マインドフルネス:その由来・歴史・効果・可能性

マインドフルネス:その由来・歴史・効果・可能性

目次

1.マインドフルネスとは

言葉の由来・意味

1-1-1英語圏での言葉の意味

マインドフルネス(Mindfulness)──見ておわかりのとおり、
むろんこの言葉は英語です。

「Mind(マインド)」は、日本語にするなら「心」に当たる言葉ですが、
ゲルマン祖語 mundiz(思考;記憶)→men-(思考する)が語源だそうです。

「心にかかる、心がけること」がこの単語の中核的な意味になるようです。

mental(心の)、mention(言及する)、remind(思い出させる)あたりが、
同じ語根から派生した近縁の言葉として挙げられます。
(多産な語根なので、周辺の派生語はたくさんあります。)

マインドフル(mindful)という形容詞があります。
これは「mind」に「〜に満ちた(full)」という意味を表す形容詞接尾語を
つけたもので、14世紀中盤から「よく覚えていること」という意味で
使われるようになったようです。
次第に「心をとどめておく」「心を配る」「気づかう」といった意味も
持つようになりました。
16世紀には現在とつづりは違いますが名詞としても使われたようです。

つまり、英語の「マインドフル(mindful)」は、配慮するという意味の
「Mind」に満ちている状態を表す形容詞だということになります。

「マインドフルネス(Mindfulness)」という名詞は、
形容詞「マインドフル(mindful)」に、形容詞を名詞化する接尾辞
「ness」を付けたものです。
(「-ness」という接尾辞は、形容詞に付加して、「の状態のもの」、
「の性質のもの」のような名詞を作ります。)

「マインドフルネス(Mindfulness)」という名詞がもつ
英文脈の中での語源的意味合いを見てきましたが、
では「マインドフルネス(Mindfulness)」という名詞は、
このような英文脈の世界から自然発生的に生まれた言葉なのかというと、
じつはそうではありません。

ここまで蛇足とも見える語源の話ばかりしてきたのは、
この「マインドフルネス(Mindfulness)」という名詞の中に、
この言葉を生んだ西洋文化の土壌と、
この土壌にこの言葉を通じて移植されようとしたもの、
つまり「マインドフルネス」と英訳された言葉が本来担っていた意味合いの
違いが、見事に言語化され、象徴的に織り込まれていると思われたからです。

西洋は十全な人間的気遣いが、ある意味で人の心が達しうる
最も公平で健全な状態として考えられていたのかもしれません。
それに対して東洋には、人間的気遣い・配慮とは、どこまで行っても、
ある種の偏りが不可避的に伴う不健全なものであり、
人間的計らいの欠如、想念の欠如こそが願わしい、という理解が
あったのかもしれません。

1-1-2仏教用語の翻訳語の意味

「マインドフルネス(Mindfulness)」という言葉はもちろん英語ですが、
この言葉が英語圏で使われはじめたのは仏教用語の翻訳語としてでした。

 マインドフルネス(mindfulness)という用語は、
 仏教の重要な教えである中道の具体的内容として説かれる八正道のうち、
 第七支にあたるパーリ語の仏教用語サンマ・サティ(Samma-Sati、正念、
 正しいマインドフルネス)
のサティの英訳である。
 サンマ・サティは「常に落ちついた心の行動(状態)」を意味する。

 
 出典: ウィキペディア/マインドフルネス

以下、 フリー百科事典「ウィキペディア」の記述や
藤井修平さんの研究論文なども参照させていただきながら、
簡単にその経緯をご説明します。

1950年代に「禅ブーム」を巻き起こした日本人の禅匠
(鈴木大拙、鈴木俊隆、前角博雄といった方々)は、
マインドフルネス(mindfulness)という言葉はほとんど使わなかったようです。

 鈴木俊隆の『禅マインド ビギナーズマインド』では、
 「私たちの思考が柔らかいとき、それを不動の思考と呼びます。
  このような思考はいつも安定しています。
  それをマインドフルネスと呼びます。

  あれこれと分けられた思考は、本当の思考ではありません。
  心に集中がなければなりません。それがマインドフルネスです」
 と述べられている。

 藤井修平「マインドフルネスの由来と展開」より

西洋世界(まず米国)に、
マインドフルネスという言葉を広く社会的に認知させるきっかけを作ったのは、
このマインドフルネスこそが仏陀の教えの中核であると位置づけていた
上座仏教の僧侶たちでした。

 近年の西洋におけるマインドフルネスの流行は、
 1965年にアメリカで移民国籍法が成立してアジアからの移民が増加した
 ことを背景に、
ドイツ生まれのスリランカ上座部仏教僧ニャナポニカ・テラ
 (英語版)や
ベトナム人の禅僧ティク・ナット・ハンといった僧侶たちが、
 マインドフルネスが仏教の中心であると説き、英語でマインドフルネスに
 関する著作を
多く書いたことに始まる。

 出典: ウィキペディア/マインドフルネス

彼らが伝えたスリランカ・東南アジアの上座部・大乗仏教の影響を受けて、
ジャック・コーンフィルドとジョゼフ・ゴールドスティーを創立者として、
1976年に米国発の組織「インサイト・メディテーション協会」が生まれます。

ここで学んだマサチューセッツ大学医学部の分子生物学者である
ジョン・カバット・ジンが「マインドフルネス(mindfulness)」という言葉を
西洋世界に大きく普及させる新たな流れを創出するわけです。

1-1-3「sati」の訳語「mindfulness」

仏教用語としての「マインドフルネス」の原語はパーリ語の sati です。

 パーリ語でサティ(巴: sati、梵: smṛti:スムリティ)とは、
 特定の物事を心に(常に)留めておくことである。
 日本語では念(ねん)や、気づき、英語ではマインドフルネス(mindfulness)
 などと表現する。

 漢訳で念。仏教の実践において正念(しょうねん、sammā-sati)とは、
 八正道(はっしょうどう)の一つとして重視される。
 
 出典: ウィキペディア/サティ

ドイツに生まれ、イギリスに帰化したインド学者(サンスクリット文献学者)で
仏教学者のフリードリヒ・マックス・ミュラー(1823年- 1900)の翻訳では
この「sati」に「watchfulness」の語が当てられていたようです。

「sati」の語が指し示す潜在的意味内容からすると、
この「watchfulness」の語の方が、あとあとの意味の深化に耐えうる
という意味では、矛盾がなかったかもしれません。

しかしその後、1881年にロンドンで「パーリ聖典協会」を設立した
イギリス人仏教学者のリス・デービッズがこの「sati」の訳語として
「mindfulness」を用いると、この訳語が普及することとなりました。

たしかに、英語の「mindful」という言葉は
「(対象物を)心に留めている」「(対象に)気を配っている」状態を
表す言葉ですから、「特定の物事を心に(常に)留めておくこと」を意味する
「sati」の訳語としてその名詞形の「mindfulness」が適切でないとは言えません。

ただ「sati」の訳語として「mindfulness」が定着したことによって、
仏陀の教えが「mind(想念)でいっぱいになること」、
「(心の)計らいで満たされること」を意味するかのような語形上の
イメージが暗黙裡に想定されてしまうと、「mindfulness」の届く範囲に
制限を加えてしまう可能性はあるかもしれません。

「mind」はあくまでも人間の心、想念、思考を表すわけですから、
どれほど「mindful」が完璧になっても、
それが人間を超えて拡大してゆくことはできそうもないからです。

その意味では「watchfulness」という訳語のほうが、
人間を超えて「watchfulness」が広がってゆく潜在可能性を
暗示することもできたかもしれません。

1-2マインドフルネスの二つの流れ

1-2-1治療法としてのMBSRとMBCT

1976年、
米国マサチューセッツ州に創立した「インサイト・メディテーション協会」で、
ジャック・コーンフィルドとジョゼフ・ゴールドスティーンは
上座部仏教のヴィパッサナー瞑想を教えました。

