インナーラビリンス
自分という名の迷宮
ナルタンnartan(日家ふじ子)
OSHOと出会い
わたしは自分という内なる
玉ネギの皮を剥 いた
それは予想もしなかった痛みと
甘美な喜びとを同時に伴う
不可思議な体験だった
*ラビリンス(迷路、迷宮)はラテン語のlaborintus(・・のなかに入る)に由来して、陣痛、誕生、あるいは再生のなかに入っていく場を指し、人間の脳の 襞 を模したものと 見 做 されている。
はじめに
我々の出発点は、人間は自分自身を知っていない、人間は本来の自分ではないということだ。
グルジェフ
この物語は、わたしがOSHOという 稀代 の導師の門下に入ってからの十数年間に、主にアシュラムと呼ばれる彼のインドの修道場で体験したエピソードのいくつかを回想したものです。
おそらくわたしは、日本人としては最も近くで学び、直接指導を受けた弟子でしょう。
この 師匠 は弟子に何かを強制することはまったくありませんでしたが、真摯に、無条件に求める者にはかならず 応 えてくれました。また師として、弟子の入っている内面空間とその情況を、 途轍 もない透視力で常に洞察していました。
本文のなかの「月をさす指」のくだりでも触れていますが、OSHOは人が求めるもの、それが「愛」であれ「自由」であれ「無心」であれ「真の自己」であれ、それぞれが希求するものを受け入れ、そのための道を指し示してくれる「指」でした。
この「指」によって、わたしは混沌とした迷路のような自分の内側を、なんとか歩き始めることができました。この「指」、きわめて多様な側面をもつ指ですが、本人による多くの講話集もありますし、本書のような直弟子の具体的な回想録が、この世界的スケールをもつ 稀 有 な精神指導者を知る上で、ひとつの手がかりになってくれるのではないかと思います。
わたしにとっては、ユーモラスで暖かい、しかし厳しい道先案内人、文字通りの導師でした。
ですからこの書は、彼の弟子であるなしに関わりなく、自己発見の旅をめざしている人、自分を変えたいと思っている人、あるいは人間の内面世界という摩訶不思議な神秘を探求したいと感じている人にぜひ読んでほしいのです。少しは参考にしてもらえるかもしれませんし、さらにその時間が楽しいものであるなら嬉しいです。
OSHOは三回呼称が変わっています。大学教授時代すでに導師として活躍していたときには、アチャリヤ・ラジニーシであり、海外の求道者に門戸を開いてからは、バグワン・シュリ・ラジニーシ、そして現在の、OSHOです。わたしが弟子入りしたのは一回目のプネー時代、バグワン・シュリ・ラジニーシの時代でしたが、本書のなかでは現在の呼称であるOSHOを使います。
その教えにわたしが初めて接したのは、アメリカ東海岸のある大学のカフェテリアでした。たまたま前に座ったカップルが、彼の弟子だったことからすべてが始まります。
二人は暖色のゆったりした長衣を着て、白檀らしい焦げ茶色のビーズの付いたペンダントをしていました。そのペンダントの先には禿頭で長い白髭の、白人ではない男性の顔写真。どちらともなく話しかけ、わたしたちは五分後には友人同士のように会話をしていたのですが、別れ際、二人のうち女性の方から「これ読んでみる?」と渡されたのは、なにか古いコピーのまたコピーのような紙切れでした。「このペンダントの人のレクチャーよ」
そして、この紙切れで、わたしの人生は変わりました。
当時のわたしは、自分で無援トンネルと名づけた精神的な暗闇のなかで、自分て何だ、生きるって何だと 悶々 し、文字どおり暗中模索していました。
日常感じる怒りは出口が見つからず抑えこみ、傷つくことを怖れて生来の奔放な性向や自分らしさにはブレーキをかけ、一見穏やかだが内側は反抗期の火山のように熱く不安定、それがわたしの無援トンネルでした。
本の虫でしたから、手当たり次第に哲学書や思想書を 漁 って読んでいましたが、それで頭では何か理解したつもりでも、暗闇に明かりがともされるわけではありません。そんな時期、何気なくもらったレクチャーとやらのコピーの紙切れ ……
タイトルは「生と死の神秘」とありました。
