草はひとりでに生える
この「草はひとりでに生える」は一九七八年にOSHOが禅について語った講話を翻訳し、出版されていた本の再出版です。
日本人でさえ難解な禅の世界をOSHOが数々のエピソードをもとに、優しく噛み砕いて説いているこの本は、それゆえに一つひとつの言葉の意味が深い次元をもち、日本語に訳す際に困難な言葉の扱いについてはいちいちOSHOにサジェスチョンを求めて訳されたと聞いています。
完全に瞑想とも言えるべき翻訳作業により完成されたこの本の再出版を望む多くの読者の期待に応えて、今回さらに熟校されて出版されるこの本は、あらためて禅の神髄を伝えるとともに、OSHOの禅に対する並なみならぬ愛情を感じさせてくれます。
目 次
第一章 禅の意義
睦州は応えて言った 私たちは着 食べる
第二章 師と弟子
静かに黙して坐り 春が来て 草はひとりでに生える
第三章 虚空と僧侶の鼻
すると靖居はその僧の鼻をひっつかんでぐいと引っぱった
第四章 呂凌の大滝
渦の巻くままに巻きこまれ 渦といっしょにまた浮かんでくる
自分を水に合わせるのですよ 水を自分に合わせようとしないでね
この流儀でやれば水とうまく付き合うこともできますよ
第五章 沈黙の師
自分のインチキ禅を売るために 彼は 二人の雄弁な弟子を控えさせ
質問があれば彼らに答えさせていた
そして彼自身は その謎のような沈黙の禅を誇示するためか 決して口を開かなかった
第六章 覚醒
とうとう彼は 自分が失敗したことを認めた
そして全てを終わらせてしまおうと決意をかため
欄干の端へ行ってゆっくり手摺りに足をかける
と その瞬間 覚醒を得た
第七章 死んではいません
解脱に至った人間は 死ぬとどうなる?
第八章 濃紫に染められた野辺
一物も無きをたまはる心こそ本来空の妙味なりけり
第一章
禅の意義
一九七五年二月二十一日講話
ある人が 師 睦州 に訊ねた
私たち人間は 毎日毎日
着たり食べたりしなければなりません
如何にこれから脱却できましょうか?
睦州は応えて言った
私たちは着 食べる
その人は言う
おっしゃることが解りませんが
睦州は再び応えて言った
もし解らないのなら
あなたも 着て食べるがいい
禅とは何だろう?
禅とは、非常に並はずれた成長をいう。その可能性の実現は稀にしかない。なぜなら、数多くの 難関 が伴うからだ。
過去にも何回かその可能性は存在した。それは、スピリチュアルな出来ごとの内、あるものは成長して禅のようになり得たかもしれないということだが、しかし、全面的に実現するには至らなかった。
人間の意識の歴史の上で、禅のようなものが実現し得たのは今までに一度しかない。本当に 稀 有 なことだ。だから私はあなたに、まず、禅とは何か理解してもらいたい。というのも、その理解がなかったら、ここに出てくる禅の逸話は、大してあなたの役に立たないだろうから。
あなたは、禅の全体的な背景を知る必要がある。その背景のなかで、その 脈絡 のなかで、これらの逸話は光を放つ。そうなってあなたは、突然、これらの逸話の意味と意義とを得られる。
さもなければ、これらの逸話は、バラバラになった単位のようなものだ。あなたは、話を話として楽しめるし、ときには大笑いもするだろう。
これらの話は全て深い詩情を秘めている。逸話自体、非常に美しく芸術的にもユニークな作品だが、しかし、これらの逸話をただ眺めるだけでは、あなたは、禅とは何かという意義の内側にまで浸透していくことはできない。
だからまず、私について来るがいい。ゆっくりと、禅の成長を通じて、どのように禅が起こったのかを見ながら私についてきなさい。
禅はインドで生まれ、中国で育ち、そして日本で開花した。この道程全体が全くめずらしい。
なぜ、それがインドで生まれることになったのか、しかし、なぜそこでは育つことができず、違った土壌を探し求めなければならなかったのか?
禅は中国で大きな樹に成長したが、花を咲かせることはできなかった。またしてもそれは、新しい風土、別の気候を探し求めなければならなかった。
そして日本でそれは、まさに桜のように、あふれんばかりの花をつけて開花した。
これは偶然でも思いがけないことでもない。これには深い内なる歴史がある。それを今、私は明らかにしてあなたに示したいと思う。
インドは内向的な国、日本は外向きの国だ。そして中国は、ちょうどこれら二つの両極端の中間にある。インドと日本はまるっきり逆の国だ。
では、どのようにこの種子はインドで生まれ、日本で花を咲かせたのだろう?
二つの国は逆というだけではない。似ているところが全くないし、一致するものがない。そして、生育のための土壌を提供するのに、なぜ中国がその真ん中に入ってくるのか?
種子には内向する性質がある。種子とは何なのか、種子という現象を理解してみるがいい。種子は外へ出ていくものではない。完全に自分だけに関わっている一つの内向的な現象だ。
それに求心的だ。つまりエネルギーが内向している。だからこそ種子だ。外の世界からは完全に覆い隠された、閉ざされた存在。
実際、種子とは世界で最も淋しい孤独な存在だ。土のなかに根を張っているわけでもなく、空に向かって枝を延ばしているわけでもない。大地とのつながりは何もなく、大空と関わりをもつでもない。事実、種子は自分のまわりと一切関係することがない。天涯孤独、孤島のように孤立して、群から脱落した存在だ。
種子は他と関わることをしない。身に固い皮をつけ、窓もなく扉もない。外に出ることもできなければ、またそのなかに入っていけるものも何一つない。
種子の情況はインドでは自然なことだ。
インドの気風は、高い潜在的可能性を秘めた種子を生み出すことはできるが、それに土壌を与えることはできない。
インドは、内向する意識だ。
インドでは外界は存在しないと言い、また、たとえ存在するとしても、それは夢の材料と同じもので出来上がっているという。
インドの思潮全てが今まで見つけ出そうとしてきたのはこういうことだ。
つまり、どうやったら外の世界から抜け出すことができるのか?どうしたら 心 の奥の内なる洞窟に入っていけるのか? どうしたら自分を内側で統一できるか?
そしてまた、どうしたら覚醒に至ることができるのか?意識の外にある世界全体は単なる夢にすぎないと、どうやったら気がつくようになれるのか?