ここで二人のもとで瞑想を学んだ学生の中に、
マサチューセッツ工科大学医学部の分子生物学者ジョン・カバット・ジン
がいたわけです。

1966年から禅・ヨーガを実践していたジョン・カバット・ジンは、
1970年代初頭、マサチューセッツ工科大学(MIT)で
分子生物学の博士号を取得します。
彼は同MIT大学医学部で解剖学と細胞生物学を教えていましたが、
1979年、その医学部内に慢性の痛みを持つ患者を対象とした
「ストレス低減センター:マインドフルネスセンター
(Center for Mindfulness Program)」を開設し、
同大医学部教授となります。

カバット・ジン博士自身は国際観音禅院の崇山行願師に師事した方であり、
また2012年に日本に訪れた際には、
基本理念は道元禅師の曹洞宗だと明言しているそうです。

しかし、「ストレス低減センター」で慢性の痛みを持つ患者を対象とする
治療法として「MBSR:マインドフルネスストレス低減法
(Mindfulness-based stress reduction)」を米国国内で普及してゆくには、
MBSRからは宗教色を払拭しておいたほうがいいと考えたようです。

それは米国社会で宗教が果たしている社会的機能を考慮すれば、
無理からぬ判断ではあっただろうと推測されます。
もし「マインドフルネスストレス低減法」が仏教由来の治療法だとなれば、
宗教・宗派コミュニティーの中で暮らすアメリカ社会の大部分の人々に対して、
最初から治療法としてのMBSRの門戸を閉じるに等しいことだったでしょう。

博士が一般向けにMBSRの実践を解説した著作
『マインドフルネスストレス低減法(Full Catastrophe Living)』では、
マインドフルネス瞑想法は、
「アジアの仏教にルーツをもつ瞑想の一つの形式」を基本としている
と述べるにとどめ、マインドフルネスという根本的考え自体が誰の教え、
どのような文献に由来するかについては一切触れませんでした。

たしかに、
特にスピリチュアルな興味をもって来院するわけではない一般のアメリカ人に、
ストレスや慢性痛の治療法としてMBSRを広げようとするなら、
治療への敷居を低くするためのそのような選択は、
妥当かつやむを得ないことだったと思われます。

そして実際、このMBSRは、
「ストレス低減センター」を訪れるストレスに悩む人々だけでなく、
心臓発作や腰痛、不眠症など肉体的な痛みと、精神的な痛みを抱える
両方の患者に対して確実な改善効果を上げることになってゆくのです。

1990年代には、カバット・ジン博士の指導のもと
「ストレス低減センター」でツインデル・シーガル、
マーク・ウィリアムズ、ジョン・D・ティーズディールといった研究者が、
MBSRの技法と認知療法の技法を組み合わせて、
寛解期のうつ病患者を対象に「マインドフルネス認知療法
(Mindfulness-based cognitive therapy:MBCT)」を開発します。

MBCTは当初、
うつ病の再発予防のためのプログラムとして開発されたものですが、
現在では、うつ病の再発予防を超えた多彩な領域での効果が実証され、
その応用範囲が拡大しています。

例えば、より一般的な効果として、MBCTは
・ポジティブな感情を増す、・ネガティブな感情を減らす、
・人生のゴールの明確化を助ける、・恐怖や不安を適応的に調整する
といった効果が示されています。

こうして、「マインドフルネス」という言葉は、
この「MBSR」「MBCT」といった臨床心理学分野の療法をつうじて
アメリカ社会に急速に認知されていきました。
いまではその範囲を拡大して、企業研修、教育分野、軍隊、刑務所など
ますます活動分野を広げています。

おそらく、
「マインドフルネス」という言葉を知っているアメリカ人の大部分は、
これをアメリカ始発の言葉ないし治療方法と思っていることでしょう。

実際、「マインドフルネス」という言葉は、
その経路をつうじてアメリカ社会に大衆化していき、
いまではインターナショナルな言葉となったわけです。

1-2-2近年のマインドフルネスの流行

人間の不調と病が大なり小なりストレスから発生することに異論はないでしょう。
ストレス発生の機序はまだ科学的研究がはじまったばかりの分野です。

ただし
前世紀に始まったIT(情報技術)革命で人間社会のあり方に大変革が起こり、
これまでの人類史の集積である現在の人体の神経系・循環器系・免疫系などが
かつて経験したことのないストレスを受ける結果になっていることも
確かでしょう。

従来に比べて科学技術も高度に発達し、
経済的に豊かに、便利で快適な生活が実現する一方で、
極端な格差社会が発生しており、「ストレス社会」の誕生とさえ
言われています。

高まる一方の競争社会、管理社会的傾向に加え、
テクノストレス(デジタルストレス)とも呼ばれる
未経験のストレスに晒され、それが原因で多くの人々が
“くつろげない”という意味での「こころの病」に罹っていると言えます。

以上に加えて、物質的に豊かになった多消費社会のなかで起こっている
急速な高齢化現象があります。

いわゆる先進諸国では医学の進歩で平均寿命が延びたために、
従来ならごくわずかの生存例しかなかったような高齢者が
普通に生活を続ける社会になりました。
この高齢者たちが直面する生活上の問題というのは、
人類がこれまで体験してこなかったものです。

それには、高齢化にともなう孤独や家族との軋轢、死への不安
といった精神的負担や、種々の身体的障害がつきまといます。

これらすべての要因が、同時多発的に現代社会に発生して、
現代社会に生きる人間の心と体は、かつて経験したことのない
ストレスに晒されることになったわけです。

ジョン・カバット・ジン博士主導で
1970年代初頭マサチューセッツ工科大学(MIT)の
「マインドフルネスセンター」で開発された
「MBSR:マインドフルネスストレス低減法」と
「MBCT:マインドフルネス認知療法」は、
まさにこのような状況の中に誕生した心理療法でした。

しかもカバット・ジン博士は、
この「MBSR」から完全に宗教色を除き、
これを純粋なメンタルヘルス対処プログラムとしてアメリカ社会に
登場させたのでした。

このような準備の上で、「MBSR」、「MBCT」は心理療法
および認知科学療法という科学としてのエビデンスを蓄積して
いったのでした。

時を同じくした最近の脳科学の急速な進展で、
測定機械の精度が格段に上がってきたため、
瞑想の効果というものも身体的・精神的の両面に於いて
検証可能になってきました。
身体面では、免疫力の改善、血圧の低下、血中コレステロール、
血糖値の低下などが検証され、交感神経と副交感神経の
バランス調整などの効果が実証されるようになりました。

また精神面では、緊張・うつ状態の緩和、不安の減少、
ストレス耐性の向上が実証されています。
脳機能面では、瞑想がストレス軽減や能力開発などにも役立つことが、
科学的なエビデンスをともなって着々と実証されはじめました。

これまで明確に言語化されずに
企業社会のなかで鬱積していた潜在的需要が、
ここで一挙に「メンタルヘルス」という言葉を中核にして、
時代の要請としての大きな姿を現すことになりました。

しかも場所はマサチューセッツ工科大学(MIT)という
米国社会の一つのシンボル的な最先端スポットです。
この新しい動きが企業エリートたちの耳目を集めないはずがありません。

2014年には『TIME』誌が「マインドフルの革命」と題した記事を載せ、
「マインドフルネスストレス低減法」を含めた
マインドフルネス技法への注目が集まっていることを報道しました。

「メンタルヘルス」市場はたちまち企業社会のなかでの
ひとつの最先端市場として、その大きな姿を現しはじめました。

いまや「マインドフルネス」は
Google、Facebook、Yahoo!、ゴールドマン・サックス、フォードなどの
大企業が社員研修の一環として取り入れており、
その流れの中で心理療法・認知科学療法としての「マインドフルネス」は、
世界中で受け入れられるにいたりました。
日本企業でも、Yahoo、リクルート、トヨタ自動車などの会社が
研修に取り入れています。

日本では、2016年にNHKでストレスの対処技法として
特集が複数回放送されるなど、
近年メディアで取り上げられる機会も増加しています。
2016年後半に、Apple社のスマートフォン「iPhone」でヘルスケアアプリに
「マインドフルネス」のカテゴリが追加されたのを契機に、
急速に一般に浸透しつつあると思われます。

