはいなかった。私は全く何をしているわけでもなかった。私はただ川といっしょにそこに居ただけだ。何をするでもなく、事が起こるのにまかせて――。

 泳ぐ感じになったら……忘れてはいけない、 泳ぐ感じになったら 、だ。そうしたら泳ぐ。けれどもそれは私の側で何かをするということじゃなかった。私は何を強要していたのでもない。もし眠気が来れば眠った。もの事が 起こって はいた。しかしそこには、それをする者はなかった。

 そして私の最初の〈さとり〉の体験は、その川の側ではじまったのだった。何をするでもなく、ただそこに居て――何百万というさまざまな事が 起こった

 ところが母は私が何かをしていたに違いないと言って聞かない。しかたなく私は言う。

「わかったよ、水浴びをした、太陽の下でからだを乾かした」。そこではじめて彼女は満足した。が、私は満足しなかった。なぜなら、その川で起こったことは「水浴びをした」などという言葉ではとうてい言い表すことのできないものだからだ。それではあまりにも貧しく色あせてしまう。

 川と戯れ、川面に浮かび、川で泳ぐという体験の深さの前には、ただ「水浴びをした」などという言葉はまるで意味をなさない。あるいは、「そこに行って堤を歩き、坐っていた」と言ってみたところで、それは何も伝えてくれはしない。

 あたり前の生活の中でさえ、あなた方は言葉というものの虚しさを感ずるだろう。それどころか、もしその虚しさを感じないとしたら、それはあなたがいままで全く生きてなどいなかったということを表している。いままでとても浅薄にしか生きてこなかったということだ。もし何であれ、あなたが生きてきたことが言葉で伝え得るとすれば、それはあなたが全く生きてなどこなかったという意味なのだ。

 何か言葉を越えたことが起こり始めたとき、そのときはじめて、生があなたに起こり、生があなたの扉を叩いたということになる。まして究極なるものがあなたの扉をたたくとき、あなたはまるで言葉など超え去ってしまうものだ。あなたは発話障害に陥る。口をきくことなんかできはしない。ただの一語といえども、あなたの中に生じはしない。

 何を語ろうと、そんなことはことごとくあまりにも色あせ、生気なく、無意味でなんの重みもなく、あたかも自分に起こったその体験に不義をなしているかのようだ。これを心にとめておきなさい。なぜならば、マハムドラーとは最後の、そして究極の体験なのだから ――。

 マハムドラーとは宇宙との全体的なオーガズムを意味する。もしあなたに誰かを愛したことがあり、ときとして溶け合い合一するのを感じたことがあったら ――二人はもう二人じゃない。からだは別々であっても、ふたりのからだの間の何かが橋を、黄金の橋を作り、内面に〈二〉は消え失せて、ひとつの生命エネルギーが両の極をふるわせる ――もしもそれがあなたに起こったことがあったら、そのときにのみマハムドラーの何たるかを理解することができるだろう。

 それより何万倍も何億倍も深く、何万倍も何億倍もハイなもの、それがマハムドラーだ。それは〈全体〉との、宇宙との全体的なオーガズムだ。それは存在の源への溶解だ。

 これはマハムドラーの うた だ。ティロパがそれを「うた」と呼んだのは素晴らしい。それはうたうことができる。が、語ることはできない。それは舞うことはできる。が、それを語ることはできない。その現象のあまりの深みは、それをうたうことによって、ようやくそのいくばくかが伝わるかどうかというほどのものなのだ。それも、何をうたうかではなく、それをうたううたい方によって――。

 多くの神秘家たちが、その究極体験の後、ただただ舞いを舞った。彼らにはほかにどうすることもできなかった。彼らは彼らの実存と肉体のすべてを通して何かを語っていたのだ。それにはからだと心と魂のすべてがかかわっていた。

 そうした舞踏は尋常な舞踏じゃなかった。実際のところ、あらゆる舞踏はそういう神秘家たちによって生まれたのだ。それはそのエクスタシーを、その幸福を、その法悦を伝える道にほかならなかった。

知られざるものの何かが知 られたるものの中にはいり込むとき、超えたるものの何かが地上にやって来たとき、ほかにどうすることができる? それは舞うことができる。それをうたうことはできる。