良い夢にしてもただ美しいだけのこと、悪い場合は悪夢になる。美しいにしても醜いにしても、夢は夢にすぎない。そして人はそれにこだわるべきではない。人は 醒 めていなければならない。外界の夢など全て忘れなければならない。
仏陀、マハヴィーラ、ティロパ、ゴラーク、カビールたちの努力、幾世紀も通じて彼らがした努力は全て、いかにして生と死の 輪 廻から抜け出すかにあった。
いかに自分自身を囲いこむか。いかに完全に、自分をあらゆる関係から切り離すか。いかに関わることなく離れていられるか。いかに内面の世界に入り、外の世界を忘れ去るか。
こうだったからこそ、禅はインドに生まれたのだ。
禅とはディヤン(DHYAN)であり、ディヤンを日本語化した言葉がゼン(禅)になる。
ディヤンはインド的意識の努力の所産だ。
ディヤンとは、独りで在るという状態、自分の存在の奥深い内部、思考のかけらさえないほど内面の深みに入っている独りの状態を指す。
実は、英語には直接これに当たる訳語はない。熟考(Contemplation)という言葉は合っていない。熟考が意味するのは、考えること、内省することだ。瞑想(Meditation)ですら適した言葉とは言えない。なぜなら、瞑想という言葉には瞑想する対象になる何かが含まれるからだ。つまり、そこに何かがあることになる。キリストについて瞑想することもできるし、十字架について瞑想することもできる。
しかしディヤンの境地では、瞑想の対象となるものまでなくなる。そこに何もない、というまでに孤独になること。対象は何もなく、ただたんに主体だけが在ること。
それは意識、雲一つない全く純粋な空のような意識だ。
この言葉、ディヤンが中国に到着するとそれはチャンとなった。チャンが日本に至ってゼンとなっていくのだが、全て同じサンスクリット語ディヤンという源泉から来ている。
インドはディヤンの誕生をもたらすことができる。何千年もの間、インドの意識は全てディヤンの道を歩みつづけている。
どのようにして、思考を全て落とすか、どうしたら純粋意識のなかに根を生やすことができるか、こういうディヤンの道をだ。
仏陀によってこの種子は生を得た。それ以前にも、ゴータマ仏陀以前にも何回かこの種子は生を得て存在したのだが、それに合う土壌を見つけられないまま消えていった。
もしこの種子をインド的意識のなかに植え付けるとしたら、それは消えてしまう。なぜなら、インド的意識というのは、より内部へ、より内面へと向かうものであり、そのなかで種子はますます小さく、小さくなっていく。そしてついにはそれが全く見えなくなる瞬間がくる。
求心力はものを小さく、小さくしていき、原子にまで小さくしていって、ついには、それは突然消える。
ゴータマ仏陀以前にも何回もこの種子は生まれていた。瞑想してディヤニ(禅者)に、偉大な瞑想者になったのはゴータマ仏陀が初めてではない。
事実、彼は長い連鎖の最後の一人だったにすぎない。彼自身、自分より前に存在していた二十四人のブッダ(覚者)を憶えている。彼らは全て瞑想者だった。彼らは何もしないで、ただ瞑想し、瞑想し、瞑想した。
そして、ついには、そこに 自 身だけが在るという点に至る。他は全て消え去り、蒸発してしまっている点だ。
種子は生まれた ……
バラスナト、マハヴィーラ、ネミナト、そして他の人々と共に生まれた。だがそこで種子は、インド的意識の内にとどまって動かなかった。
インド的意識は、種子を誕生させることはできる。だが、それにふさわしい土壌にはなりえない。インド的意識は、同じ方向に向かって働きつづける。そして、種子はそのなかで小さくなっていき、分子になり、原子になり、ついには消えていく。
ウパニシャドに 伴 って起こったことがこれであり、ヴェーダに伴って起こったことも同じ。マハヴィーラや他の人たちに起こったこともこれだった。
仏陀にも同じことが起ころうとした。だが、それを救ったのがボーディダルマ(達磨)だった。
もし、仏陀と共に生まれたこの種子がインド的意識のなかに残されたままだったら、それは溶けてなくなっていただろう。けっして発芽することはなかっただろう。
発芽のためには異なったタイプの土壌が必要だ。バランスのとれた土壌が。
内向性というのは、バランスのとれていない不均衡な性質だ。それは一つの極端だ。
ボーディダルマは種子を持って中国へ逃げこんだ。彼は、意識の歴史の上で最も偉大なことの一つをやった。仏陀が世界に与えたこの種子に、ぴったり合った土壌を彼は見つけた。
仏陀自身こう言ったといわれる。
「私の宗教は五百年以上は存続しないだろう、その後には消えていくだろう」と。
仏陀は、それまでの宗教が必ずそのようになったことを知っていた。
インド的意識は、種子を 挽 き 砕 きつづけ、小さな、より小さな、よりより小さな破片にする。そしてあまりにも小さくなって、もう見えなくなるという瞬間がくる。それはもう既に、この世界の一部と呼べる大きさではない。空の彼方に消え去っている。
ボーディダルマの実験は偉大な実験だった。彼は、世界をくまなく見渡し、深く観察して、この種子が育つことのできる場所を探した。
中国は、非常にバランスの取れた国だ。インドとは違う。また日本とも違う。黄金の中庸(中道)がこの地での道だ。
孔子の思想は常に中間にとどまるというところにある。内向でもなく外向でもなく、この世のことを考え過ぎるでもなく、かといって彼岸にこだわるでもなく、ただその中間にとどまる。
中国は宗教を生み出したことはない。道徳だけだ。そこで生を得た宗教は一つもない。中国的意識は、宗教を誕生させることはできない。種子を作り出すことはできない。
中国にある宗教は全て輸入されたもので、外部から来たものしかない。仏教、ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教、これらは全て外国から来たものだ。
中国は良い土壌ではあるが宗教を創始することはできない。なぜなら、宗教が創始されるには内面の世界に入っていくことが必要だからだ。
一つの宗教を生み出すには、女性の肉体のようになっていなければならない。子宮のようであらねばならない。
女性的意識というのは、極端なほど内向的だ。
女は自分自身のなかで生きる。女は自分のまわりのとても小さな世界を、可能な限り小さな世界をもっている。だから、とてつもなく広大なものごとに女の関心を向けることはできない。とても駄目だ。
女にベトナムのことを話すのはムリなこと。彼女たちにはどっちでもいいことなのだから。ベトナムは遠すぎるし、外でありすぎる。彼女たちには、自分の家族や自分の夫、子供や飼っている犬や家具やラジオやテレビのことの方が気にかかる。
一つの非常に小さな世界、必要最小限の世界が彼女のまわりにはある。こうして、大きな世界を周囲にもたないがために、男と女の間で知的な会話を交すことはたいへんむずかしい。男と女は違う世界に住んでいるのだ。
女は静かに黙っているときだけ美しい。話し始めた瞬間から、愚かなことが彼女たちの口から飛び出す。女は知的に話すことができない。
彼女たちには愛することはできる。だが知的に話すことはムリだ。女は哲学的にはとてもなれない。ダメだ、不可能なことだ。そんなことは彼女たちからかけ離れすぎている。どっちでもいいことだ。
女は、自分自身の世界のごく小さなサイクルのなかに生きていて、自分がその中心にいる。そして、意味あるのは自分に関わることだけだ。それ以外のことには意味がない。彼女たちには人がなぜベトナムを気にするのか解らない。
どうしたの? あなたはベトナム人とは全然関係ない。戦争が起こっていようがいまいが、あなたの知ったことではないでしょ?それに子供が病気だというのに、あなたはベトナムのことばっかり気にかけている。
自分がこんなに近くに、目の前にいるのに、男の方は新聞を読んでいるなんて!こんなことは彼女たちにはとても信じられない。
女は全く違った世界に住んでいる。女は求心的、内向的、内省的だ。女はみんなインド的だといえる。住む場所がどこであろうとそれは関係ない。
男は遠心的だ。
外に出ていく口実が見つかるやいなや、男は家から逃げ出す。彼らが家に帰ってくるのは、どこも他に行くところがないときだけだ。クラブやバーが全部閉まって、さてどうしようか? というときだけだ。
彼らは家に帰る。行くところはどこにもないし、家にでも帰ろうかと。
女はいつも家が中心で、家を基地にしている。彼女たちは、どうしても必要なときでない限り外へは出ない。ぬきさしならない用事があるときだけ、それが絶対に必要だということになったときに初めて外へ出る。さもなければ彼女たちは家に根を生やす。
男は浮浪人、放浪者だ。家族生活の全ては女によって作りだされる。男によってではない。実際、文明がつづいているのは女がいるからであって、男がいるからではない。
もし許されるものなら男たちは放浪者になるだろう。家もなく、文明もなく。男は外に向かい、女は内に向かう。男は表出的であり、女は内省的だ。
男は常に自分以外の何かに関心をもっていて、だからこそより健康的な様子をしている。人は自分に関わりすぎると病気になる。男はずっとハッピーな様子をしている。
女はいつも悲しそうで自分のことを気に病んでいる。それにちょっとした頭痛もち。彼女たちはとても心配なのだ。というのも内面で生きているから。彼女たちの頭痛は、もうそれは大きな収拾のつかないものになっていく。
しかし男は頭痛を忘れることができる。彼らは他にたくさんの頭痛の種を抱えている。彼らは、自分のまわりにあまりに多くの頭痛の種をつくり出しているから、自分という頭痛をどうこうして、それを何かにしてしまうような、そんな可能性はもうない。それは、いつでも忘れることができるほど小さくなっている。
女はいつも心配だ。何だか足の具合が変だし、手も変だ。背中の調子が悪いし、お腹もおかしいみたい。いつも何かある。なぜなら、彼女たちの意識は常に内側に焦点を定めているからだ。
男には病的なところはずっと少ない。もっと健康的、外向的だ。男が気になるのは、他人に何が起こっているかの方だ。
このために、あらゆる宗教でそうなのだが、もし五人の人間が何か宗教的な場にいるとしたら、四人は女で男は一人ということになる。そして、その一人の男でさえも、もしかしたら女のためにそこにいるだけかもしれない。妻がお寺に行くというので一緒に来なければならなかった。あるいは、妻が宗教の講話を聴きに行くというので、何となくついてきただけとか。
どの教会に行ってもこの割合は変わらない、何の教会だろうが、寺院だろうが、どこでも同じこと。仏陀の場合でさえこの割合だったし、マハヴィーラのときもこの割合だった。仏陀の場合五万人のサニヤシン(世を捨てた使徒)がいたが、四万人は女で男は一万人しかいなかった。
なぜだろう?