1-2-3脱宗教化で得られるもの

1979年、慢性疾患の治療法として
「マインドフルネス・ストレス低減法:MSBR」を開発した
MITのカバット・ジン博士は、
患者たちの療法に対する心理的抵抗を回避するために、
この「MSBR」を純粋な心理学的療法として提示しました。

「人種の坩堝」とも呼ばれる代表的多民族国家であるアメリカ社会では、
人々のアイデンティティーは
当人が属する宗教コミュニティーに依拠する側面が強く、
そのぶん「宗教的医療」に対する抵抗が他の国々より強いと考えられます。

たとえば、日本国内に住む一般的日本人の場合、
西洋医学と代替治療の間にはそれなり評価の差はあっても、
代替治療の起源が中国由来の漢方であるか
インド由来のアーユルヴェーダであるかには、
それほどの差はないかもしれません。

しかし多民族国家アメリカでは、その治療法が宗教的起源をもつ場合、
自分が属する宗教・宗派以外の起源をもつ治療方法を受け容れることは、
当人が属するコミュニティーとの関係を考えれば、
ほとんど不可能になるのだろうと想像されます。

カバット・ジン博士自身は、
ティク・ナット・ハン経由の上座仏教、韓国系の観音禅、
加えて曹洞宗やヨーガ、ヴェーダーンタ哲学など
幅広い教えの影響を受けたようですが、
治療法としての「MSBR」では
そのような宗教的背景はいっさい伏せられています。

博士は
「エビデンスに基づいた主流の医療としてMBSRを提示する際に、
仏教徒や『ニューエイジ』とみなされることはリスクであるため、
その意図は隠さざるを得なかった」と述べておられます。

こうして西洋世界に受け入れられやすくするために
「MBSR」を価値中立的なものにして、
「マインドフルネス」が一般の心理療法として位置づけられたことで、
患者たちの治療実験データはすべて蓄積可能になり、
科学的研究・分析データとすることができるようになりました。

もうひとつ、
「マインドフルネスストレス低減法(MSBR)」や
「マインドフルネス認知療法(MBCT)」が
価値中立的なデータとして扱える科学となることで、
「マニュアル化」も可能になりました。
その結果、厳しい訓練を積んだ専門家でなくとも
教えることができるものになったわけです。

これはMSBRとMBCTの飛躍的拡大を可能にするものでした。
例えて言うなら、これまで線でつながってきていたものが、
一挙に面で拡大できるようになったようなもので、
「マインドフルネス」の大衆化をもたらす大きな要因となったと思われます。

そして、事実、この配慮のゆえに、
仏陀の教えを起源とする「念(マインドフルネス)」は
熱狂したスピードの都会生活のストレスに対処する有効な方法として
米国社会のメインカレントに普及する結果になり、
指導を受けた患者たちの瞑想実践は、その実践努力に見合った
ストレス低減の恩恵を受けられるようになったわけです。

1-2-4脱宗教化で失われるもの

しかし、その一方で、
この西洋世界で大衆化した「マインドフルネス」からは、
仏陀の元々の教えの「念:sati」にあった本来の意味合いの一部、
ある意味で本質的部分が、抜け落ちることになったのも事実です。

もし、その抜け落ちているものに注目する立場からするなら、
カバット・ジン博士が
「マインドフルネスセンター」で蘇らせた「マインドフルネス」は、
仏陀の教えの「念:sati」が目指していたものから
その最上段を取り外しただけではなく、
方向性そのものを変えてしまったと評価されるかもしれません。

カバット・ジン博士本人には、
仏教の思想を医療の世界に導入するという歴史的とも言える直感と、
それに基づく明確な意図がありました。

(ある雑誌のインタビューで
 「クリニックが病院の空き部屋からささやかな形で始まったとき、
  自分のプログラムがこれほど影響力を持つようになると思っていましたか?」
 と問わた博士は、
 「一言で言えば、イエスです」と答えたそうです。
 最初から「この仕事は大きなものになると思っていた」と。)

かくて博士本人にはMBSRは仏法と一致した
「普遍的な法(universal dharma)」を体現したもの
という認識がありましたが、
MBSR の実践においてはその意図は水面下に隠れ、
あくまで世俗的な治療法としてのマインドフルネスが提示されました。

たとえば、
ウィキペディアの「マインドフルネス」の項は次のように記述されています。

 マインドフルネス(英: mindfulness)は、
 現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程であり、
 瞑想およびその他の訓練を通じて発達させることができる。
 マインドフルネスの語義として、
 「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、

  評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」
 といった説明がなされることもある。

 新しい考え方ではなく、東洋では瞑想の形態での実践が3000年あり、
 仏教的な瞑想に由来する。

 現在マインドフルネスと呼ばれる言説・活動・潮流には、
 上座部仏教の用語の訳語としてのマインドフルネスがあり、
 この仏教本来のマインドフルネスでは、
 達成すべき特定の目標を持たずに実践される。

 医療行為としてのマインドフルネスは、ここから派生してアメリカで
 生まれたもので、
特定の達成すべき目標をもって行われる。
 マインドフルネスは、大きくこの2つの流れに分けられる。
 医療行為としてのマインドフルネスは、1979年に
 ジョン・カバット・ジンが、
心理学の注意の焦点化理論と組み合わせ、
 臨床的な技法として体系化した。

 
 出典:ウィキペディア/マインドフルネス

ちなみに、上座部仏教(Theravada Buddhism)とは、
仏教の分類のひとつで「長老(テーラワーダ)派」を意味しており、
現存する最古の仏教宗派です。
最古の仏典であるパーリ仏典を採用しており、現在スリランカ、
ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスの主要な宗教です。

この「sammā-sati,(正念)」という言葉は、
仏陀が説いた「四諦(したい):苦諦、集諦、滅諦、道諦」の
道諦に当たる「八正道」の中で、7番目に位置づけられている教えです。

 八正道
 八正道は、仏教において涅槃に至るための8つの実践徳目である
 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のこと。
 ……
 正念
 正念(しょうねん, 巴: samma-sati, 梵: samyak-smrti)とは、
 四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、
 常に今現在の内外の状況に気づいた状態(マインドフルネス)で
 いることが「正念」である。
 出典: ウィキペディア/八正道 

この「sati,(念)」または「sammā-sati,(正念)」が
位置づけられている「道諦」は、
仏陀の根的理解である「苦諦(くたい)」の教えの最終段階、
すなわち「苦(ドゥッカ)」の滅尽の道筋と言えるものです。

「苦諦」とは、人が個人として生きる
「迷いのこの世は一切が苦(ドゥッカ)であるという真実」
を理解することです。

つまり仏教における「sammā-sati,(正念)」とは、
もともと「苦諦」を前提とした、
迷妄の世界からの脱出(のための正しい修練)法の一部であるわけです。

しかし、痛みを抱えてMIT医学部の
「ストレス低減センター」を訪れる患者たちにとって、
そんな目的はまったく無縁ですから、
そもそも医学的治療法としての「マインドフルネス」は、
意図するところが仏教の「正念」とはまったく違うことも明らかです。

つまり、上座部仏教の「sati(念)」から翻訳された「mindfulness」は、
ここではまさに「迷いのこの世」をより快適に切り抜けるための
方法・手段に変容していることは間違いないでしょう。

このような本来の仏教的教えからの
ズレを問題にする見解の方々がいるのは事実ですが、
このような「マインドフルネス」の利用方法もまた
自然な流れの一部なのでしょう。

1-3【仏陀が意味したサマサティとは?