それは 生 の、わたしにはまったく未知の次元を指し示していました。シンプルで明快な英語で次々と 顕 わされていく生命と死の深淵は、本の虫の頭でっかちが詰めこんだ知識のなかにはない世界でした。
それは宗教でも思想でも哲学でもなく、人間存在をトータルに捉えてその内側のさまざまな次元を照らし示す道標、指標でした。これは新鮮な衝撃で、今までに読んだどんなものとも違っていました。質的に何かが違っていたのです。
その夜、わたしは奇妙な感動でしばらく身動きできなかったのを憶えています。
自分が迷いこんでいたトンネルの出口が 微 かに見えた気がしていました。この人に会ってみたい。この人がもしかしたら人生の突破口になるかもしれない。会いにいこうか ……そう思い始めている自分が不思議でした。
このレクチャーの話し手、あのペンダントの写真の主の名前はバグワン・シュリ・ラジニーシ、OSHOでした。
この時から、わたしの旅は始まったのです。
目 次
はじめに 004
第一章 出口への旅 011
プーナ?ORプネー?/アシュラム/わたしの名はダンス
第二章 何かが始まった 033
ダルマはもう要らない/動かしてないのに動きます/旅行社の手ちがい族と菩提樹 アニュブッダの推理/知らないはずの古代瞑想/手紙は誰が書いた?/不可解なダルシャン
第三章 神秘の秘儀 プラティプラサヴ 065
過去生がやってきた/三つの苦悩の生/謎の小函 (こばこ )/ユーレイとベルボーイとギータ
真夜中のプライベートダルシャン/ソウル(魂)荒掃除の予告
ハリダスはどこに触わった?/暗黒からの訪問者たち/首を絞めているのは誰?
逃げる、どこへ?/イッツオーヴァー
第四章 人間玉ネギを 剥 く グループセラピー 109
荒掃除の後遺症/知らぬがホトケの実験第一号/これがグループ?
インスタントミニ辞書/わたしは絶望的ケースかも/ティアサの外科手術/ブルーとアニケッタ
メダルは青アザ/だから言っておいただろう!
第五章 アシュラムという名の俗世間 157
黒 子かパイプ/日本人のエゴと西洋人のエゴ/彼女は彼? それとも彼女?
ここは濃縮俗世間/困った名前
第六章 月をさす指 187
月をさす指/プッシュボタン式反応/副産物は副産物/死にたくなかったら
第七章 ちょっとだけ、オレゴンのコミューン 209
わたくし、光明を得たようで ……すが?
あとがき 222
第一章
出口への旅
真珠を求めるなら、人は海の底深くもぐらなければならない。砂浜近くの浅瀬に入って、海に真珠はないと言ったとて何になろう。
サティヤ・サイババ
プーナ? OR プネー?
初めてのインドは、匂いで始まった。
成田を出るときから遅れていたエジプト航空のカイロ行きが、五時間遅れでムンバイに着いたのは朝の三時すぎ、夜明け前の空港は建物までもが眠たそうで薄暗かった。
十数人の色とりどりの皮膚をした人たちと一緒にタラップを降りながら、寝不足と疲れで敏感になったわたしの鼻を未知の異様な匂いが襲った。刺激的なスパイスの匂いと汚物の臭気、それにところどころ 微 かな甘い花の 薫 りが混ざった強烈な匂いだった。
「ほんとにあんたが飲むためかね」
インド人はすいすい通りすぎたのに、白人男性とわたしが税関に引っ掛かってしまった。わたしのほうの原因はぶざまに大きいダルマの大ビン、つまり日本製ウィスキーの丸い大ビン二本だ。そのビンを前にして、口髭の若い役人が胡 散臭 げにこう訊ねたのだ。が、わたしが自分用だと強く言いつづけるとしばらくしてどうにか通過させてくれた。ほっとした。
その頃のわたしは、アルコールなしで夜を過ごすことができなかった。
それから一時間後、わたしは、女性バックパッカー二人とスラヴ系中年男性、それにインド人男性と一緒におんぼろのミニバスに乗ってムンバイの中心街に向かっていた。
ミニバスは派手に騒音を立てながら、まだ目醒めていない暗い市街地に入っていく。
身体はぐったりして 鈍重 だが眼は冴えていて、わたしは建物のあいだを見え隠れする東の空の縁が、赤みを帯びた白灰色に変わって明るくなっていくのを見つめていた。