 これはマハムドラーの詩だ。それをうたうのは誰だろうか? ティロパはもういなくなってしまっているのだ。オーガズミックな感覚そのものがうたっている。それはティロパの うた  なんかじゃない。ティロパはもういないのだ。その体験それ自身が振動し、うたをうたっているのだ。だからこそマハムドラーの うた 、エクスタシーの うた なのだ。エクスタシーそれ自身がうたっている。ティロパには関係ない。ティロパは全くそこにいはしない。ティロパは溶け去ってしまったのだ。 

 探求者が消え失せてしまったとき、そのときはじめて目標は達せられたと言える。体験者がいなくなってはじめて、その体験 があり得るのだ。求めてごらん、あなたはそれを失うだろう。その探求を通じて探求者 が強められてしまうからだ。

 求めないこと。そうすればそれは見つかるだろう。まさに求めるということ自体、その努力自体が障害となる。なぜなら、求めれば求めるほど が強められてしまうからだ。探求者が――。

 求めざれ! これこそマハムドラーの うた そのものの最も深いメッセージだ。求めないこと。ただありのままの自分でいるのだ。ほかのどこへ行くこともない。なんぴとも神に至ったためしなどない。無理だ。あなたはその居処を知らないのだから。あなたはどこへ行くつもりか? どこに〈聖なるもの〉を見出すつもりか?

 地図などというものはない。そして道も――。〈彼〉がどこにいるかを教えてくれる人もいない。駄目だ。誰も神に至ったためしなどない。それはいつも逆だ。神があなたのところへやって来る。いつであれ、あなたに用意のできたとき、必ず〈彼〉はあなたの扉を叩く。〈彼〉があなたを求めるのだ。あなたに用意のととのったときには必ず――。

 そしてその用意とは〈受容性〉以外の何ものでもない。あなたが完全に受容的であるとき、そこに はない。あなたは誰もいないがらんどうの寺院となる。ティロパはこの うた の中で中空の竹になることを語っている。

 何もない ――突然、あなたが中空の竹である瞬間、〈聖なるもの〉の唇があなたに当てられ、中空の竹は一本の竹笛となる。うたがはじまるのだ。これはマハムドラーの うた だ。ティロパは一本の中空の竹となり、〈聖なるもの〉が訪れた。そしてうたがはじまった。これはティロパのうたじゃない。これは究極の体験それ自身の うた なのだ。

 このビューティフルな現象にはいる前に、ティロパについて少し――

 ティロパについて多くは知られていない。なぜなら、実際のところこういう人物については何も知られ得ないからだ。彼らは足跡を残さない。彼らは歴史の一部にはならない。彼らは道の かたわら に存在し、人類全体が動いて行くメインストリートの一部にはならない。彼らはそこを歩かない。

 人類の全体は欲望というものを通じて動いてゆく。ところがティロパのような人間は無欲の中にはいり込んで行くのだ。彼らはただただ、歴史というものが存在するところの人類のメインストリートから離れてしまう。そのメインストリートから離れれば離れるほど、彼らは神話的な存在となる。彼らは神話じみた存在だ。彼らはもう時の中の出来事ではなくなってしまっている。

 そして、これはあるべきその姿でもある。なぜなら、彼らは時を超えて歩み、時を超えて生きるのだから――。彼らは永却の中に生きる。我々のこの一般的な人類の次元から、彼らはただただ消え失せてしまった。彼らは蒸発する。彼らが蒸発してゆくその瞬間、その瞬間を我々が覚えているという程度にしか、彼らは我々の一部じゃない。

 そんなわけで、ティロパについても多くは知られていない。彼が何者であるのか ――ただこの うた だけが残っている。これは彼の贈り物だ。この贈り物は彼の弟子ナロパに与えられた。こうした贈り物は、そこに深い愛の親交が存在しない限り誰にも与えられ得ない。こうした贈り物を受け取るためには、人はそれだけの力量を持たなければならないのだ。 

 この うた は弟子ナロパに与えられた。これが与えられる前に、彼は何百万というさまざまな方法で試された。彼の信仰が、彼の愛が、そして彼の信頼が――。彼の中に疑いなどというものが、たとえひとかけらでも存在しないとわかったとき、そのハートが、信頼と愛とで完全に満ちあふれんばかりになったとき、この うた は与えられた。