「mindfulness」という英語の元になった言葉は
スリランカなどに残った上座部仏教が仏陀の主要な教えとした
パーリ語の「sati(念)」という言葉です。

 サティ
 パーリ語でサティ(巴: sati、梵: smrti:スムリティ)とは、
 特定の物事を心に(常に)留めておくことである。
 日本語では念(ねん)や、気づき、
 英語ではマインドフルネス(mindfulness)などと表現する。
 出典: ウィキペディア/サティ

「sati(念)」とは、
仏陀の根本的理解「四諦」の最後の道諦の修行要素を表す言葉です。

 四諦
 四諦(したい)または四聖諦(ししょうたい)とは、
 仏教が説く4種の基本的な真理。
 苦諦、集諦、滅諦、道諦のこと。四真諦や苦集滅道。
 苦諦(くたい) – 迷いのこの世は一切が苦(ドゥッカ)
         であるという真実。
 集諦(じったい) – 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない
          愛執であるという真実。
 滅諦(めったい) – 苦の原因の滅という真実。無常の世を超え、
          執着を断つことが、苦しみを滅した 
          悟りの境地であるということ。
 道諦(どうたい) – 悟りに導く実践という真実。
          悟りに至るためには八正道によるべきであるということ。
 出典:ウィキペディア/四諦

ただし、この「sati(念)」は
道諦の具体的実践徳目を定めた八正道の中では、
前に正しいという意味の「samma」を付加して
「samma-sati,(正念)」と記述されています。

 正念
 正念(しょうねん, 巴: samma-sati, 梵: samyak-smṛti)とは、
 四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、
 常に今現在の内外の状況に気づいた状態(マインドフルネス)
 でいることが「正念」である。
 出典:ウィキペディア/八正道

いったい、この「samma-sati,(正念)」という言葉は、
「sati(念)」とは違うのでしょうか?
それとも同じ意味なのでしょうか?
しかし同じ意味なら、なぜあえて「samma-sati,(正念)」と
前に「sama(正しい)」を付け加えるのでしょうか?

20世紀のインドの神秘家Oshoはこのことを次のように説明します。

 正念(正しいマインドフルネス)とは奇妙な言葉だ。
 第一に、その中に念(マインド)はない。
 だからそれは「正念(正しいマインドフルネス)」と呼ばれるのだ。
 第二に、その中には正しいものも間違っているものも何もない。
 だからそれは「正念」と呼ばれる。これは仏教徒のものの言い方だ。
 ……
 正念(正しいマインドフルネス)というのは目標ではない。
 目標ではありえない。

 なぜなら、すべての欲望が消え、すべての目標が消えて、
 あなたは今ここにいる。

 それこそが正念の瞬間だからだ。
 
 なぜそれは正しいと呼ばれるのか?
 それが正しいと呼ばれるのは、
 今やそれは正しいものも間違ったものも何ひとつ知らないからだ。

 それは分割を知らない。それは分割不能だ。その受容は完全だ。
 だからそれは正しいと呼ばれる。
 あなたは存在のあるがままに同調したのだ。
 もはやそこに裁判官のように立つ者はいない。
 
 判断することが間違いなのだ。非判断の状態にいるのが正しい。
 正しいとは間違いの反対ではない。
 正しいのは、 間違いと正しいがすべて消えたからだ。

 あなたには意見がない。 あなたは心に哲学を抱えていない。
 あなたはただの鏡だ。

 
  Osho 『Walk without Feet, Fly without Wings, and Think without Mind』

これが仏陀が説いた「サマサティ(正念)」の意味だとすれば、
現在世の中に知られている「マインドフルネス」とは
およそかけ離れた意味合いだとも言えそうです。

そもそも仏陀が説いた八正道は
「四諦」の最後を占める道諦の7番目の徳目ですから、
「四諦」の1番目、苦諦を大前提としています。
それは迷いの人生、個人として生きる人生が
すべて「苦(ドゥッカ)」であることの理解を前提にしています。
道諦はその「苦(ドゥッカ)」からの解放の道筋として提示されたのです。

「サマサティ(正念)」とは、念が無いこと、
想念が浮上してこない状態を意味する言葉であるようです。
いかなる思いも、いかなる計らいも、
いかなる判断も湧いてこない状態です。
マインドが湧いてこない状態と言えばいいでしょう。

それは明らかに「ノーマインド(no-mind)」、
「無心」と同義であって、
注意深さで充満している状態を意味する英語の
「Mindfulness(マインドフルネス)」とは意味するところが違うようです。

言葉の表現としては、「no-mind」と「Mindfulness」では
ちょうど逆になったとも言えそうです。

マインドをどんなに洗練しても
ノーマインドには届きようはないわけですから、
その意味では「サマサティ」と「マインドフルネス」は
まったく別のものだとも言えるでしょう。

 

2.マインドフルネスは何をするのか?

2-1心(マインド)とは何か?

「Mindfulness(マインドフルネス)」が何をするかを考えるために、
まず「心(マインド)」というものがどういうものなのかを
整理しておきたいと思います。

と言っても、「心(マインド)」が何であるかは、
それこそ哲学の大問題にもなりかねないテーマですから、
そういう意味の論を展開しようというのではありません。

ただ、「マインドフルネス」の働きを考えるための準備として、
「心(マインド)」という多様な使い方をされる言葉に、
どんな側面があるかを大雑把に整理しておくだけです。

①「心(マインド)」には
 私たちが日常生活をする上での必須の道具箱という側面が
 あると思います。

 私たちは生きてゆく中で多くの経験をしますが、
 初めての体験は強烈な刺激と驚きに満ちていたことでしょう。
 しかしその後でも同様の状況に直面することは多々生じたはずです。
 その場合、新たな状況への対処に過去の経験値が影響するのは
 ある意味で当然のことと考えられます。
 
 私たちは経験のたびに、そこで味わった感情を記憶し、
 そこから何かを学び、それを記憶し、一つの経験値として蓄積
 していったことは間違いないでしょう。
 
 つまり、「心(マインド)」には体験した感情と思考の記憶庫
 のような意味合いの側面があると思われます。
 そこでは、「心(マインド)」は私たちの持ち物であり、
 私たちの手持ちの道具箱でもあるわけです。

 これが「心(マインド)」の一つの側面です。

②ところで、では「心(マインド)」は、
 私たちが使っている機能、私たちの持ち物なのかと言えば、
 そうともばかりも言えないところがあります。
 
 というのはもし「心(マインド)」が自分の道具、持ち物なら
 使わないときは、どこかに置いておけばいいはずです。
 
 そう思ってみると、
 私たちが道具として「心(マインド)」を使っている、
 私たちは“自分が考えている”と思っているのは、
 もしかしたら自惚れ、あるいは誤解なのかもしれません。

 そして実際、もし私たちが自分の都合で考えているのなら、
 いったい誰が自分が不幸になるために考えたりするでしょうか?

 私たちは自分で考えているでしょうか?
 もし私たちが【自分】で制御して考えているのなら、
 もちろん、考える必要がないときは、
 【自分】で制御して考えないこともできるはずです

 ではたとえば、今ここで【自分】で決断して、
 これから1時間考えないことにしてみてください。
 ……。
 それが可能だったでしょうか?

 せいぜい5分くらいは頑張れたとしても、
 いつの間にか何かかにかの理屈をつけて、
 考えることを始めていたのではないでしょうか?

 そうなのです。
 私たちは考えることをやめることができません。

 どうやら私たちは心(マインド)という機能を使いこなしている
 わけではなさそうです。
 もし考えること、思考を、「心(マインド)」と見なすなら、
 「心(マインド)」は私たちの持ち物ではありません。

 もし、考えること(=思考)の他に【自分】がいると見なすなら、
 【自分】は「思考」の奴隷だということになるかもしれません。
 
 あるいは、むしろ、
 【自分】とは、考えることそのこと、
 「心(マインド)=思考」そのものと言えるかもしれません。

 これが「心(マインド)」に関して整理・理解しておく必要が
 二つ目の側面です。

 ③次に、
 ではもし【自分】が考えているのでないというなら、
 いったい誰が、あるいは何が考えているのか?
 という疑問が湧いてくることになります。

 【自分】が考えるときを思い出してみてください。
 あなたは何か気になることがあって、
 そのテーマに意識の焦点を向けます。
 するとその問いかけに応じて
 「心」の中にある「思考」ないし「想念」が湧いてきます。
 あるいは「思考(想念)」が配達されてくる
 と言ってもいいかもしれません。
 このようなプロセスを私たちは「考える」というようです。

 ここで「意識」という言葉が出てきました。
 最初あなたが何かを考えようとしたとき、
 そのあなた(【自分】ないし「心(マインド)」)は
 その答えを知りませんでした。
 でも、考えたら、つまり意識のフォーカスを向けたら、
 あなた(【自分】)に、
 その答え(思考・念)が配達されてきたわけです。
 問いかけていた「心(マインド)」をきっかけに
 次の想念が浮かんできたと言ってもいいでしょう。
 