肉体的には男性の方がずっと強くまた健康でありうる。が、スピリチュアルな面では女性の方がより健康になりうる。これは、関心の向くところが違っているからだ。
人は、他人のことを気にしているときには自分のからだのことを忘れられる。身体的にはより健康になれる。しかし、宗教的には簡単に成長することはできない。宗教的な成長は内面への関心を必要とする。
女性は、宗教のなかではぐんぐん成長していく。その道は彼女たちには楽な道だ。しかし、政治の世界で成長することはむずかしい。
内向性にはそれ自体の恩恵があり、外向性にはそれ自体の恩恵がある。そして同時にそれぞれ危険な側面をもっている。
インドは内向的な、女性的な国だ。ちょうど子宮のように、非常に豊かな受容性をもっている。
だが、もし子供が子宮のなかにとどまって、いつまでもいつまでも、いつまでもそこにいるとしたら子宮はその子の墓になる。子供は母親の子宮から出ていかなければならない。そうしなかったら母親は子供をそこで殺してしまうことになる。子供は逃げだして、外の世界を見つけなければならない。より大きな世界をだ。
子宮のなかは素晴らしく気持のいい所かもしれない。その通り!科学者の言うところによると、私たちはまだ、子宮ほど快適な場所を作り出すことはできていないそうだ。これほど進んだ科学をもってしても、私たちは子宮以上に居心地のいいものが作れない。
子宮はまさに天国だ。しかし子供でさえこの天国を離れなければならない。母親の外に出て行かねばならない。ある期間を過ぎれば、母親であろうとたいへん危険な存在になる。子宮には殺すこともできる。子宮が 監獄 になるのだ。
ある期間はいい。まだ種子が育っている最中はいい。だが、それを過ぎたら、種子は外の世界に移植されなければならない。
ボーディダルマは見まわして、世界全体をよく観察した。そして、中国にこそ最も適した土壌があることが分かった。それは中道を行く土壌で、極端なところがなかった。気候も極端ではなかったから、種子は容易に成長できそうだった。それに、そこにはバランスのとれた人々がいた。
バランスは何かが成長するためには適切な土壌になる。寒すぎるのは良くないし、また暑すぎるのも悪い。バランスのとれた風土、寒すぎることもなく暑すぎることもない風土でこそ、樹は成長できる。
ボーディダルマは種子をもって逃げ出した。インドが産んだ全てをもって逃げ出した。誰一人、彼が何をしていたのか気づいた者はいなかった。
これは偉大な実験だった。そして彼は、それが正しかったことを証明した。
中国で、樹は成長し、成長し、すばらしい大きさにまで成長していく。
ところが樹はどんどん高大になっていったにも関わらず、花は育たなかった。開花は起こらなかった。というのも、花は外向性をもった国を必要とするからだ。
ちょうど種子が内向的であるように、花とは外向的なものだ。種子は内に向かい、花は外に向かう。種子は女性的意識に似ていて、花は男性的意識に似ている。
花は外の世界に向かってひらき、その香りを外の世界に放つ。するとその芳香は、風の翼に乗って舞い、世界のすみずみまで、世界の果てまでも飛んでいく。あらゆる方向に花はそのエネルギーを解放する。種子のなかに包まれてきたそのエネルギーを。
花はドアだ。花たちは蝶になりたい。蝶になって、樹から逃げていきたい。実際、花たちはその通りのことをやっている。とってもひそやかなやり方だが。
花は、樹の 精髄 を、樹の意味そのものを、樹の本義そのものを、世界に向けて解き放つ!