まもなく赤銅色や白色の壁や看板が見分けられるくらい明るくなり、さまざまな色と柄の汚れた布を 被 って路上で寝ている人たちの姿も見えてきた。空気は湿っていて冷たく、空港と同じ匂いに加えて、鼻の奥につんとくる匂いが混ざっている。
不思議なことに、感覚に触れてくるそれらすべてが、初めてのはずなのにまったく初めての感じではなく、それどころか、なぜか懐かしいような、久しぶりに故郷に帰ったような奇妙な 帰巣 感覚があった。それは自分でも驚くほど強い明確なデジャヴ *だった。
ビクトリア・ターミナス駅で下りたのはわたし一人、さすがに緊張している。
駅の構内は早朝なのにものすごい数の人で、耳を覆いたくなる騒音と異臭にごった返していた。その大混乱のなかをうろうろと切符売場を探しているうちに、わたしはたちまち二十人近い男たちに囲まれた。囲まれたといってもわたしとの間に最低二、三メートルの距離は保たれ、好奇心に満ちた黒い大きなまばたきしない眼が何十と、わたしの全身を食い入るように凝視している。
その頃一人旅の東洋女は珍しかったのだろう。そのうち男たちのあいだをかいくぐって「バクシーシ(ご 喜 捨を)、バクシーシ」と汚れた手を出すベッガー(乞食)の女たちもやって来た。怖いというより困惑し苛立ってきたわたしは、「誰か英語、わかる人いますか?」と大声を出して周りを見まわした。
群れのなかから、上質の真っ白いシャツを着た腹の出た中年男が出てきて男たちを手で追いやり、癖のある英語を話しながら切符売場へ連れていってくれた。ようやく切符を手に、寄ってきた赤ターバン赤シャツ姿のポーターたちの一人に声をかけた。
「プーナで止まる準急よ」
「プネー、プネー、イエス、イエス」
「プーナ、プーナよ、プネーじゃないの」
「イエス、イエス、プーナ イズ プネー」
ポーターは、インド人独特の首を横にふって肯定する仕草で禅問答のようなことを言い、わたしのスーツケースを頭に乗せさっさと歩きだす。そして慣れた足取りで、人と騒音であふれるプラットフォームを目指し、気をきかして女性専用車に席を取ってくれた。
それからの六時間あまり、わたしはささくれた固い木のベンチの座席に座って今度は、老若の女たちの無数の好奇の眼にさらされることになった。しかし彼女たちの眼には、わたしを警戒させるような攻撃的色合いはなく、わたしはすぐ見つめられるのに慣れた。
わたしが目指していたのはプネーという古都で(プーナは英語読み、当時はこの呼び方が主流だったが、次第にヒンディー語読みのプネーになっていく)、デカン高原の西を走るガート山脈の真ん中あたり、ムンバイから約二百キロ東南に入った標高六百メートルの台地にある。
デカンクイーンという特急なら三時間ちょっとの距離なのだが、切符売場ではそんな特急があるとは知らせてくれず、わたしは英語を話せない庶民階級の女たちと、冷房なしのローカル線の準急二等車に乗っていた。二等車といっても、座席も通路も人と物と子供の泣き声とでごった返し、長旅で疲れている身には 堪 える混乱と騒音と臭いだった。
市街地を離れると、しばらく泥色をした川がくねってつづき、そのあとは 黄 土色の台地と茶色い山々が、時折の緑と交互に、あるいはいっしょに現われてはまた消えていく。
空港を出たときには寒いくらいだったのが、陽が高くなるにつれ蒸し暑くなり、喉は渇くし空腹だし、だが途中の駅の物売りのおいしそうな食べ物も飲み物も、文明にスポイルされて多彩な 黴 菌群への抗体を失っている身には、悔しいが簡単に口にはできない。
女たちの多くは旅慣れているのか習慣なのか、ムンバイを出て一時間ほど経つとそれぞれ大きな包みを開いて食事を始めた。定番は、円筒形の 飯 盒のようなアルミの器に入れた、匂いの強いどろどろしたものに数枚のチャパティ *。
女の一人がわたしの眼を捉え、ジェスチャーと土地の言葉でしきりに何か言っている。おまえには食べる物はないのかと訊いているようだ。わたしは「ノー」と言って首を横に振った。女たちはそれを見ると嬉しそうにクスクス笑い、わたしもインド到着以来初めて緊張が解けて、笑い顔になった。
その後の数時間、ホコリっぽい熱気と絶え間ない振動と、これも絶え間ない女たちのお喋りとカレーの匂いのなか、疲労困憊していたわたしはずっとウトウトしていた。