 この答え(思考・念)を供給してきたのは誰でしょうか? 
 あるいは何でしょうか?
 私たちが使う「心(マインド)」という言葉には、
 この答え(思考・念)を供給するものという意味合い
 範囲も含まれているようです。

 もし、この「答え(思考・念)を供給するもの」
 という意味合いを表すのに「意識」という言葉を使うなら、
 「心(マインド)」とは「意識」の一部だという言い方もできそうです。
 あるいは、「心(マインド)」とは「意識」の現象形態
 という言い方もできるかもしれません。

 「意識」は無限の現象形態を潜在的に含んでおり、
 「心(マインド)」はその「意識」の中から
 フォーカスしたテーマについての「答え(情報・思考・念)」を
 引き出すプロセスだと言えるかもしれません。

 これが「心(マインド)」に関して整理・理解しておく
 必要がある三つ目の側面です。

④最後にもう一つ、
 問いかけているその「心(マインド)」の質に関わる観点があります。
 誰が、どういう立場の「心(マインド)」が、
 答えを欲しがっているのか、ということです。

 たぶん、現象世界の中の身体に一体化した【自分】という立場から
 答えを求めている、というのが一般的な場合でしょう。
 その場合、【自分】は、過去の記憶から未来を想像して、
 その時どきの関心ある問題についての答えを求めているのでしょう。

 これが考える「心(マインド)」の一番ありふれた形態だと思われます。
 それに対しては、「意識」はいつでも
 その「答え(情報・思考・念)」を配達してくることでしょう。

 しかし、【自分】が
 通常の範囲内ではとうてい手に入りそうもない答えを欲しがる、
 という場合もありそうです。
 通常なら答えが見つかるはずの、
 思いつくかぎりの方法を試してみたのです。
 もうそれ以上できることは何も思いつけないわけです。
 あらゆる努力の末に、ついにはお手上げです。もう何もできることがない。
 張り詰めていた緊張がついに溶けて緩んだとき、
 その答えがそこにあることに気づく。
 そんなこともあるかもしれません。

 あるいは、
 【自分】が過去の記憶や既知の範囲からの答えにはいっさい興味を失う、
 【自分】(のマインド)が理解できるような「答え(情報・思考・念)」の
 無意味さに絶望してしまう、ということもありえないことではありません。

 以上のような場合に答えを提供できるものがあるとしたら、
 それはいわゆる「心(マインド)」ではないかもしれません。
 しかしそれでも、答えが見つかるということはありそうです。

 そういうときに答えを提供するものを、
 「直感」とか「明晰性」と呼ぶのかもしれません。

 それはいわゆる「心(マインド)」ではないかもしれない。
 しかしそのような働きも含めて、
 「心(マインド)」という言葉を使うこともあるかもしれません。

 「心(マインド)」に関して、
 こんな観点もありうることを整理・理解しておきたいと思います。

2-2思いを脇に置いて今を感じる

人間のつらさは、その時点の手持の知識の範囲内で【自分】の置かれた状況を想像し、その想像上の状況の中での【自分】の都合を想定し、その立場からの状況の改善方向を検討し、その具体策を想像できる範囲内から検索しようとせざるをえないことです。

もちろん、人間が身体として誕生した直後から、そのようなルーティーンが始まっていたわけではありません。

生まれたばかりの赤ん坊は、まだこの新しい世界の中での【自分】の物語を持っておらず、<いま>のなかにただくつろいでいます。そしてゆっくりとまわりの世界を観察しているのです。

赤ん坊にとっては世界そのものが自分です。
現れているその現象世界の中に【自分】という者はいません。

しかしやがてその新しい世界からの刺激に応答するなかで、誕生した身体との一体化が進みます。
親を含めた周りの大人たちから、この現象世界全体が自分なのではなく、その中の現れであるこの身体が【自分】なのだと教わるわけです。

それは一瞬のゲシュタルトの転換であり、赤んぼうはその瞬間、この身体が自分なのだと、いわば「悟る」わけです。それは通常語られるいわゆる「悟り」の“逆過程”だと言えるでしょう。

この地上での生活はけっして楽なものではありません。
なぜならこの地上の文化は、つねに望ましくない心配情報だけを強調・拡幅・増大して放送し、つねにそれに対応しながら考え続けることを奨励・強制するような文化だからです。

そのため、私たち地球人類は、つねに心配を反芻し、考えるという行動に駆り立てられることになり、やがてはこの考えるという動作は無意識化され、ルーティーン化して、身体化されます。

その結果、地上の教育・価値観・道徳観・宗教など、この世界で主流となっている思考・常識に真面目に誠実に対応すればするほど、左脳の知識ばかりが発達して、身体で直感的に感じる違和感やハートの感覚が無視されて、右脳の発育は抑制されます。

長ずるにしたがって子供のころのような素直な感情は表現されなくなり、その抑圧された感情は身体内のどこかに蓄積され、無意識化されることになります。

この身体から顕在意識に送られてくる信号を無視し続けることが、「ストレス」と言われるものの原因です。それは最終的には多様な肉体の病気として発現てくる生命体の不調和状態の根本原因を構成しています。この生命体に起こっている不調和状態を根本的に解決しないかぎりは、いくら一時的な症状を薬物などで消去しても、それはまた別の出口を求めて表出してくることになります。

米国MIT医学部のカバット・ジン博士が開発した「マインドフルネスストレス低減法」は、「マインドフルネス」という仏陀由来の手法を使って、この無意識化された思考過程を意識化することを意図した治療法とも言えるでしょう。

私たちの絶えざる思考は、けっして【自分】の状況を改善できるほど賢くはないかもしれません。
逆に、かえって身体から<いま>送られてきている信号に気づく余裕を失わせたり、<いま>そこにある現実に気づく能力を減退させているかもしれません。

第一、何よりも、そのように無意識的に考え続けることで、身体に必要な休息を妨げながら、しかも貴重なエネルギーを無用にを浪費しつづけている可能性が大きいのです。

特に感情的な自動操縦が起こっている場合、ネガティブ思考の反すうやうつ状態につながりやすくなります。自動操縦状態にあるときは、脳のデフォルトモードネットワーク(DMN)が機能するからです。
「馬鹿の考え休むに似たり」どころか、まさに不幸になるために考えている状態と言えます。

「マインドフルネス」とは<いま>起こっていることに意識のフォーカスを当てます。

それは<いま>の現実に気づく方法であると同時に、じつは<いま>しか存在しないことに気づく方法でもあります。

私たちが四六時中なかば強制的に考えている無意識的思考とは、実際は過去の記憶を再生するか、あるいはそれを想像上の未来に延長・投影する動作にすぎません。

つまり、考えるとは、<いま>を感じ、<いま>を経験し、<いま>を生きることを避けることでもあるわけです。

<いま>を生きることを避けて、しかも病気になる。バカらしいこととも思われます。

考えること、「思考」は人間がもった「知力」の発現です。
「知力」(個を前提とした思考)の役割は身体を護ることです。もちろん必要な役割であり機能です。
しかし、分を超えて働き続けると、生命体に大きな危害を加える可能性もありそうです。

「マインドフルネス」は、「知力」の働きがその本来の役割範囲を超えることがないように、チェックするとも言えそうです。

カバット・ジン博士は「マインドフルネス」を【今ここでの経験に、評価や判断を加えることなく、能動的な注意を向けること】と定義しています。

それは第一に、考えることを中断することであり、<いま>実際に起っていることを感じることであり、そしてそこから新たな思考を紡がないことなのです。

思いを脇において、<いま>を感じることだと言えるでしょう。

2-3存在しない時間から<いま>へ

私たちが中毒状態にあるとも思われる「考える」という働きの中では、
実際に<いま>という瞬間を経験することは起こりません。

ふだん私たちが無意識状態の中で常習している「考えること」とは、
過去の記憶を<いま>回想し、なぞり、変形し、
それを想像上の未来に投影する動作パターンだからです。