 私もまたここにひとつの うた をうたおうとしている。しかし、それはあなたの用意ができたときのみ与えられることができる。その用意とは――

  マインド  から疑いなどというものが、全く消え失せてしまわなければならないということだ。ただし、それは抑圧されてはいけない。それを打ち負かそうなどとするべきじゃない。なぜなら、打ち負かされてもそれはあなたの中にとどまり、抑圧されてもそれは、あなたの無意識の一部であり続けるだろうから。それはあなたに影響を及ぼし続けるだろう。

 〈疑う マインド 〉と戦わないこと。それを抑圧しないこと。むしろ反対に、もっともっと多くのエネルギーを〈信頼〉のほうにふり向けるのだ。疑う心にはただ無関心でいればいい。ほかにできることは何もない。無関心こそ鍵だ。ただ無関心でいること。 疑いはあるだろう。それを受け容れてごらん。あなたのエネルギーを、もっともっと信頼と愛のほうに注ぎ込んでごらん。それは〈疑い〉になるのと同じひとつのエネルギーだからだ。それは〈信頼〉となる同じエネルギーなのだ。

 疑いには無関心であり続けること。無関心であるとき、その疑いに対するあなたの協力は崩れている。あなたはそれに食糧を供してはいない。というのも、なんであれそれが養われるのは、それに対する注目を通してだからだ。もしあなたが自分の疑いに注意を払うとしたら、たとえそれに対抗していたとしてもそれは危険だ。まさに注目そのものが食糧なのだから。それが協力なのだ。

 人はただ無関心であるべきのみだ。味方もせず、敵対もせず――。〈疑い〉に味方しないこと。〈疑い〉に敵対しないこと。

 ここで三つの言葉を理解しなくてはならない。ひとつは〈疑い〉。もうひとつは〈信用〉。三つ目は〈信頼〉あるいは〈信仰〉。東洋でシュラッダ(Shraddha)として知られているものだ。

 〈疑い〉とはどんなことに対しても否定的な態度を言う。何を言われても、あなたはまず否定的に見る。それに反対する。そして理由や理屈、つまりどうやって自分のその反対を守るかを探し出す。

 次に〈信用〉の マインド というものがある。これは全く疑いの マインド と同じだ。ただ逆立ちをしているだけのこと。そこに大した違いはない。この マインド はものごとを肯定的に見、どうやってそれを守り、どうやってそれに味方するかという理由や理屈を見つけ出そうとする。疑う心は信用を抑圧し、信ずる心のほうは疑いを抑圧する。しかしそのふたつは同じものだ。その質に違いはない。

 そして次に、疑いというものが全く消え去ってしまったところの、三つめの マインド がある。疑いが消え失せるとき、信用もまた消え去る。〈信仰〉は〈信用〉じゃない。それは愛だ。なぜならそれは半分ではなく全体だから――。

 〈信仰〉は〈信用〉じゃない。なぜならその中には疑いがないのだから――。疑いがなければどうして信用もできる? 〈信仰〉は決して理屈なんかじゃない。味方せず敵対もせず、これでなくあれでもない。〈信仰〉とは頼するということにほかならない。ひとつの深い信頼。ひとつの愛。あなたはそれにどんな理屈もつけはしない。それはただそうであるのだ。

 さて、どうする?――〈信仰〉に対する〈信用〉なんぞをつくりださないこと。ただ〈信用〉と〈疑い〉の両方に無関心でいなさい。そしてエネルギーをもっともっと愛のほうにふり向けるのだ。もっと愛しなさい。無条件に愛しなさい。ただ私を愛するだけでなく ……そ れは駄目だ。もし愛するのなら、 だもっと愛するのだ。もし愛するのなら、ただもっと 愛に満ちた り方をするのだ。マスターに対してだけでなく、あなたのまわりに存在するあらゆるものに対して。木々に、石ころたちに、空に、大地に――。

 あなたの実存が、あなたの実存の質そのものが、ひとつの愛の現象となる。そのときこそ〈信頼〉が姿を現す。そしてそうした信頼においてはじめて、マハムドラーの うた のような贈り物は与えられることができる。