ようやくプネー駅に着いた。
ムンバイの駅ほどではないがここの騒動も相当のもの、かなり大きなターミナル駅のようだ。赤ターバンたちが競って車内に入ってきたのでその一人にスーツケースを降ろしてもらい、駅の近くだと聞いていたから「グルモアホテル知ってる?」と訊くと、例の首ふりとともに「イエスイエス」が返ってきた。そしてポーター特有の跳ねるような走り歩きでわたしの前を行く。陸橋を渡り改札を抜けて駅前に出た瞬間、目の前には本物のインドの町が広がっていた。
もわっとした熱気と例の強烈な臭いは同じだが、黄ばんだ 衿 なしの 裾 広シャツ(クルタ)にズボン、あるいはこれも色の 褪 めた、たくし上げた腰布(ドゥティ)をまとった男たちが、ただ歩いたり、身振り手振りで大声で話しをしていたり、自転車に乗ったり、荷を満載した牛車やリヤカーを引いていたり、人混みのほとんどを占めている。その中に少し混ざったカラフルなサリー姿の女たちは、頭に荷物を載せて歩いている人が多い。
広い駅前通りを行き交っているのは人間たちだけではなかった。痩せこけた聖なる牛たちが好き勝手な場所をうろついているし、メーメーと 喧 しく 啼 きながら飼い主に追われて行く山羊の群れ、そしてその間をけたたましくクラクションを鳴らして駆け抜けていくのは、腰までの黒い車体に黄色の線が入った 幌 付き三輪スクーター(これがタクシー代わりで有名なリクシャー)だ。
それらの向こう側に小さな商店が並んでいるが、人だかりの多いのはレストランらしい。さっきからグーグー鳴っているわたしの胃が、もう十時間以上何も口にしていないことをあらためて告げている。
なんのことはない、グルモアホテルは駅のすぐ斜め前にあった。
大振りの濃いピンクの花をこんもり付けたブーゲンビリアが、黒ずんだ石塀からあふれ出ている。その塀の左端にある門を一歩なかに入ると、外の騒音が急に遠くなった。
このホテルは外国人が多く泊まる高級ホテルではなく、インド商人が利用する小綺麗な中級の中くらいの宿だそうで、エアコンが付いていないから値段は安い。滞在が長期になる可能性もあると思っていたわたしには手頃だ。
それから数か月、このホテルの旧館二階の二○五号室、石造りの小さなシャワー付きのシングルルームが、わたしの住みかに、そして世にも不可思議な体験をしていく拠点になるのである。
アシュラム
翌日、食事と睡眠と、壁にぺったりくっついた巨大ヤモリにびくびくしながら浴びたシャワーとでようやく人心地ついたわたしは、長旅の本来の目的である、アシュラムと呼ばれるOSHOの修道場に向かった。
ここでOSHOの簡単なプロファイルを書いておこう。
OSHOの本名はラジニーシ・チャンドラ・モハン。一九三一年十二月、中央インドのマディヤ・プラデシュ州の寒村クチワダで 敬虔 なジャイナ教徒の第一子として生まれ、一九九○年一月プネーで逝去。
すでに子供時代から、権威や通念に反逆して議論をふっかけ歩いた異色のガキ大将だったらしいが、幼少より種々の瞑想をしたという以外には、聖者と呼ばれる人につきものの神秘的な逸話や伝説は特にない。「光明」を得た、つまり 大悟解脱 したのはジャバルプール大学哲学科に在学中の二十一才のときと言われる。
以後五八年まで大学で哲学教授として教鞭をとるが、その間にもインド国内を広く旅して、既存の組織宗教や因習を強烈に批判しながら自身の教えも語りはじめた。アチャリヤ(教える者)ラジニーシの時期である。
大学を辞めたあと、各地で講演しながら瞑想を指導していたが、一九七 ○年ムンバイで初めて弟子を受け入れる。その頃欧米でも彼の講話録が出版されるようになり、西洋人の入門者が増えていった。
その頃から、バクワン・シュリ・ラジニーシと称するようになったが(バグワンとは天与の祝福を得た者、神格者。シュリは尊称)、インド国内では信奉者はバグワン・シュリと呼ぶが、普通の人はラジニーシとだけ呼び尊称はつけない。
弟子はインド人西洋人を問わず、バグワンと呼んでいた。但し、他界する数年前OSHOラジニーシと称するようになり、最後にはただOSHOあるいは和尚と名乗っていた。