花たちは分かちあうことがすばらしく好きだ。種子はたいへんなケチンボで、いつも自分の内側に入りこんでいる。それにひきかえ、花たちはとんでもない浪費家だ。
さて、日本が必要だった。
日本は外向きの国だ。生活の様式そのもの、そして意識が外向きの国だ。
見わたしてごらん。インドでは、外の世界にかまう人間など誰もいない。着るもののこと、家のこと、どのように生活するとか、誰も気にかけやしない。だからこそインドはこうも貧しいままでいるのだ。外の世界のことを全く心配しないとしたら、どうやって豊かになれよう? もし外部世界を改良することに全く気をまわさないとしたら、人は貧しいままで終わる。
それにインドは常に深刻だ。いつも人生から逃げる用意をしている。
覚者 たちは、どうしたら生きることからの完全な落伍者 になるかを説く。それも、社会から脱落するだけでなく、存在することそのものからの究極的なドロップアウトだ。
存在することは退屈すぎる ……と、インド人の眼には人生は灰色にしか映らない。何にも面白いことはないし、全くあらゆることがつまらない。重荷だ。だが人は、何とかこの重荷を引きずって行かねばならない。前世のカルマのゆえに……
インド人は、たとえ恋におちても、この恋は過去のカルマのためだと言ったり、これは通り抜けなければならないものなどと言ったりする。愛でさえ、人が引きずって歩かなければならない重荷になる。
インドは、生より死の方向に傾いているようだ。内向性をもつものはどうしても死に向かう。このためにインドは、完全に死ぬためのあらゆるテクニックを発展させてきた。二度と生まれかわることがないように、いかに完璧に死ぬのかのテクニックだ。ここでは死が終着点であり、生はそうではない。生はバカ者たちのためのもので、死こそ賢者のためにある。
仏陀やマハヴィーラがどんなに美しい存在であるにしても、彼らは閉じている。彼らのまわりには無関心の大きなオーラが取り巻いている。どんなことが起ころうと、彼らは一切心を動かさない。それがこんな風に起ころうが、あんな風に起ころうが、彼らにとって差異はない。世界が生きつづけようが死んでしまおうが、なんの相違もない。
とてつもない無関心、この無関心のなかでは開花は不可能だ。この、内部に閉ざされた状態では、花が咲くのはムリなことだ。
日本は全く違う。日本的意識にあっては、あたかも内部など存在しないかのようだ。外界だけに意味があるかのようだ。
日本の着物を見てみるがいい。花や虹のもつあらゆる色合いがある。まるで外界が意味深いものかのように。
インドの昔からの衣類を見るがいい。そして日本の古くからの衣服と比べてみなさい。それに、インド人が食べているところを見てみるといい。そして日本人が食べているところを。インド人がお茶を飲むのを見てみるがいい。そして同じように日本人を……
日本人は単純なものから、祭典を、祝典を創りあげる。お茶を飲むことを彼らは祝典にし、芸術にする。
外側が非常に大事だ。着るものが非常に重要だ。関係が非常に大切なことなのだ。世界に、日本人ほど外を向いている人々は他に見られない。常に微笑していて幸せそうだ。インド人にとって彼らは浅はかに見える。真剣に見えない。
インド人は内向きの人々であり、日本人は外向きの人々だ。彼らは全く逆方向を向いている。
日本人は常に社会のなかで動く。日本の文化全体が心を向けるのは、いかにして美しい社会をつくり出すか、ということだ。どうしたら素晴らしい人間関係がつくられるかということだ。あらゆることに、どんな小さなものごとのなかにまでも、どうやったらそれに意義を与えることができるかを彼らは考える。
貧しい人の家でさえそれ独特の美しさをもっている。芸術的ですらあり、ユニークだ。豊富ではないかもしれないが、ある意味ではとても豊かだ。その美しさのゆえに、物の配置の仕方ゆえに、どんなちっぽけなものにも向けられる心配りのゆえに。窓はどこにつけようか、どんなカーテンをささいかけたらよいか? どこからどんなぐあいに、どの窓から月の光を入れようか? 些細な小さな事柄だが、どの細部も大切だ。
インド人にとってはどうでもいいことばかり。インドの寺院に行ってみると、窓が一つもないのがある。何にもないのだ。衛生観念も、空気、換気の気配りもない。何もない。
寺院ですら醜悪だ。何がそこにあろうが、汚物であろうがほこりであろうが、誰もかまわない。寺の真ん前に牛が寝そべっていたり、犬が喧嘩していたり、人々が祈っていたり、でも誰もかまわない。外の世界に対する感覚はまるでない。外側の世界には全く関心を寄せない。
日本は、外に対して深く関心をもつ国だ。まさに、もう一つの極端にある。こうして禅の樹全体が日本に移植され、そこで花を咲かせた。何千の色合をもった花を咲かせた。
花は開いた!
これは、もう一度起こらなければならないことだ。
私は、また禅の話に戻っている。
花は開いたのだから、それは、再びインドに帰ってこなければならない。それに、花は既に散ってしまったのに、日本は種子を生み出せないでいる。
日本では種子はつくれない。日本は内向する国ではない。だから、今ではあらゆることが外側だけの儀式になっている。禅は日本では死んでしまった。過去、確かに花を咲かせることは咲かせた。が、今ではそれは本で読むしかない。鈴木大拙やその他の人たちが書いた本をだ。
日本に禅を求めて行く者があるとしたら、空っぽの手で戻って来るしかない。今では禅はここインドにある。日本からは禅は消えている。あの国は花を咲かせるのに役立ちはしたが、今では花たちは消え、土の上に散り落ちた。そこにはもう何も残っていない。
儀式はまだある。日本人はとても儀式好きだから、儀式は今でも存在している。禅寺のなかでは、全て今もって同じようにつづけられている。あたかもそこにまだ奥深い禅スピリットがあるかのように。
しかし内なる寺院は空っぽで空虚だ。寺の主はどこかへ引越してしまった。神性はもうそこにはなく、あるのはただ虚ろな儀式だけだ。
そして、彼らは外向的な人々だからその儀式をつづけていくだろう。朝は五時に床を離れ――鐘が鳴るに違いない――茶室では茶を立て、僧堂では半眼で坐る。全て、そこにまだ禅スピリットが在るがごとく正確に行われるだろう。
だがそのスピリットは消失している。禅寺があり多くの禅僧がいるとしても、樹は既に開花した。そして種子はそこではつくり出せないでいる。
だからこそ、私はこんなに多く禅を語る。またしても、インドだけがその種子を生みだせるからだ。
世界全体は、一つの深い統一、深いハーモニーの内に存在する。インドは再びその種子に生命を与えることができる。
だが世界を見渡すと、いろんなことが変化してしまった。中国はもう可能性をもっていない。中国は外向的な国にみずからを変えてしまった。今では物が精神よりも大切とされている。そして現在では、意識の新しい潮流に対して自分を閉じている。
私にとって、もし将来どこかの国が種子のための土壌になりうるとしたら、英国がそうだと思う。
これはアメリカこそと思っていた人たちにとっては驚きかもしれない。いや、アメリカではない。今、世界で最もバランスの取れている国は英国だ。ちょうど、かつての中国がそうであったように。
種子を英国に持っていって蒔かなければならない。そこでは開花には至らないだろうが、大きな樹にはなるだろう。
イギリス的意識、それは保守的であって中間の道を歩み、自由思想でありながらけっして極端なところへは動かされない。常に真ん中にとどまっている気質、これが役に立つ。
こういうわけで、私は次から次へと英国人を私のまわりに落ち着かせている。が、これはけっしてビザの問題が理由ではない。なぜならひとたび種子の用意ができたら、私は彼らにそれを英国まで持っていって欲しいからだ。
それは、英国からアメリカに渡ることができる。そして、アメリカで花を咲かせることになるだろう。というのは、今のところ、アメリカが最も外を向いている国だから。
言っておくが、禅とは真に 稀 有 な現象だ。それは、まわりの情況全てが整い満たされない限り、起こり得ないものだ。
さて、この逸話を理解するよう努めてみなさい。これらの短い逸話はきわめて意味深い。禅者たちが言うには、人の実存の深みから湧き昇ってくるものは、言うことはできないが、示すことはできる。つまり、それを示唆する一つの情況を創り出すのは可能だということだ。
言葉ではそ れについて語ることはできないかもしれない。しかし、生きた逸話のなかでは可能になる。禅がこれほどまでに逸話的なのはこのためだ。
禅は、寓話のなかで生き、寓話のなかで指し示す。今まで、このように美しい寓話群を創り出した人たちは他にいない。スーフィの話がある。ハシッドの話がある。ハシッドの物語もある。もっとたくさんいろいろな話がある……が、禅のそれとは比較にならない。
禅は、ぴったりとふさわしいものを当てるコツを掴んで、表しえないものを表している。そして、あまりに単純なかたちで表されるので、あなたは見逃すことがある。あなたはそれを探し求めなければならない。暗中模索 しなくてはならない。