 ナロパに用意のできたとき、ティロパはこの贈り物を与えた。だから覚えておくといい。マスターと、あなたはヘッドトリップ *1 をするんじゃない。

 疑い、信用――みなヘッドトリッだ。マスターとは、あなたはハートトリップする。ハートは疑いの何たるかなど知りはしない。ハートは信用の何たるかなど知りはしない。ハートは信頼しか知らない。

 ハートはちょうど小さな子供のようなものだ。幼な子は父親の手にすがり、彼の行くところならどこにでもついて行く。信ずるでもなく、疑うでもなく――。子供は分裂してはいない。疑いは半欠けだし、信用も半欠けだ。子供はまだトータルであり、全体的なのだ。彼はただ父親の行くところならどこへでもついて行く。

 弟子がまさに幼な子のようになったとき、そのときにのみ、意識の最も高い頂きであるこうした贈り物は与えられ得る。あなたが〈受容性〉という最も深い谷間になったとき、意識の最も高い頂きはあなたに与えられ得る。谷間だけが頂きを受け容れることができるのだ。 弟子というものは完全に女性的に、子宮のように受容的にならなくてはならない。そうしてはじめて、この うた の中でうたわれるような現象は起こる。マスターのティロパと、弟子のナロパ――。

 ティロパは言う。

マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
いまこの うた を与うべし

 それは言葉やシンボルを越えたものなのだ。あらゆる言葉とあらゆるシンボルを――。ならば、どうしてそれが語られ得るのだろうか? もしそれが本当にあらゆる言葉とシンボルを超えたものなら、どうしてそれが語られ得るのだろう? 何か道があるのだろうか?

 そう、道はある。もしそこにひとりのナロパがいれば、そこに道はある。もしそこに本当にひとりの弟子がいれば、そこに道はある。道が見つかるかどうか ――それは弟子によるのだ。

 もし弟子の受容性が深まり、彼に自分自身の心などなくなって正邪の判断などしない、自分自身の心などマスターに差し出してしまって持っていない、全くただ受容性であり、空であり、与えられるものなら、何でも無条件に歓迎するというところまで行けば、そのとき言葉やシンボルは必要ない。そのときこそ何かが与えられ得る。

 あなたはれを言葉のはざまに聞き、それを行間に読むことができる。そのとき言葉は ただの口実であり、 当のことはその言葉のすぐ脇で起こる。言葉はひとつのトリックであり、ひとつの方便にすぎなくなる。 本当のこと が影のようにその言葉に寄りそう。

 あなたがあまりにも マインド にとらわれてしまっているとき、あなたは言葉しか聞こうとしない。それではそれはコミュニケートされ得ない。しかし、もしあなたが全く心にこだわらなくなれば、そのとき言葉に伴っているとても微妙な影 ――とても微妙で、ハートだけがそれを見ることのできる不可視の影 ――意識の不可視のさざ波、波動(ヴァイブレーション) ――それが伝わり、コミュニオンはただちに可能となる。これを心にとめておきなさい。

 ティロパは言う。

されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
いまこの うた を与うべし 

 語られることのできないもの ――それも弟子のためには語られなければならない。絶対に不可視であるところの“語られ得ざるもの"――それも弟子のためには可視にされねばならない。

 それはマスターにかかっているばかりでなく、むしろもっと弟子のほうにかかっている。ナロパを見つけることのできたティロパは幸運だった。不幸にも、ナロパのような弟子を見つけ出せなかったマスターも何人かいる。そんなとき彼らが得たものはすべて、彼らとともに消え去ってしまった。それを受け取る者が誰もいなかったからだ。

 ときとしてマスターたちは、ひとりの弟子を見つけ出すのに何千里も旅してきた。ティロパ自身、ナロパを見つけ出すために、ひとりの弟子を見つけ出すために、インドからチベットまで歩いた *2  。ティロパはインド中をさまよったあげく、そうした贈り物を受け取るだけの、そうした贈り物を味わうだけの、それを吸収し、それを通じて生まれ変わるだけの器を持った、ひとりの人間も見出すことができなかった。

 ひとたびその贈り物がナロパによって受け取られたとき、彼は完全に変身してしまったものだ。そのときティロパはナロパに「さあ今度はお前が行って、お前自身のナロパを見つけるのだ」と告げたと伝えられている。