プネーに移ってアシュラムを建てた頃には、世界各国から精神分析の医師やサイコセラピスト *が彼を訪れるようになった。彼らを魅きつけたのは、OSHOが導入した現代人のための数々の新しい瞑想法とサイコセラピー *の採用だった。
現代の人間が、環境のまったくちがった古代の瞑想法だけで内的成長を得ようとしても不可能だとOSHOは言う。文明のもたらした精神的混沌に対処することなしに、ただ煩悩を捨て無心になろうとしたところで、別な抑圧を生むだけだともいう。
わたしはその合理性に魅かれた。それと同時にOSHOが、自分は宗教的ではあるが宗教の創始者ではないと言っている点にも共感した。ふつう使われている狭義の宗教という言葉には、常に 胡散臭 さがつきまとうからだ。だが彼の言う「宗教的」とは信仰を土台としない内面的探求、精神世界の求道であり、個の次元でしか可能でないから組織宗教はまったくの圏外におかれる。
だが当時のわたしは、瞑想やサイコセラピーや精神世界には関心がなく、そっちの分野の知識は皆無だった。ではわたしはOSHOに何を見たのか。
いちばん魅きつけられたのは、彼が人間存在のあらゆる在り方を受容し、道を指し示し、それをまた人に自由に選択させていたことだ。
わたしが真に求めているもの、それが具体的にはいったい何であるか自分でもはっきり解らないが、とにかく、わたしはここで何かを掴みたかった。
ホテルの前に何台かのリクシャーがたむろしている。わたしはそのなかの一台に恐る恐る乗りこんで、「アシュラム」と頼んだ。期待どおり、黒髪、黒 口 髭の男の頭が∞の形を描いて振られ、「イエスイエス、アシュラム」と繰り返す。
リクシャーにはキャンバス地の 幌 は掛かっているがドアはなく、後部は二人掛けのシートだけ。それが雑な舗装の道でやけにスピードを出すものだから、わたしのからだはホコリっぽいシートの上で飛び跳ねた。
仕方なく、その派手な揺れを、幌からぶら下がっている手垢で油じみた 手 摺 りに掴まってなんとかしのぎ、つぎつぎと現われては遠ざかる特大の絵はがきのようなカラフルな風景に眼をこらすも、時差ボケで現実感はあまりない。
すっくと立つ菩提樹や、無数の 気 根を枝から垂らしたガジュマルの巨木の並木、その下の屋台の物売り、路傍に咲き乱れる原色の花々、サリー姿の女たちや牛、口髭を生やした男たち、ホコリ、臭いと匂い。
十分ほど行くと、緑の深々とした超高級住宅街に入った。
中心に宮殿のような邸宅の建つそれぞれの敷地は広大で低い塀に囲まれ、木々が林のように繁っている。名前どおり炎のような深紅の花が燃え立って咲き群れている火 炎樹 や、無数の紫色の花房をたわわにつけたジャカランダの大樹が何本も見える。
アシュラムはその一画にあった。
だが周囲の豪邸とはちがい門が見えない。というより、本来の門は資材と潅木で閉じられていて、仮の出入口が敷地の角っこにあった。リクシャーの運転手は心得たもので、ちゃんとその仮門の前で止まった。
門を入ろうとするとき、新顔だと気づいたのだろう、褐色の裸の上半身にペンダントを下げ、オレンジ色のルンギ(短い腰巻き)をまとったハンサムなインド人のガードに呼び止められた。
「日本人です。今着いたばかり。入ってもいいですか?」
男はにこりともせず、しかし親切な口調で、瞑想の時間と場所、それにアシュラム内のオフィスの場所を教えてくれた。
わたしは「ありがとう」と言って数歩門のなかに入った、が、何か気になって振り返った。ガードの男はすでに道のほうを向いていたが、その横顔をもう一度見てわたしはなぜ自分が振り向いたのか分かった。彼には口髭がなかったのだ。ムンバイ空港に降りて以来、眼にしたインド人の男性は少年以外みんな口髭をたくわえていたから、 鼻 下 に何もないのが違和感を覚えさせたらしい。
アシュラムのなかは静かだったが、時に陽気な話し声と笑い声が響き、あふれんばかりの緑の中であちこちに建材も 氾濫 していた。わたしのように普通の衣服の者もいるが、その他の人たちには、 着衣 の色調と首からはペンダントという共通項がある。白人が多い。