「考える」ことの中では、
私たちの注意(=意識フォーカス)は常に記憶の中の過去と、
想像の中の未来のあいだを水平的に往復して、
けっして<いま>に向けられることはありません。

実際は、存在するのは<永遠のいま>だけです。

「過去」というものは存在しません。
なぜなら、「過去」を経験することはできないからです。
あなたは「過去」で生きることができるでしょうか?
あなたは昨日、呼吸をすることができますか?
できません。
あなたが呼吸できるのは現存する<いま>のなかだけです。
過去とは、<いま>想起された記憶であり、
<いま>浮上している単なる観念にすぎません。

同じく「未来」というものは存在しません。
なぜなら、「未来」を経験することはできないからです。
あなたは「未来」で生きることができるでしょうか?
あなたは明日、呼吸をすることができますか?
できません。
あなたが呼吸できるのは現存する<いま>のなかだけです。
未来とは、<いま>起こっている想像であり、
<いま>浮上している単なる観念にすぎないのです。

「過去」とは、<いま>のなかに呼び出された既知の体験の記憶です。
「過去」とは、既知の体験の記憶を、
自分の都合に合わせて修正・改変しながら、
<いま>思い出すこととも言えるでしょう。

「未来」とは、
<いま>のなかで既知の体験の記憶を未知にむけて投影することです。
既知の体験の記憶を、自分の都合に合わせて修正・改変しながら、
<いま>未知を想像することとも言えるでしょう。

しかし、
もし「過去」も「未来」も存在しないということになると、
私たちが慣れ親しんでいる過去から現在に至り、
未来へと展開してゆく、
「時間」という概念はどういうことになるのでしょうか?
時間も存在しないとでもいうのでしょうか?

時間は存在しないとは、
じつは古来多くの覚者たち神秘家たちが語ってきたことです。

地球の科学者のなかでも、
「定常宇宙論」の提唱者として知られ、
皮肉にも「ビックバン宇宙論」の命名経緯にも関わる
イギリスの天文学者フレッド・ホイル卿 (Fred Hoyle:1915-2001)は、
「過去が未来に向かっていく、
 あるいは未来が過去に向かっていくと考えるなら、
 それ以上間違っていることはないでしょう。
 そんな流れはありえません。すべてがいまあるのです」
と述べているそうです。

またある数学者の研究では、
晩年のアインシュタイン(1879-1955)は
最終的に空間と時間は存在しないという結論に達していたそうです。
アインシュタインは、時間-空間は現実ではない。
時間-空間は3次元の物体が空間に投影され、
時間の中で認識されるための単なる観念、
現象が起こるための観念的メカニズムにすぎない、
という結論に到達ざるをえなかった、というのです。

たしかに、空間がなければ、私たちは現象する対象物を
3次元的大きさ(形・体積)として知ることができませんし、
また時間という経過がなければ、
それを知覚すること自体が不可能になるでしょう。

しかしまた、過去も未来も
想像することはできても、体験することはできないものであるようです。
“想像できて、体験できないもの”となると……。
そう、それは観念なのです。

時間-空間とは、
現象を体験すること自体を可能にするための観念的枠組み、
観念装置と言えるでしょう。
ということは、
それは“「時間」という思考”だということになります。

参考までですが、足立育朗さんの『波動の法則』という本の中に、
こんな不思議な記述があります。

 ところで、「時間」というのは「空間」と切り離せないものであり、
 エネルギーです。
 ある意味ではクォークのエネルギーが「時間」と「空間」を
 構成していると言っていいでしょう。
 ……
 地球では便宜的に動物、植物、鉱物の分類をしていますが、
 それと同じように「時間」と「空間」も切り離してしまって、
 時計のような道具を作ってしまっているわけです。
 自然の法則では「時間」だけ切り離されている存在というのはあり得ないのです。
 これはあくまでも、地球と同じレベルか、それより未熟な文化の星だけが
 時計という道具を使っているのです。
 『波動の法則』(p158-160)

2-4見ている・判断しない

仏陀が説いた「サマサティ(正念)」とは、
仏教の真理である四諦(苦・集・滅・道)や十二縁起の教えを前提とした、
現象世界の【あるがまま】を自覚・実現するための行法でした。

カバット・ジン博士は
その「マインドフルネス」から仏教的文脈を取り除いて、
科学的実践データにもとづく「注意のスキル」単体として
医学的治療法に組み込んだのでした。

ある意味で必然的とも言えるこの“衣装替え”は、
「マインドフルネス」が西洋世界に爆発的に受け容れられる素地を用意し、
将来の急拡大を可能にするものでした。

とはいえ、MBSRは最初から注目を集めたわけではなく、
行動療法の一環として地道に普及していったようです。

1980年代当時は、瞑想法の研究自体は世界的に低迷が続いていました。
「マインドフルネス」が社会的に脚光を浴びるまでは、
社会的「ストレス」のさらなる加圧と、
そこからの脱出の緊急の必要性という社会的基盤が
もう少し整うまで待つ必要があったようです。

2000年代に入るとアメリカ企業社会のより中心部分で、
東洋の思想実践への興味が高まります。
さらなる効率を求める企業社会の中から、
「<いま>への集中」を教える仏教思想の実践に
その突破口を可能性を求める期待が高まってきます。
改めて「マインドフルネス」という瞑想的実践に
社会の興味が向かいはじめるのです。

このように社会の中核部分で注目されるようになった
“世俗的マインドフルネス”は、
ある意味では仏陀の説いた「サマサティ(正念)」とはちょうど逆の、
【自分】を中心に据えた自己修養、自己成就、自己増進のための
方法論として理解され、実践されることになります。

ますます変化が加速する時代環境の中で、テクノストレスも含めた
過度な緊張を強いられる現代先進諸国の企業社会の中では、
半ば強制的な無意識的思考ルーティーンから脱出するだけでも、
ストレスは軽減し、生命体を正常化する十分な効果が実証されました。

「マインドフルネス」は
「気づき」や「ありのままの注意」を重視する“洞察瞑想”として、
ヴィパッサナー瞑想とぼぼ同義とみなされるようになります。

心理的・身体的健康や良好な人間関係、冷静な意思決定、
仕事や学業への集中、全般的な生活の向上などに
実際に有効な方法として注目を集めるようになるのです。

病的思考の堂々巡りがもたらしたうつ病や不安神経症などは、
マインドフルネスの実践によって、当人が自覚していない
無意識の思考の「自動操縦状態」が解除されるだけでも、
症状が和らぎ、ストレスや心配を減退させただろうことは
想像に難くありません。

それで薬物依存が解除されうるなら、
精神疾患の患者などに対する多くの治療効果を示すこともできたでしょうし、
心身の健康状態の悪化を防ぐ予防策にもなりえたでしょう。

カバット・ジン博士は「マインドフルネス」瞑想を、
【今ここでの経験に、評価や判断を加えることなく、
 能動的な注意を向けること】と定義しています。

「マインドフルネス」瞑想には、
【今ここでの経験に】、
【評価や判断を加えることなく】、
【能動的な注意を向けること】
という三つの要素があるようです。

まず、現実に起こっていること、<いま>起こっていることに、
被治療者の注意を向けるのです。

思考の中で現実の生命体験との接点を失っている被治療者に、
【今ここでの経験に】注意を向ける能力の発達を促すのでしょう。

そのため、<いま>この瞬間に起こっていることに、
意図的に【能動的な注意を向ける】ことをしてもらうわけです。

そして<いま>起こっていることに気づいていながら、
しかも【評価や判断を加えない】ことを促すのです。
次の思考に駆り立てられずに、
ただ【見ている】力を養うことを促すのでしょう。

私たちの常習的状態は、
(何かを追求する)思考そのものと一体化して、
常にその思考の展開の先に注意を向けることです。

しかし、「マインドフルネス」瞑想では、
まず<いま>現に起こっていることそのことに、
たとえば、起こっている呼吸そのものに、
【能動的な注意を向ける】ことを促すのです。

これは誰にも可能なことですし、
できないとは言えないたぐいのことです。

しかし、絶えず思考に駆り立てられている現代人にとっては、
これ自体が大変な飛躍とも言えます。
中毒状態にある思考を中断させられるわけですから。
それだけで、最初はある種の“居心地の悪さ”を感じるかもしれませんし、
それだけでもある種の気づき・洞察が起こる可能性があります。

<いま>起こっていることに【能動的な注意を向け】ながら、
しかもそれに【評価や判断】を加えない。

<いま>起こっていることに注意を集中する。
それをあれこれ言わずに、ただ【見ている】。
これができれば、もうそれだけで、大変な力量とさえ言えるかもしれません。

そこで起こっていること、そこに湧いている思考を、
ただ【見ていて】、それを【判断しない】。
思考(あるいは状況判断)が起こっていることに気づいていながら、
それを判断しないのです。

起こっている思考に気づきながら、
自動的に起こってくる判断を無視できる力です。

カバット・ジン博士が要求していることは、
じつは大変なゲシュタルトの転換かもしれません。

2-5「痛み」と「苦痛」と「苦しみ」

「痛み」と「苦痛」と「苦しみ」という言葉があります。

近縁の言葉であることはわかりますが、
それぞれニュアンスや使われる状況などは微妙に違うようです。

「痛み」と「苦痛」と「苦しみ」という言葉は、
どんなふうに違うのでしょう?