 そしてナロパもまた、それに関しては幸運だった。彼は、その名をマルパというひとりの弟子を見つけることができた。マルパもまたとても幸運で、その名をミラレパというひとりの弟子を見つけ出すことができた。しかし、そこで流れはとだえた。もうそれ以上、それだけの偉大な度量を持った弟子はいなかったのだ。

 幾度となく、宗教がこの地上に現われ、そして消えて行った。幾度となく、それは現われ、消えて行くだろう。宗教というものは教団などにはなり得ない。宗教というものは宗派などにはなり得ない。宗教というものは個的なコミュニケーション、いや、個的なコミュニオンにかかっているのだ。

 ティロパの宗教はほんの四世代、ナロパからミラレパまでしか存在しなかった。その後、それは消え失せてしまった。宗教はちょうどオアシスのようなものだ。砂漠は広大だ。ときとしてその砂漠のほんの一部分に、ひとつのオアシスが現われる。それがある間にそれを求めるがいい。それがそこにある間に、そこで のど をうるおすのだ。それはとてもとても希有なことだ。

 イエスはくり返し彼の弟子に語った。「もうしばらくの間だけ私はここにいる。私がここにいる間に、お前たちは私を食べ、私を飲むのだ。この機会を逃してはならない」と。なぜならまた何千年もの間、イエスのような人間は現われないかもしれないからだ。

 砂漠は大きい。オアシスはときどき現われては消えてゆくだけだ。なぜなら、そのオアシスはられざるものからやって来るものだから。それはこの地上に いかり を必要とする。もしその錨がなければ、それはここにとどまることができない。ナロパはひとつの錨だった。

 同じことを私はあなた方に言いたい。私がここにいるもうしばらくの間、チャンスを逃してはならない。あなた方は些細なことでそれを逃し得る。ナンセンスや心理的ガラクタにとらわれ続けていることもできる。そうだ、いやそうじゃないなどと考え続けることもできるのだ。オアシスはやがて消え失せる。そうだ、そうじゃないなどと考えることは後になってからでもできる。いまのいま、あなたはそこから飲むがいい。そうだ、そうじゃないなどと考えるのは、そのあと何生にもわたってできるのだから。それを急ぐことはない。しかしオアシスがそこにある間は、そこで喉をうるおすのだ。

 ひとたびイエスやナロパに酔ったなら、あなたは完全に変わってしまう。〈変容〉はとても簡単で単純なことだ、それは自然なプロセスなのだ。必要なのは土壌となって種を受け容れることだけだ。ひとつの子宮となって種を受け容れることだけだ。

マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ
真剣で忠実なる汝のために
いまこの うた を与うべし

それは言い表すことができない。 れは言い表わし得ないものだ。しかしそれとても、ひとりのナロパのためには言われねばならない。どこであれ、ひとりの弟子に用意のできたときには、必ずマスターが現われる。現われなくてはならないのだ。どこであれ、そこにひとつの深い要求があるとき、それは必ず満たされなければならない。あなたの最も深い要求に対しては全存在が応える。

 ただし、それだけの要求がなければ駄目だ。さもなければ、あなた方はひとりのティロパの、ひとりの仏陀の、ひとりのイエスのかたわらを、イエスとすれ違ったことさえ知らずに、通り過ぎてしまうことだろう。

 ティロパはこの国(インド)に生きた人だ。誰ひとりとして彼に耳を貸そうとはしなかった。しかも、彼にはその究極の贈り物を与える用意はあったのだ。どういうことだろう?そして、これはこの国ではいくたびとなく起こってきたことだ。その裏には何かあるに違いない。

 これはこの国でほかのどこよりも数多く起こってきた。というのも、どこよりも多くのティロパたちが生まれてきたのもこの国だからだ。しかしなぜ、ティロパがチベットに行かねばならないようなことになったのだろう? なぜボーディダル*3 が中国に行かねばならないようなことになったのだろう?