OSHOの顔写真が入っているペンダントはマーラと呼ばれ、弟子になるとこれを下げ、形は自由だが色は明るい暖色系の衣服を着ることを求められる(両方とものちに廃止された)。
仮門のすぐ左、通路にそって大きな屋根だけのテントが立っていた。椅子を置けば百席くらい入りそうな大きさだが、実際には何もなく、通路側に旧式なオーディオセットがある他はホコリっぽい地面が見えている。数人の男女が、それぞれ、畳一畳ほどのゴザを敷いた上に所在なげに座っていた。
このテントが瞑想場だった。
たしかにゴザでも敷かなければ、裸足になって瞑想などできない。どうやらわたしのインドでの最初の買物はゴザになるようだ。
オフィスは、前の住人の屋敷を簡単に改造したもので、中央の石段を上がった右側にあり、OSHOの個人秘書ラクシュミと彼女のアシスタントたちの仕事場で、アシュラム運営の中枢だった。
その日のわたしはオフィスを訪ねる理由はなかったので素通りし、敷地の奥に入っていった。通路の突き当たりに、こんもり繁った深い緑がひっそりと空高く広がり、 甲 高い鳥の鳴き声がしていた。OSHOの住居だ。
その住居は当時から老 子館 と呼ばれていた。両開きの細い鉄格子の門の脇に、ハイビスカスの花と葉に覆われた小屋があり、陽気な顔の髭面の白人の若者がガードに立っている。
遂に来たとか、ようやくここまで来たなどという感慨はなく、わたしは立ち止まって、なんて鮮やかな深緑、なんて大きな花なんだろうとハイビスカスに気をとられていた。
わたしの名はダンス
ここでの時間は、日本やアメリカでの時間とは別物であるかのように、のんびり 経 っていく。午後四時頃、ようやくわたしのその日の目的を 叶 えてくれる人物が現われ、オフィス前の潅木のなかの石のベンチに腰を下ろした。富豪のギリシャ人女性で 古参 弟子、ムクタだ。
わたしはムクタの顔を知らなかったが、現われる時間とベンチの場所を聞いていたから、古代ギリシャ彫刻のような顔立ちをした半白の髪の小柄な女性が、老 子館 からゆっくりした足取りで出てくるのを見てすぐムクタだと分かった。
彼女の周りには、たちまちわたしも含めて四、五人の人が集まった。彼女の手には小さな綺麗な手帳がある。集まった人たちをにこやかに見回したムクタは、わたしを見ると、
「あなた日本人? 英語できる?」
「ええ、できますが」
「それは良かった。二日ほど前から日本人のカップルがきているんだけど、言葉があまりできないようだから通訳してもらえるわね。あなたの名前は?」
「フジコです」
ムクタは明日の日付のところにフジコと書き入れた。周りの人から 羨 ましそうなため息がもれた。
老子館の玄関テラスで、毎夜七、八人の人が直接OSHOと会って話をする機会が設けられていた。それはダルシャンと呼ばれ、ムクタはそのアポイントメントを取り仕切る係なのだ。ダルシャンでは、その場で希望すれば入門して弟子になることもできた。弟子になると新しい名前と例のペンダントをもらい、そのときからサニヤシンと呼ばれる。
サニヤシンとは、古くは世捨て人、世間を棄てた出家者を指すが、OSHOのサニヤシンは正式にはネオサニヤシンと呼ばれ、家族も世間も棄ててはならないとされる。かたちの上で俗世を棄てたとしても、心のなかに世間的なものを持ち歩いたら、そんな出家は欺瞞でしかない。
それより、「世間のど真ん中に居つづけながら、自分の内側の世間を超えなさい。社会の一員として活躍しながら、それでなお、泥沼に咲くスイレンの華の如く、俗世の泥が身につかないよう自己修練しなさい」とOSHOは言う。
出家だ世捨てだという生き方には関心がなかったし、「とにかくかたちをととのえる」ことを大切にする文化のなかで生まれ育ち、それに 辟易 していたわたしにとって、これは魅力的だった。
次の日わたしは、洗いたての衣服に着替えて夕方六時、老子館のゲートの前に立った。 ゲート前に集まった人たちは半数が弟子たちで、全部で八人ほど。そのなかに、黒髪を肩まで垂らした小柄な若い東洋人女性がガード小屋近くに立っていた。
彼女もこちらを見ている。ゴザを買いに行ったとき見かけた、同じ東洋系の男性といっしょに下町の目抜き通りで買い物をしていた女性だった。そのときには、ムクタの言っていた日本人カップルってこの人たちかなと思っていた。