左側にある言葉ほど生理的・肉体的意味合いが強く、
右に行くにつれて心理的・精神的意味合いが強まるように思えませんか?

あるいは、左寄りの言葉ほど、より単純に現象について述べていて、
右に行くほどその現象についての価値判断が強くなる感じ、
とも言えそうです。

そしてどの言葉にも大なり小なり、
あまり望まれていないという感じがつきまとっているようです。
できれば、どれもあまり経験したくないという感じです。

ところで、「痛み」とは、
誰もがなるべくなら経験したくないものだとは思いますが、
全然経験しないですませることもできるものでしょうか? 
それとも生きるためには、大なり小なり、必須のものでしょうか?

私たちは身体としてこの世界に誕生してきますが、
身体として物理次元の人生を体験するためには、
どうも「痛み」は必要不可欠なものではないか、と思われます。

たとえば、単純な話、「痛み」がなければ、
私たちは二足歩行の能力すら身につけられないのではないでしょうか?
幼児は転んで痛い目をすることによって、
2本の脚で歩く能力を身につけるのです。
「七転び八起き」というのは、
転倒するたびにまた起き上がって歩き方を覚える様子から、
派生・転意した表現とも言えるのでは。

「痛み」とは、
緊急に対処する必要がある事態が起こったことを、
その身体部署が私たちに報せてきてくれている信号でしょう。

この「痛み」がなければ、
たとえば、間違って自分の足をくじいてしまっても、
私たちはそれに気づかず、そのまま強引に歩きつづけて、
取り返しようのない状態にまでもっていくかもしれません。
こんな単純な場合以外にも、
じつにいろいろな「痛み」信号の発生状況があるだろうと推測されます。

身体がこわばったので姿勢を変えてくれとか、
仕事をやりすぎたので少し休んでほしいとか。
場合によっては、学校に行く時間が近づいたらお腹が痛くなるとか……。

肉体的・心理的ないろいろな状況を私たちに知らせるために、
身体が多様な注意喚起信号を出してくれているのでしょう。

それらの「痛み」は、
単なる“痛み止め”的な対症療法だけでは一時的に消すことはできても、
それが伝えている根本原因が取り除かれないかぎり、
また現れることになりそうです。

要するに、「痛み」は、少なくとも動物として生きるには、
なくてはならない経験のようです。

次に「苦痛」という言葉ですが、これは「痛み」とは少し違って、
心理的ニュアンスの強まった表現のように思われます。

できれば避けたい体験という以上に、
「苦痛」という言葉自体に、
本来あるべきではないと言うふうの(非難めいた)気分が
込められているようにさえ感じられます。
たとえば、
麻酔など「疼痛治療」と呼ばれるような医療分野がありますが、
これはひたすら「苦痛」を減少あるいは緩和させるための
治療だろうと思われます。

「苦痛」というのは本来はなくても済むはずの体験なのでしょうか?
それともそれは人生で受け容れなければならないものとして
存在しているのでしょうか?

カバット・ジン博士が提案した
「マインドフルネスストレス低減法(MBSR)」は、
まさにこの「苦痛」を減少・緩和させるための実践的方法として
<いま>の瞬間に注意を向ける「マインドフルネス」を
取り入れたとも言えそうです。

最後の「苦しみ」ですが、
これは<いま>現実に起こっている現象によるものというよりは、
むしろ当人の価値判断のもとで、
ひたすら過去と未来の間を往復する“思考の檻”に閉じ込められ、
けっして<いま>に生きない状態で経験するもの、
とも言えそうです。

これは医療としての「マインドフルネス」では、
「マインドフルネス認知療法(MBCT)」が治療対象とする
領域なのかもしれません。

「痛み」は身体をもって生きる上では、
とても大切な身体からのメッセージとして理解すべきもの
だと思われます。

「苦痛」は、
その「痛み」が適切な段階でメッセージとして受け止めてもらえず、
より重症化した疾患となって発症してしまい、
受け容れるしかない体験なのだと思われます。
したがって、
医療行為としては可能なかぎり軽減をはかる領域なのでしょう。

「苦しみ」は、本来はあるべきではないのかもしれません。
しかし、この地上社会で生きるとことのなかに
あまりにも深く組み込まれていて、
仏陀はこの惑星で人が環境から分離した
個人幻想の中で生きることを「苦(ドゥッカ)」
断ずる以外はなかったのだと思われます。

3.マインドフルネスは何を解決するか?

3-1架空の苦しみを悩まない

うつ病、パニック障害、強迫性障害、不眠症、薬物依存症、
摂食障害、統合失調症といった、いわゆる精神的失調に、
科学的根拠に基づく有効性が報告されている療法に
「認知行動療法:英:Cognitive behavioral therapy:CBT)」
というのがあります。

これは第二次世界大戦時に欧米で盛んに研究された
行動主義心理学から発展した「行動療法(behavior therapy)」、
アルバート・エリスが1955年に提唱した論理療法(rational therapy)、
1960年代にアーロン・ベックが提唱した認知療法(cognitive therapy)
などから派生した心理療法の統合発展形態と言えるでしょう。

 認知行動療法
 ……1950年〜60年代の論理療法や認知療法に起源をもつ。
 共に、不適切な反応の原因である、
 思考の論理上の誤りに修正を加えることを目的としており、
 認知、感情、行動は密接に関係しているとされる。
 従来の精神分析における無意識とは異なり、
 観察可能な意識的な思考に焦点があり、
 ゆえに測定可能であり、多くの調査研究が実施されてきた。
 出典: フリー百科事典ウィキペディア/認知行動療法

マインドフルネス認知療法は
この認知行動療法の第三世代とも言えるもので、
第三世代にはこの他に
アクセプタンス&コミットメント・セラピーなどもあります。

この認知行動療法では、
治療対象者がもっている特有のネガティブな認知を発見して、
その認知の修正が試みられるのが一般的です。

ところがマインドフルネス瞑想の場合はその対処法が非常に異なります。

まずマインドフルネス瞑想には、
患者の何らかの認知をネガティブなものと断定して、
その修正を働きかけるといったプロセスは含まれていません。

心理療法としての「マインドフルネス」瞑想では、
そもそも被治療者が抱えている悩みを
当人から詳しく聴き取ろうとはしないのです。

被治療者はただ
【今ここでの経験に、評価や判断を加えることなく、
 能動的な注意を向けること】を求められるだけです。

「今ここでの経験」、たとえば、それは
<いま>自分の身体がしている呼吸かもしれません。
その<いま>現実に起こっている呼吸という動作に、
【能動的な注意を向ける】ことが求められます。

これによって被治療者は
自分の注意の方向は、
自分が意図的に能動的に方向づけることができる
ものであることを再体験して、そのことを経験的に知るのです。

たとえば、そのとき注意が途切れて、
「自分は何を馬鹿なことをやっているんだ。
 もっと現実のことを考えなければ」
などという想念が起こるかもしれません。

しかし、そういう物思いが始まっていることに気づいたら、
それに【評価や判断を加えない】ことが求められています。

普段の心配ルーティーン思考に嵌るのではなく、
またそのような未熟な自分を責めるのでもなく、
ただ自分が<いま>している呼吸という【今ここでの経験】に
また【能動的な注意を向ける】だけです。