 この国は多くを知り過ぎている。この国はあまりにも ヘッド の国になってしまったのだ。ハートを見つけ出すのが難しいのはそのためだ。バラモンとパンディッ*4 の国 ――偉大なる智者と哲学者の国――。彼らはあらゆるヴェーダを、あらゆるウパニシャッ*5 を知り、あらゆる経典を暗誦することができる。 ヘッド の国 ――だからこそ、そんなことがかくもいくたびも起こってきたのだ。

 私でさえ感じる。バラモンがやって来るといつもいつも、私はコミュニケーションの難しさを感じてしかたがない。あまりにも多くを知りすぎた人間は、ほとんどコミュニケーションが不可能になってしまうものだ。それというのも、彼は知ることなくして知ってしまっているからだ。彼はたくさんの概念を、理論を、教理を、経典をかき集めたかもしれない。しかしそれは彼の意識にとって重荷でしかない。それは開花じゃないのだ。それは彼に起こったことではなく、すべて借り物なのだ。

 借りてきた物というのはすべてガラクタであり、腐っているものだ。そんなものはできる限り早く放り出してしまうがいい。ただあなたに起こるものだけが真実だ。ただあなたの中に花開くものだけが真実だ。ただあなたの中で育つものだけが真実であり、生きてもいる。つねにこれを心にとめておきなさい。

 借り物の知識を避けること。借り物の知識というのは心のトリックになる。それは無知を蔽い隠すのだ。それは決して無知を打ち壊しはしない。そして知識に取り囲まれれば取り囲まれるほど、内面深い センター 心において、まさにあなたの実存の根において、無知と暗闇が存在する。

 知識(借り物の知識だが)の人というものは、ほとんど彼自身の知識の中に閉ざされてしまっているのだ。その中にはいり込むことはできないし、彼のハートを見つけ出すことは難しい。彼自身、自分のハートとの接触を失ってしまっているのだ。だから、ひとりのティロパがチベットに行かなければならず、ひとりのボーディダルマが中国に行かなければならないのは偶然じゃない。ひとつぶの種はそれほど遠くまで旅しなければならないのだ。ここに良い土を見つけることができなければ――

 このことを覚えておきなさい。知識というものに中毒しきってしまうのは簡単なことだから。それは一種の中毒だ。それは一種のドラッグだ。そればかりか、LSDもそれほど危くはない。マリワナもそれほど危くはない。ある意味ではそれらはみな同じものだ。

 マリワナはあなたに何かそこにないものの一瞥を与えてくれる。それはあなたに、何か完全に主観的なものの上に成り立った、ひとつの夢を与えてくれる。それはあなたに幻覚を与えてくれる。そして知識もまた同じ。それはあなたに、知ることという幻覚を与えてくれる。あなたは自分がヴェーダを唱えることができるという理由で、自分は知っている のだと感じはじめる。議論ができるから自分は知っている 。とてもとても論理的な鋭い心を持っているから自分はっている。

 馬鹿なことを言ってはいけない!いまだかつて理論が人を真理に導いたためしなどありはしない! 合理的精神などただのゲームだ。ありとあらゆる議論はみな子供じみたものだ。生はどんな議論も離れて存在しているのだ! 真理はいかなる証明も必要としはしない。それはただあなたのハートだけを必要とする。議論ではなくあなたの愛を、あなたの信頼を、受け容れることへのあなたの用意を――

マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
いまこの うた を与うべし
くう 」は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり

 かつて人の口にのぼった言葉の中で、これ以上重要な言葉はとうてい見つけ難い。ティロパが言おうとしていることの、あらゆるニュアンスまで理解しようとするがいい。

くう 」は何ものも頼まず

 もしそこにかがあるのならば、それは頼みにするものを必要とする。しかし何もない空であれば、どんな支えの必要もない。そして我々の実存が非実存であるというこのことは、あらゆる知者たちの最も深い認識だ。

 そもそもそれを実存と言うそのことからしておかしい。それは何か ではないのだから。

それは何かあるものなんかじゃないのだから。それは何でもないもの とでも言うべきものだ。どんな境界も持たない広大な虚空。それはアナートマ(Anatma)、無自己だ。

 それは「内なる自己」などというものではない。あらゆる自己感覚はすべて虚構だ。究極なるものに行きつくとき、自分の最も深い核に行きあたるとき、突如としてあなたは、自分がこれでもなくあれでもないということを知る。あなたは一個の なんかじゃない。ひとつの巨大な空であるばかりなのだ。