わたしたちの眼が合った。
また強烈なデジャヴが起こった。顔を見ているうちに、わたしはすでに彼女を長い間知っている感じになっていた。その女性は人なつこい笑顔で近寄ってくると、
「通訳してもらえるって聞いたんですけど。わたし、カズエっていいます」
わたしも自己紹介し、彼女のダルシャンは昨日ではなかったかと訊ねた。
「シャンプーの匂いが残っていて門ではねられて、今日になった」と彼女は答えた。
OSHOは強度の匂いアレルギーだ。だから髪や衣服にタバコや香料などの匂いがついていると、アポイントメントがあっても会わせてもらえない。ゲートには彼のボディガードをしている赤毛のスコットランド人シバがいて、門内に入る者をいちいちクンクンと嗅ぐのである。カズエはどうやら昨夜そのシバにノーと言われたらしい。少女のような風貌と甘ったるい声の甘えた感じの話し方が印象的だった。
一人ひとり名前が呼ばれ、赤毛氏にクンクンされ、カズエも今日は無事パスして、わたしたちは濃い暗い緑の下の砂利道を奥へと導かれた。
すぐに明るく照らされた玄関の大理石テラスが見えてきた。壁寄りに椅子が一つ置かれてあり、その脇の床にムクタが座っている。わたしたちは椅子を囲むようにごたごたと座った。正座の者もいるしあぐらをかいている者、立てた膝を抱く者もいる。誰も口はきかない。カズエとわたしは並んで座った。
虫の声と蛙の声、そしてときおり木立を 撫 でるように渡っていく風の音だけがする。ゆったりとした静寂があった。
突然、ほわっとした感じで空気がかすかに動き、戸口から、大きな笑みをたたえたOSHOがテラスに現われた。頭のテッペンは見事に禿げあがっているが、脇からは真っ白な髪が、そして同じように真っ白な髭が長く垂れ、胸元に軽く合掌した両手がある。着ているローブも真っ白だった。裸足の足にサンダルを履いている。
わたしたちも合掌した。OSHOの背後には、サーモンピンクのスカーフを頭に巻き、紙挟みを抱えた小柄なインド女性がひっそりと従っている。秘書のラクシュミだろう。彼女は、OSHOが合掌を解いて椅子にかけると、ムクタの反対側の床に正座した。
ダルシャンは、サニヤスの授受から始まった。つまり、OSHOの弟子として、OSHOからペンダントと新しい名前をもらう簡単なイニシエーションだ。わたしの決心はすでについてはいた。
アメリカ人の男性がまずムクタに呼ばれ、前に出た。ラクシュミが素早く紙挟みをOSHOの左手に渡した。男を一瞬じっと視つめたOSHOは一、二行何か書き、ペンを膝に置くと右手をムクタのほうに出した。ムクタがペンダントを一つその手に乗せる。OSHOは両手で男の首にそっとペンダントをかけ、また笑顔になって書いた紙を与えながら名前の意味を告げ、「何か言いたいことはあるかね?」と訊ねた。
男は感極まっているらしく、小声で「ありません」と答えると首をふりながら元の席に戻っていった。二人めに呼ばれたのはカズエだった。いっしょに前に出て通訳してくれとムクタはわたしも呼んだ。
わたしは先程から、OSHOの表情の豊かさに見とれていた。笑顔になるときには顔全体が、いや身体全体が笑みになる。名前を決めるためじっと 視 つめるときには、真剣そのもので集中力の権化のような感じになる。ところがそのつぎつぎと変わる表情の背後には、ユーモラスでさえある軽快感がBGMのように途切れず流れている。不思議な人だ、とわたしはその顔から眼を離せないでいた。
カズエはOSHOの正面に座り、わたしはその横、ムクタの膝すれすれのところに座った。OSHOは、大きな眼をますます大きく丸くして、とろけるような笑顔でカズエを迎えた。
一分後、マ・プレム・ギータが誕生した。プレムは愛、ギータは歌という意味だとOSHOは告げ、わたしはその通り通訳した。ギータになったカズエは嬉しそうに笑い、同時に涙ぐんで何度も頷いた。
弟子の名前には、女性には「マ」が、男性には「スワミ」が付く。マは母の尊称、スワミは聖なる戦いの勇士の意だ。
ギータが退き、わたしの番になった。