逸話そのものは、単純すぎて意味を捉まえそこなうこともある。複雑なところは全くないし、実際、思考など要求されない。むしろハートを開くことこそ必要だ。そうすればあなたにも理解できる。わかるだろうか?この小さな逸話が、禅の意義全てを語っていることが。
ある人が師 睦州
私たち人間は 毎日毎日
着たり食べたりしなければなりません
如
もしこの人が、同じことを仏陀に訊いたとしたら、答はけっして同じではなかっただろう。答は種子的思考から返ってきたことだろう。仏陀だったらこう言ったかもしれない。
全ては 幻 影
もっと目覚めなさい。どうやってそこから脱け出すかなどと考えることはない。どうやったら夢から脱け出せる?眼を醒
夢とは非現実のこと、どうやってそこから脱却することができよう? 奇跡といえば、そもそも人間が夢のなかに入りこんでしまったことが奇跡なのだ。そんなものは存在しないのに、人はそのなかに入ってしまった。そして今では、どうやってそこから脱け出そうかと求めて、頭を悩ませている。
入ったときと同じ方法で出てくるがいい。どういうふうに夢のなかに入ったのか? それが現実であると信じこむこと、これが、人が夢のなかに入りこむ方法だ。それが 現
仏陀だったらこのように言っただろう。
看
そしてそれによって、あなたはそこから脱け出ていたことだろう。
もし、中国の天才孔子が同じ問いを受けたとしたら ――この、外向的でも内省的でもないバランスのとれた思考の人、孔子だ――彼はこう言ったかもしれない。
そこから出る必要などない。これこれの法則に従うがいい。そうすれば、それを楽しめるようになる。
孔子だったらいくつかのルールや法則を与え、人はその法則に従わなければならないことになって、それでお終
人は、そこから脱け出る必要はない。人生を適正なやり方で計画づけていかなければならない。夢でさえ適正に計画しなければならない!孔子は言う。
たとえ夢のなかであろうと、もし人が不正を行ったとしたら、それについてよく熟考することが肝心だ。どこか眼が醒めている間に、正しい道を歩んでいないのではないか。さもなければ、どうして夢のなかで不正をなしえよう。何かを落ちつかせなさい、バランスを取りなさい。
これでは孔子に三千三百もの法則があったのもむりはない。
だが日本では、これは全く違った答になっていただろう。
仏陀にあっては、答は種子から来ただろうし、孔子だったら樹から来たことだろう。 睦州
もちろん、これらは同じ真理の内に根をもった異なった答。同じ 象
睦州は応えて言った
私たちは着 食べる
あまりに単純な答――ここで見失うのはいたって簡単だ。あなたはこう考えるかもしれない。
この男は何を言っている? まるっきりチンプンカンプン、ナンセンスだ。この人が 訊
私たちは着、食べる……
何を睦州は言っているのだろう? 何を示唆しているのだろうか? これは非常に微妙な示唆だ。彼は言っている。
私たちもまたそれをやっている。食べ、着る。しかし、私たちは、全くトータルに食べるから、そこに食べる者は存在しない。食べることが在るだけだ。私たちは全くトータルに、全身全霊をもって着るから、着る者は存在しなくなり、在るのは着ることそのものだけになる。
私たちは歩く、が、そこには歩く人はなく、ただ歩くことのみが在る。だから、そこから脱け出 ようと求めている そ れは誰なのだ?
この大きな違いに注意してみなさい。
仏陀であったら、それは夢なのだと言っただろう。この、あなたの食べること、あなたの着ること、あなたの歩くこと、それは夢だ、と。そして 睦州
睦州は言っている。自分をもちこむな、と。ただ食い、ただ歩き、ただ眠るのだ。そこから脱け出ようとしているそれは誰なのだ?そのエゴを落としてしまいなさい。それは、実在するものではない。
それに、あなたがそこにいないのなら、どうやってあなたは脱け出す? 歩くことが夢なのではなく、歩く者が夢なのだ。食べることが夢なのではなく、食べる者の方が夢なのだ。
そして、しばらくの間見てみるがいい。もしあなたが真に歩いているとしたら、そのなかに歩く者は在るのだろうか?
歩くことが起こるのであって、それは一つのプロセスだ。あなたの足が動く、手が動く、呼吸が増える、風があなたの顔を吹き 撫
そこには、真に、歩く者がいるだろうか?そのなかには誰かが坐っているのだろうか?それとも、ただプロセスが存在しているだけなのか?
もし目覚めたら、あなたはプロセスだけが存在するのだと解るだろう。
エゴは幻影、それはまさにマインドが生みだすものだ。
あなたは食べる、と、あなたは、そこに誰か食べる者が存在するに違いないと思う。なぜなら、ロジックではそうなるからだ。つまり、歩く者がいなくてどうやって歩けよう?食べる者が存在しないで、どうやって食べることができようか? そこに愛する者が存在しないで、どうして愛するということがありえよう? と、こうなる。
だが、あなたが愛したことがあるなら、そしてもし、そこに愛が真に存在する瞬間にまで至ったことがあるなら、あなたは、内側に愛する者はいなくなってしまうのを知っているに違いない。ただ愛だけが、一つのプロセスだけが、一つのエネルギーだけがある。しかし、内には誰もいない。
瞑想する――そこに瞑想者はいるだろうか?
瞑想が開花に至るとき、そして、あらゆる思考が消えるとき、一体誰がそのなかにいる? そこに誰か、思考は全て消えてしまった、と言っている者がいるだろうか?
もしそうだとしたら、その瞑想は、まだ開花するには至っていない。少なくとも一つの思考がまだそこにはある。瞑想が花開くとき、そこには誰も、それに気づく者さえいないはずだ。それを承認するような何者も存在しない。
はい、瞑想がついに起こりました、と言う者はありえない。はい起こりました、と言う瞬間、それはもう既に失われている。
そこに真の瞑想が在るとき、沈黙は広がり、さえぎるもの一つなく、ただ至上の歓喜が震えわたる。限界は全くなく、ただハーモニーがある。だがそこには、それを知覚する者はいない。そこには、はい、このことが起こりました、と言う者はいない。
だからウパニシャッドで言われているように、もしある人が、私は覚醒を得たと言ったとしたら、その人はまだ得てはいないことがすぐ分かる。このために 覚
実際、その人そのものが初めからそこにいない。食べることが夢なのではない。食べる者が夢なのだ。
焦点全体が、種子から花へと移り変わっているのがわかるだろうか?西洋人の多くが、禅を、禅仏教と呼ぶのはうまくないと思っているのはこのためだ。答えに大きな違いが感じられるからだ。
しかし彼らはまちがっている。
禅仏教は、絶対純粋な仏教だ。仏陀のそれをさらに純化し、仏教徒の観念をさらに純化したもの、最も本質的な、最も純粋なディヤンだ。意識の最高に純粋な開花だ。
中心がないままあなたは存在する。中心に、誰という何者もないまま人は存在する。
あなたはいる。それでいてなおかつ、あなたはいない。このことこそ、ティロパが強調する無我、アナータ、 空
睦州
私たちは着 食べる
彼の答えはこれで終り。
彼の答えは完全かつ完璧だ。彼はただ言う。私たちは着、食べる。そこには何の問題も見出せない。そこから出てくるべき何者もそこに見出せない。
内部には誰もいない。食べることが存在し、着ることが存在する。エゴは存在しない。
睦州は言っている。愚かな質問をするでないと。質問者はまた言った。私には、何のことなのか解りません。
彼は、睦州のところに、何らかの法則、何らかの戒律を求めてやってきたのかもしれない。どうしたら信仰深い人間になれるだろうか? どうやったら、食べるとか着るとかこんな 些
誰でもこの点に至る。もしあなたが少しでも聡明だったら、うんざりして倦怠を感じるこの時点に達せざるをえない。白痴と賢人だけが倦怠を知らない。聡明な人々なら当然うんざりする。
一体どうなっているのだろう? 毎日毎日、次の朝また起きるだけのために眠る。それから朝食、そしたら次は会社に行く。そして、これをやり、あれをやって。あなたは自分で知っている。また夜眠るためにこれらのことをやっているのだと。それからまた次の朝が来て、再び同じことの繰り返しが始まる。だんだんと人は、ロボットになったような感じを抱く。
もし、あなたが目覚めて気づいたら、ちょうど昔インドで人々が、こんな繰り返しを自分たちは無数の生にわたりつづけてきたのだと気づいたようにあなたも気づいたら、死ぬほどの倦怠感を覚えるのは当然だ。
インド人は、だから、どうやってそこから脱け出そうかと言う。この生と死の輪廻
何度も、何度も、何度も、吐き気がするほど同じことがつづく。この現象、えんえんとつづく生まれ変わりに気づいたからこそ、インドはうんざりしてしまったのだ。意識全体で飽き飽きしてしまったものだから、「いかにこれから脱け出るか?」にあらゆる努力がかけられるようになっていった。
この質問者が 睦州
ここから脱け出すのを助けてください、もうたくさんです。でもどこから逃げ出していいのか私にはわからない。毎日毎日食べたり服を着たり……どうやったらこの死んだようなルーティンから、この 轍
すると、睦州は応える。
私たちは着 私たちは食べる
睦州は多くのことを言っている。彼は言う。
そこには、脱け出すべき何者もいない。だから、もしそこに誰もいないのならどうやって退屈する? 誰が退屈するのか?