 ときとして静かに坐ることがあったら、目を閉じて感じてごらん。自分が誰であり、どこにいるのかを――。深く進んでごらん。すると不安になるかもしれない。なぜなら、深く進めば進むほど、あなたは自分が誰でもなく、ひとつの無であるにすぎないのをより深く感ずるからだ。

 みんながあんなにも瞑想を恐れるのはそのためだ。それは死なのだ。それは の死なのだ。そして、その というもの自体、ただの虚構の概念であるにすぎない。いまや物理学者たちは、彼らの科学的探究を通じて、その同じ真理に行きあたった。仏陀が、ティロパが、ボーディダルマが、彼らの内観を通じてたどり着いたものを、科学は外側の世界にもまた発見したのだ。

 いまや彼らは言う。物質的実存などというものはない、と。〈物質〉というのは〈自己〉と平行する概念だ。一魂の岩が存在する。あなたはそれがとても堅固な実質を持ったものだと感ずる。あなたはそれで誰かの頭を殴ることもできる。すると血が出てくるだろう。その人間が死ぬことさえあるかもしれない。それはとても堅固な実体だ。しかし物理学者に聞いてごらん。彼らはそれは非物質だと言う。その中には何もありはしない。

 彼らはそれはただのエネルギー現象にすぎないのだと言う。この岩において交錯しているたくさんのエネルギーの流れが、それに実体感を与えているのだ。ちょうど、紙の上に多くの交錯した線を引くのと同じように――。たくさんの線が交差するところには、ひとつの点が現われる。その点はそこにあるわけじゃなかった。

 二本の線が交わる。するとそこにひとつの点が現われる。たくさんの線が交わる。すると大きな点が現われる。その点は本当にそこにあるのだろうか? それともただ交わった何本もの線が、そこにひとつの点があるかのような錯覚を与えているだけなのだろうか?

 物理学者たちは、いくつもの交錯したエネルギーの流れが物質をつくり出すと言う。そして、それらの ネルギーの流れとは何かと言えば、それは物質的なものではないのだ。それらは重量を持たない。それは非物質的なのだ。いくつのも交錯した非物質的な線が、一魂の岩のように、とても堅固な実体をもった物質的なものであるかのような錯覚を与える。

 仏陀はアインシュタインから遡ること二十五世紀前に、内側には誰もいないのだというこの解明に到達した。ただの交錯した何本ものエネルギーの線が、あなたに〈自己〉という感覚を与える。

 仏陀はいつも、自己というものは玉ネギにそっくりだと言っていた。玉ねぎの皮をむく。一枚はがれてくる。また別な皮がある。次々とむいてゆく。一枚、また一枚と。最後に何が残るだろう?

 一個の玉ネギ全部がむかれてしまった。それでも中には何もない。人間というのはちょうど玉ネギのようなものだ。幾重もの思考や感覚をむいてゆけば、最後には何があるだろう? 無だ。この無にはどんな支えもいらない。この無はひとり立ちして存在する。

 だから仏陀は言う。神はない、神の必要はない、と。神などというものは一種のささえに過ぎないからだ。仏陀はまた言う。創造主などいはしない、と。無をつくり出すのにはどんな創造主もいりはしないからだ。

 あなたがそれを具現( Realize)しない限り、これは最も理解し難い概念のひとつだろう。だからこそティロパは言う。“マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり"と。

 マハムドラーとは体験なのだ。〈無〉というものの――。あなたなどもういない。その なたがいなくなれば、そのとき誰がそこで苦しむ? 誰がそこで傷みや悩みを蒙る? 誰がそこでうちひしがれ、悲しみに沈む? さらにはそこに、幸せになったり法悦にふるえたりする者が誰かいるだろうか?

 仏陀は言っている。もし至福の悦びを感ずるようでは、あなたはふたたび苦痛の餌食にならざるを得まい、と。そこにはまだあなたがいるからだ。そのあなたがいなくなったとき、全く完全にいなくなったとき、そこには何の苦痛も至福もない。そして、それこそが真の至福なのだ。

 そのときあなたはもうふたたび堕ちることはない。〈無〉を達成するということはすべてを成し遂げることだ。あなた方に関する私の努力のすべても、あなた方を〈無〉へ導くこと、あなた方を完全な真空へと導くことにほかならない。