胸の鼓動が強くなる。OSHOの前に座り直し見上げると、先程ギータに見せた笑顔はどこへやら、わたしには恐いような 一瞥 を投げ、すぐ紙に名前を書きはじめた。その射るような眼光の強烈さに一瞬身がすくみ、わたしはからだを硬くした。
首を出してペンダントをかけてもらい、その瞬間わたしは、マ・アナンド・ナルタンになった ……のだが、涙も出てこないし、特別に深い感動、感慨もない。何か感じなくっちゃいけないのにと頭がおろおろ焦っている間にも、OSHOは身を乗り出し、アナンドは至福、ナルタンとはダンスと名前の意味を告げ、紙を渡してくれながら、
「何か言いたいことはないかね?」と訊いた。
突然わたしは、自分でも驚いたことにこう口走っていた。
「わたしはこれまで、何かになりたいと思ったことはありません。今でもそうです」
わたしは唐突に口をつぐんだ。OSHOは相変わらず厳しい顔つきでわたしを見ていたが、軽くうなずき、
「瞑想に身を打ち込むがいい。そして、一週間後にまた来なさい」
と言った。ムクタが早速、例の手帳に何か書きこんでいる。わたしは「はい」と答え、礼をして元の席に戻った。
そのあとは、訪問者や弟子たちとの質疑応答がつづいた。しかしわたしの頭のなかではいくつもの「なぜ」がぐるぐる回っていて、話しはろくに聞いていなかった。
ダンスだって? それよりなぜわたしには笑顔を見せなかったのか。そしてまた、なぜにわたしはあんなことを突然言ったのか?
感じる予定だった安堵感がないのが不思議だった。飛行機のなかで想像した、「ようやく 辿 りついた」と感じるにちがいないという予想は完全に外れた。あるのは突っぱねられた感じだけ、しがみつこうとしたら達磨大師のような眼で 睨 みつけられ、無言で甘えるなと言われた、そんなあと味だけだった。
その夜、洗面所のコップでダルマをすすりながら、脳裏から消えてくれないあの底無し沼のような眼を思い起していた。
長いこと手探りで不器用に模索してきた「これこそ自分の生!」と感じられる生き方が、今度こそ 掴 まえられるんじゃないか。なんとなく、自分が丸ごと受容されそうな生の位相が、OSHOのなかに、彼の智恵と洞察のなかに見えるような気がしていた。トンネルの出口が見えた気さえしていたのだ。
それにしても、笑顔をもらえなかったこと、自分があんなことを言ってしまったことが気になった。確かにわたしには、「何をして」生きるかより「どう」生きるかのほうが大切だ。しかし、なぜそれがあんなときあそこで噴出したんだろう。
しかしダルマの効果のせいか、結局は、「ま、いいや、考えたってどうなるもんじゃない」という得意の結論に落ち着いた。
過ぎた背後より、前方を見るほうが性に合っている。
かたちだけは弟子にしてもらったが、そのあとの選択は自由だ。
師となった人は何も強制せず、なんの拘束もしない。すべては当人しだい。適当にやったってどこからも文句は出ない代わり、全身全霊かけてやったって誉められるわけでもない。悔いの残らないよう十全にやってダメだったら、そのときにはそれでいいことにしよう。
生を発見しようとこんなに真剣になったのも、そして、目前の未知の可能性に対してこんなに自分を開いたのも、初めてのことだった。
なんの先入観も予備知識もなく、わたしは瞑想に飛びこんでいった。「瞑想に身を打ち込みなさい」というOSHOのひと言を唯一の指標にして。
それは、まさに自分の生を求めての賭けだった。
*デジャヴ
実際は一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じることがある感覚。既視感(きしかん)。 デジャヴュ(仏 : déjà-vu:英語 already seen )「既に見た」の意味。
*チャパティ
チャパティは、インド、パキスタン、バングラデシュ、アフガニスタンにおけるパンのひとつ。ロティの一種。
*サイコセラピー/サイコセラピスト
精神分析的手法などによる精神心理療法。個人になされるものとグループにしてなされるものとがある。かならずしも病状のある人が対象ではなく、自己発見自己改革など、意識や精神性を高めるためにも用いられる。サイコセラピストはその療法を指導する人。