私だって、あなたがするのと同じことを全部やっている。朝起きて、シャワーを浴びて、食べて、着て、でも私は退屈しない。私は、永遠が終わるときが来ても、そのときまでこういうことをつづけていける。
なぜ、私は退屈しないのだろう?倦怠を感じないのだろう?
それは、私 がそこにいないからだ。だから一体誰が倦怠感を覚えることになる? もしあなたがそこにいないなら、誰がこれは繰り返しだと言うことになる?
朝は日ごと新しい。それは過去の繰り返しではない。いつの朝食だって新しい。瞬間、瞬間が新しく、新鮮だ。それは、早朝、草の葉の上に落ちる露の玉のように新鮮だ。
あなたは、その記憶のために、抱えこんでいる過去のために、連れ歩いている過去のために、退屈を覚える。新鮮な瞬間を、いつも過去を通して、ほこりっぽい過去を通して見るから倦怠を覚える。
睦州は今の瞬間を生きる。他の時間を持ちこんで、その瞬間と比較することはない。過去を運んでくる誰もそこにいないし、将来を思い 煩
そこに在るのは、生命のプロセスだけ、意識の流れだけだ。それは瞬間から瞬間へと動きつづける。常に、既知から未知へと、慣れ親しんだものから未知のものへと動いていく。
だから、そこから脱け出そうと頭を悩ませているのは誰だ?誰もそこにはいない!
睦州は言う。私たちは着、私たちは食う、それだけのことだと。私たちは、それを問題にしてしまわないだけだと。
問題が出てくるのは心理的な記憶のせいだ。あなたはいつも過去を持ちこむ。常に持ちこんでくる。比較し、判断し、非難するために持ちこんでくる。
私があなたに一輪の花を見せたとしても、あなたはそれを直接的には見ない。あなたは言うだろう。ああ、これは美しいバラですね。
それをバラと呼ぶ必要がどこにある?それをバラと呼ぶ瞬間、あなたが過去見たバラが全部そこに集まってくる。それをバラと呼ぶ瞬間、あなたはそれを他の花たちと比較した。身元確認をしたのだ、分類したのだ。
それをバラと呼ぶ瞬間、それを美しいと言う瞬間、あなたの美に関する観念が、バラの記憶が、想像が、全て入りこむ。
バラは雑踏で見失われる。このバラは雑踏で迷子になる。この美しい花は、あなたの記憶や想像や観念のなかで失われる。
こうなるとあなたはうんざりする。これもまた、他のバラと同じに見える。
違いは一体何か?
もしあなたに、この現象、このバラを、直接的に見ることができたら、もし新鮮な眼で、過去から空っぽになって、清明な意識、雲のかかっていない知覚で見ることができたら、扉をすっかり開け放って、言葉の存在しないところで見ることができたら、もし、この花とちょっとの間でも今こ こ に在ることができたら、そうしたらあなたにも、睦州がこう言うとき、それを理解することができるだろう。
私たちは着 食べる
彼が言っているのは、現在のなかで、どんなことでもトータルにやりなさい、ということだ。そうすれば繰り返しだとは感じなくなる。そして、あなたはそこにいないのだから、誰が過去を持ちこむ? 誰が未来を想像する?
あ なたが不在であることによって、そこから一つ異なった質の存在が起こってくる。瞬間、瞬間が新しく、水のように流れ、ゆったりと自然になる。人は、一つの瞬間から次の瞬間にただすべり移るだけ。ちょうど蛇が古い皮からすべり脱けるように、古い皮は後に残される。
蛇はけっして後ろをふり向くことはない、古い皮を持ち歩くことはない。目覚めている人も、一つの瞬間からもう一つの瞬間へとただすべって行くだけだ。露玉が草の葉の上をすべるように、何も持ち運ぶことなくすべる。
目覚めている人間には荷物がない。身軽に身一つで動いていく。そうすれば全てが新しく、問題など出てこない。
睦州
いったん問題がつくられたら、そのつくられるなかで、人は誤った一歩を踏み出すことになる。そうなったら何をしようが、最初の誤った一歩がそれを解決することを許さない。
もしあなたが、どうやったらエゴを落とせるか求めるとしたら、あなたは、解決などできない問題をつくり出したことになる。
たくさんいる先生方はあなたに教えつづけることだろう。どうやって解決したらいいとか、どうしたら謙虚になれるかとか、どうしたらエゴイストでなくなるとか。
しかし何も起こらない。謙虚さの内奥であなたはエゴイストでありつづける。いわゆる無我の境地の裏で、あなたは微妙なエゴを持ち歩く。
いいや、真に知る者は、あなたの問題解決の助けなどしない。彼らは、ただどこにエゴがあるかと問うだけだ。彼らは、実際どこに問題があるのかと訊くだろう。そして、あなたがその問題を理 解 するよう助けてくれる。解決するためではない。というのも問題自体がまちがっているのだから。
もし質問が正しくないとしたら、答も正しくなりえない。質問自体が何か間違ったものに根ざしていたら、どんな答が与えられても無意味になる。その答は、もっと多くの間違った質問にあなたを引っ張りこむ。そうなったら悪循環だ。
哲学者が狂っていくのはこういう次第だ。彼らは、問いの間違っているのを見もしないで答を出す。そして、その答がもっと多くの問いを生み出す。どんな答も、何一つ解決しない。
では、どうしたらいいのか? 禅ではどう言っているのだろう? 禅は言う。
問題そのものを見ることだ。そこに答が隠されていると。問いを深く見きわめることだ。もしその見きわめが完璧だったら、その問いは消えていく。
答えられた問いなど今まで一つとしてない。ただ消えていくだけだ。そしてそれが消えるときには、痕跡
睦州
問題はどこにあるのだ? 私たちもまた食べるし、着る。しかし、私たちはただ単純に食べ、着るだけだ。何だってそれを問題なんかにするのかね?
睦州は言う。
生をあるがままに受け容れなさい、問題などつくり出さずに。人間は食べなければならないのだ。食べるがいいではないか。腹が減る。誰がそうさせるわけではない。腹がすいたら満たされなければならない。満たしなさい。そこから問題をつくり出すことはない。
人々が毎日私のところへ来るときには、まさにこれと同じ状況だ。みんな自分たちの問題を持ちこんでくる。だが、私は一つとして問題に行き当たったことはない。問題など何もないからだ。
あなたはまず問題をつくり出し、それからそれへの解答を欲しがる。あなたに答えをあげる人達もいるだろう。だがその教えは小さいものだ。一方、あなたの問題に洞察を与える人たちがいる。これは大いなる教えだ。
小さな教えは強制的な規律を導き出す。
しかし大いなる教えは、人をゆったりと自然にさせる。
睦州は言う。
私たちは着 食べる
しかしこの質問者には理解できなかった。もちろん、こんなに単純なことは理解するのがむずかしい。
人は複雑なことはなら理解できる。だが、単純なことは理解できない。なぜなら、複雑なことは分解して分析できるし、論理的に取り組むことができるからだ。ところが、単純なことはどうやればいい? 細かく切り 刻
この質問者には理解できなかった。しかし、それでも尚、私はこの人は非常に誠実な人だと思う。なぜなら彼はこう言ったからだ。私には解りませんと。
世のなかにはたいへん複雑な人たちがいて、彼らは理解したことを示すために、首を振ってうなずく。
これは非常に愚かな人たちだ。誰も彼らを助けることはできない。なぜならこの人たちは、理解したフリをしつづけるからだ。彼らには、「私は解りません」と言えない。もし言ったら、自分がとてもバカな感じがしてしまう。
彼らはフリをする。こんな単純なことを理解しないなんてありえないと、彼らは理解したことを見せつづける。そして今や、ますます複雑なことになる。初めの段階からまず問題などなかったのに、ところが次の段階で彼らは答えを理解してしまった。問題は存在していない、が、今では彼らはその問題に関する知識を得てしまった。解ります、と言うのだから。
彼ら自身ますます困惑していく。内側はもうゴタゴタだ。こういう人たちが私のところへ来ると、私にはその内側が見える。全くのゴチャゴチャ、 雑炊
この質問者は誠実な人だったに違いない。彼は、私には解らないのですが、と言っている。これは、真の理解へ向かう第一歩として良いことだ。
もし解らないとしたら、あなたは解ることができる。
可能性は開いている。あなたは謙虚であって、むずかしさを認めている。あなたは自分が無知であることを認める。これこそ、知るということに向かう、真の理解へと向かう第一歩になる。自分は理解していない、と認めることが。
少なくともこの質問者はここまでは理解していた。これは大きな一歩だといえる。
睦州は応える。もし解らないのなら、お前も衣服を着、食物を食べるがいい。
睦州は慈愛深い様子を見せない、が、実は非常に慈悲豊かだ。彼はこう言っている。
お前には理解することはできない、というのも、マインドではけっして理解することはできないからだ。マインドはとんでもない非理解者だからだと。
マインドは無知の根源そのものだ。なぜマインドには理解ということができないのだろう? それは、マインドは人間存在のほんの小さな一部分でしかないからだ。部分だけで理解することは不可能だ。全体だけが理解することができる。
常にこのことを憶えていなさい。あなたの存在全体だけが何かを理解できるのであって、けっして部分ではできないことを。頭だけでも、心だけでもだめだ。手だけでも、足だけでも、理解ということはできない。あなたの全的な、トータルな存在があって初めて理解に至る。理解とは全体によるもの、そして誤解とは部分によるものだ。
部分は常に誤解する。なぜなら部分は全体であるかのようなフリをするからだ。これが問題の全貌だ。
マインドは自分が理解の全てだと主張するが、マインドは一部分にすぎない。
眠りに落ちるとき、あなたのマインドはどこにいる? 肉体はマインドなしで存続する。身体が食物を消化するとき、そこにマインドの必要はない。脳を全部取り外しても身体は存続する。食物を消化しつづける。
最近科学者たちが感づいてきたことに、マインドとは一つの贅沢品だということがある。身体はそれ自身の智恵をもっていて、マインドが何を考えようが気にもかけない。
あなたも観察したことがあるかな? マインドが偉大な知覚者を演じつづけていることを。おまけに、身体のなかの重要な事柄は自分に関係なく、つまりマインドなしで続けられていることを、自身はこれっぽっちも感じていないのだ。
人がものを食べる。身体はべつにマインドに消化の仕方を訊きはしない。それは非常に複合的なプロセスだ。食物を血液に変えるのは簡単ではない。だが身体はその仕事をつづけ、血液へと変化させていく。それはとても複雑なプロセスだ。何千という数の要素が関わり合っている。正しい割合で、身体はいろいろな液汁を分泌する。それらは食物を消化するのに必要なものばかり。
それから、身体は自分に必要なものを吸収し、要らないものを残して排泄物として出す。身体のなかでは毎秒いくつもの細胞が死んでいる。身体はそれらを血液の流れから取り出して捨てている。
ホルモンやビタミン、その他にも身体の必要とするものは限りなくあるが、その需要に応じて身体は外界からそれらを得る。身体がもっと酸素を必要とする場合には呼吸が深くなるし、要らないときにはふつうに戻っていく。こうして全てがつづけられる。
マインドはこの現象全体のほんの一部だ。しかもそれほど本質的な部分ですらない。マインドなどなくても動物は存在する、樹々は存在する。それも見事に美しく存在している。しかしマインドはたいへんな見せかけやだ。マインドは、自分が基盤であり土台であり、頂点、絶頂であると見せかけているにすぎない。そしてその見せかけをつづけていく。
あなたも自分のマインドを観察してごらん。そうすればわかってくる。この見せかけやを通じて理解したいかね? それこそ、あなたのなかの唯一誤った心得だ。
睦州は何と言っている? 彼はこう言う。
もしお前に理解できないなら、ただ衣服を着、食物を食べなさい、と。理解にこだわることはない。お前も私たちと同じようになりなさい。食べる、着る、そして理解しようなどと考えないことだ。その努力そのものが、理解しようとする動きそのものが、誤解をつくり出す。そんな必要は全くない。単純に生き、ただ在ればいい。
これが睦州の言っていることだ。食べて、着て、ただ在る。
理解のことなど忘れてしまうがいい。理解する必要はない。もし樹々が何にも理解しなくても存在できるなら、あなただって理解などする必要はない。
もし、〈実存全体〉が、理解などということなしにただ在るなら、何であなたがそんなことに関わるのだ?どうしてそのちっぽけなマインドを持ちこんで問題をつくりあげる?リラックスするがいい。そして、ただ在ればいい。
睦州は、理解は 全体
そして、理解しようとはしないでいなさい。なぜなら理解への努力そのものが問題をつくり出すからだ。問題が出てきたらあなたは分解する。問題をつくり出してはならない。ただ在りなさい。
あなたに試みて欲しいと思っていることがあるのだが、いつかやってみてほしい。
いつでもいい、三週間ほど山のなかに入って、ただ在る。ただそこにいるのだ。あれこれ解ろうとしないで、ただ自然にゆったりと在りなさい。
眠りたいと感じるときには眠るがいい。食べたくなったら食べるがいい。もし食べたくなかったら食べることはない。緊急なことは何もないのだから、全てをただ身体にまかせなさい。
マインドは問題の創造主だ。それは、身体が食物を必要するときに断食だと言ったり、ときにはもっと食べろ、おいしいじゃないか、と言ったりする。身体の方が、もうたくさんだ、待ってくれ、と言っていても、もうムリしてくれるなと言っていてもだ。
あなたは、 全一
私は、マインドを切り落とせ、と言っているのではない。そんなことをしたらそれもまた不自然だ。マインドも部分の一つ。それは、自身の居場所を全体の割合に応じて占めていればいい。だが、独裁者になることを許してはならない。
マインドを独裁者にしてしまうと、それは問題をつくり出す。そして、解決や答を探し出す。そうなったら答そのものがもっと問題をつくりあげる。それからはもう、どんどん問題を抱えていって、最後には狂人病院へ行き着く。
マインドの終着駅は狂人病院だ。早く行く人は当然ながら早く着く。ゆっくり行く人もやはり遅かれ着く。そして、誰も彼もみんな列を作って並んでいる。
マインドの終着駅は狂人病院だ。なぜなら、一つの部分が全体であるかのようなフリをすることこそ、既に狂気だからだ。正気の沙汰ではない。
それに、あらゆる宗教があなたの内部を分断するのに役立ってきた。どの宗教もマインドを助け、それがより独裁的になるようにさせてきた。彼らは言う。肉体を殺せと。そこで人は、自分が何をしているのか解らないまま身体を殺し始める。
マインドと肉体と魂、これらは全て一緒に存在している。一つの共存のうちにあって一体となっている。これらを分断してはならない。分断することは偽りであり、政治的だ。もし分断して区分けすればマインドが独裁者になる。なぜならマインドは、身体全体のなかで最もはっきり発言することができる部分だからだ。それ以外のことは何もできない。
人生においてもまた似たようなことが起こる。他者よりはっきりした発言力をもつ人は、指導者になっていく。もしその人が立派な話のできる人だとしたら、雄弁家であるとしたら、もし言葉をうまく操作できるとしたら、その人は指導者になる。その人が指導者として有能だからというより、説得力あるセールスマン、明快にものを言える人だからだ。
雄弁家が世界を指導しているのはこのためだ。もちろん彼らは、世界をより深い混迷へ導いていく。というのも、彼らは真に人の上に立てる者たちではないからだ。彼らは話すこと以外に何の特質もない。だからどの国の国会も、談話室以外の何ものでもない。
人々は話し、話しつづける。そしてそのなかで、他人より上手に言葉を 操
トータルに在る、ということの質はこれとは全く違う。それは明快に発言できるかどうかの問題ではない。 むしろそれは、あらゆる部分にそれぞれに応じた分配をするということだ。ハーモニー(調和)の問題だ。トータルに在ることで、生は調和の取れたリズムを与えられる。全て、その生の内に存在するものが一体になっていく。
そうなったらマインドもまた美しい。そうなれば、マインドはあなたを狂人病院に引っ張ってはいかない。そうなれば、マインドもより偉大なマインドになる。マインドが光明になる。
あなたの全体は一つの全体として存在する。あなたは自分を分割してはならない。あなたの智恵を分割せずにおくこと。これこそ睦州の言っていることであり、禅とはまさにこのことだ。
これだからこそ私は、禅とは稀有な現象だと言う。これほど偉大な開花に達した宗教は他にない。禅において、理解とは 全
あなたは食べ、眠る。だが、そのなかで自然で在りなさい、トータルにその内に在りなさい。そして自分を分割してはならない。マインドと肉体、また霊魂と物質、そういう分割はやめなさい。分割とともに葛藤や暴力が起こってくる。分割することは数限りない問題を引き起こす。
それに対する解答などない。唯一答えとしてあるのは、再び全一になるということだけだ。そして、全てをその自然の 全一性
マインドもそこにあるだろう。だがその機能は全く違ったものになる。
私だってマインドを使う。こうして私はあなたに話をしているが、当然マインドが必要になる。コミュニケーションのためにはマインドは必要だ。
実際、マインドとはコミュニケーションのための一つの装置としてある。記憶のためにマインドは必要だ。マインドはコンピューターなのだから。
しかし在 るためには、あなたの全体が必要だ。ボディのなかでは――ここで私がボディというとき、あなたの全体を意味している――身体、思考、魂、全てが、それぞれの機能をもっている。
何か 掴
私が手を使うときには、私の全体がこの手を支援している。この手は全体に対立して使われているのではない。全体の協力を得て使われている。足を使って歩くときには、この足は全体によって、全体と協力して使われる。実のところ、これらの足は機能しているにすぎない。全体のために歩くという機能、足自身のために動くのではない。
私があなたに話をする。何かを伝える。この場合には、私は私の全体のためにマインドを使う。私の存在全体のなかに何かがあり、それを伝えたいときには私はマインドを使う。
私は手も使うし、仕草をするし、眼も使う。全て、全体がそれらを使っている。
全体が最高者としてとどまり、全体が主人としてとどまる。部分が主人になると、人はばらばらに分裂する。そうなったら人の一体性は失われる。
睦州
もし解らないのだったらそれでもいい。心配することはない。お前は帰って、ただ着るものを着、食べるものを食べればいい。
私は、その質問者が実際何をしたのかは知らないが、私もまたあなたに言う。
もしあなたが理解したのだったら、それはそれで素晴らしい。もし理解できないのだったら、行って、着るものを着て、食べるものを食べなさい。なぜなら理解は、あなたのトータルな存在の影として 顕
生を、 全一
私があなたにサニヤスを与えるのはこの世のなかで生きてもらうためだ。可能な限りトータルに生きるようにということだ。世のなかでトータルに生きることで、あなたはそれを超えていく。あなたもいつか、突然、自分が世のなかに在りながらしかもその一部ではないことを知るようになる。
私はあなたに全く新しいサニヤス(世捨て)の観念をもたらす。昔のサニヤスは、逃避せよ、全てを棄てよ、ということだった。だが私はあなたに言っておこう。逃避する者は臆病者だと。
逃避する者は、トータルに生きることのできない者、存在全体で生きようとしない者だ。私は言う。逃避する者は生命の不在者たちだと。それはあなたの生き方ではない。
あなたは自分の〈生〉を全面的に生きなさい。自分の〈生〉を、可能な限り全 一性
聖なる者の質は、人が勇気をもって生きるときに現れる。怖れることなく、希望することなく、欲することなく生きるときに。
ただ瞬間から次の瞬間へとすべり行くだけだ。完全に新しく、新鮮なまま……
これがあなたにとってのサニヤスの意味だ。サニヤスとは、生を全面的に瞬間から瞬間へと生きること。自分の側からは何一つ条件を付けずに、生命をあるがままに、起こるがままに、まかせて生きることだ。
もしあなたにこのことだけでもできたら、生命は超越を許すだろう。
谷の底にとどまりながらあなたは峯となる。そうなって初めて、生は美しいもの、ビューティフルなものになる。
もし頂きに登ったら、谷は失われる。谷には谷の美しさがある。だが、谷底にとどまるだけだったら頂きは失われる。頂きには頂きの美しさがある。
私はあなたに谷と頂きの人間になってほしい。二つともの人間に。谷にあって頂きとなるのだ。そうなれば禅とは何であるか、あなたにも理解できるだろう。