こういう「マインドフルネス」を実習することによって、
被治療者はじょじょに、起こっている【今ここでの経験】と、
それに【評価や判断を加える】ことは別のことであること、
また【今ここでの経験】とそれに加えられた【評価や判断】とは
別物であることを再体験し、そのことを経験的に知るのです。

つまり、被治療者は知らず識らずのうちに、
【今ここでの経験】とも、
無意識的にそれに加えられる【評価や判断】自体とも、
距離を取ることをマスターしていくのです。

無意識的思考の自動操縦の中で生成・拡大・増幅・増強されていた、
想像の中の【架空の苦しみ】は、じょじょに解体されてゆきます。

自分が生きる物語の中で、
自分がこれほどの「苦しみ」を造ってきたのは、
これまでの自分の生き方の中にそれほどの不調和をもたらすだけの、
何かこれまで自分が無視して、対処を避けてきた
何か元々の原因があったのかもしれません。

あえて【架空の苦しみ】を苦しまなければ、
自分が生きる人生で、自分で自覚的に【評価や判断】を選択しながら、
自分が納得できるていどの物語展開を生きてゆくことは、
可能なのかもしれません。

「マインドフルネス」瞑想を行なう中で、実践者は知らず識らずの内に、
瞑想に投入した意識エネルギーにふさわしい洞察に
導かれてゆくのかもしれません。

3-2責任を転嫁しない

成長神話に拘束され、
さらなる効率を求めてひたすら人間に緊張を強いる高度情報社会は、
同時に個人の責任を信じている人間社会でもあります。

経済活動の諸分野が情報によって
これほど緊密に相互連携して組み込まれた社会では、
それが効率的であればあるほど、
そこには相互間の“遊び”、“隙間”といったゆとり、余裕がなくなります。
ある経済単位で起こった齟齬や失敗は、
たちまち関連分野に連鎖的な影響を波及させることになります。

起こったことは実際は、
ある小さな部署でのある小さな見落とし・失念・無視かもしれませんし、
ほんのちょっとした身勝手や不正かもしれません。
しかしいったんある箇所である許容限度を超えてしまった失態は、
否応なしに関連諸分野に連鎖反応を波及させていくしかありません。

この社会は個人の責任を信じている社会ですし、
そのための法律もあります。
天変地異による不測の事態が原因ならいざしらず、
そうでないかぎりは必ず責任の所在を追求する論議が起こらずにはいません。

そもそも「責任」という観念自体が一つの神話である可能性もありますが、
しかしそれは人間社会の基底をなす根本概念ですから、
そこを疑うことは社会的に許されません。

そのような社会で暮らす人間に、
最も普遍的に見られる思考パターンのひとつが「責任転嫁」です。
大なり小なり、この思考パターンから免れられる人間は
まずいないと言えるでしょう。
「責任転嫁」とは、
人間に強制された典型的思考パターンとも言えるかもしれません。

「マインドフルネス」の元になった
「サマサティ(Samma-Sati)」を説いた仏陀は、
「苦」の発生機序として顕在意識と無意識の中で起こる
「縁起(十二縁起)」を説きます。

その仏陀の教えを一言に煎じ詰めるなら、
「行為は起こるが、行為者はいない」という表現になることでしょう。
仏陀はその理解そのものであり、その理解を生きています。
言葉を換えると、
「苦(ドゥッカ)」を滅した仏陀は人間ではないとも言えます。

しかし人間社会で生きている私たちには、
それを自らの言葉として言うことはできません。

私たちは誕生した身体を自律的“主体”として、
またまわりの環境を“他人”や“対象物”として認識しています。

そんな“分離した個人”としての観点からは、
身体を通じて起こる行動は“自分の行動”です。

もしその行動の結果もたらされる変化が
自分の観点から望ましいものなら、
その行為を自分の手柄として誇りに思い
もしその結果が自分の観点から疎ましいものであるなら、
その行為を自分の失敗として恥じなければなりません。

その状況を強いられている私たちは、
つねに自分に望ましい状況を選別し、欲望し、追求し、
疎ましい状況を嫌悪し、回避し、排除し、否定しなければなりません。
要するに、
個人である私たちは苦しむことを運命づけられているのです。

その意味では、個人として生きる人生すべてが、
自惚れと誤解と責任転嫁のゲームとも言えるかもしれません。

この現代社会という高度に洗練された社会は、
別の意味では高度にストレスに満ちた社会でもあります。

私たちは自己イメージを維持するために、
生まれてこの方、自然に生体内に発生するたくさんの感情を
非認知のまま身体のどこかに閉じ込め、
同時にその同じ感情を表現している他者を非難して、
他者に責任転嫁してきたその結果を、
苦痛、あるいは苦しみとして、感じなければならないことでしょう。

それが現代社会で多様な疾病の形をとって現れ、
「苦痛」や「苦しみ」として現象しているのでしょう。

現代に蘇った仏陀の教えが「マインドフルネス」瞑想となって、
すべての「苦しみ」が自分の信念・思い込み・判断によって
創造されていることを認識させてくれているのでしょう。

その「苦しみ」は、あなたが誤解と自惚れによって
みずから創造している。
責任を転嫁しているかぎりその苦しみ避けられない

そして、つろげないという「こころの病」に罹った現代人を、
その脳のデフォルトモードネットワーク(DMN)の自動操縦状態から
解放しようとしてくださっているのかもしれません。

けっして難しくはない「マインドフルネス」瞑想を実践することで、
私たちはそのような長い叡智の伝統の恩恵に浴しているのだと思います。

3-3脱中心化がもたらすもの

「脱中心化(Decentering)」とは、
【思考や感情を、
 自分自身や現実を直接反映したものとして体験したり、解釈するのではなく、
 それらを心の中で生じた一時的な出来事として捉えること】
と定義されます。

常習的な思考の中で、
本人がまったく疑うことなく自分の現実だと認識してきたことが、
突然、
「それはただ、
 <いま>心のなかで起こっている一時的な思考にすぎない」、
と思い出させられる。
「脱中心化」をドラマティックに表現するなら、
そんなふうにも言えるかもしれません。

アメリカで行われたある心理学研究によると、
私たちは1日に6万回の思考をおこなっているそうです。
起きている時間は、
1秒に1回の想念が頭の中に浮かんでいることになります。
しかも一説によれば、
そのうち8割はネガティブな思考をしているのだとか。

いまでは地上でほぼ絶滅しつつあるという、
いわゆる原住民と呼ばれる人たちが
それほど忙しく思考を追っているとは思えないので、
これはもちろん万人に敷衍できる話ではないでしょう。

しかし、(競争社会の最先端を突っ走ってきたと思われる)
アメリカ社会でのこの研究データは、
現代人のマインドについておおよその目安を与えるものではあります。

ふだん通常程度の無意識状態のとき、私たちは
それほどにも常習的な思考の自動操縦状態の中にいるらしいのです。

考えている私たちは、
想像上の未来を【自分】の都合に合わて変更できると期待して、
既知の記憶を検索しているわけでしょう。
そのとき私たちは、意識のフォーカスを
過去の記憶か未来の想像のどちらかに向けているはずです。
両方とも<いま>現存していない記憶と想像という観念の間を
水平的に往復しているわけです。

記憶と想像の間を往復というと、
いかにも記憶と想像が独立して存在しているように聞こえますが、
実際は、それは体験した既知の記憶を、
想像上の未知へと投影すること以外ではありえません。

もし考えることの8割がネガティブな思考なのだとしたら、
私たちの無意識状態、
脳のデフォルトモードネットワーク(DMN)の中では、
ひたすらネガティブな既知の記憶の延長上に、
未知を想像し続けていることになります。

【自分】に都合のよい未来を期待した思考のはずが、
これではまるで不幸を再生産するための想像としか言えません。
現存する<いま>を感じることなく、
ひたすら記憶と想像の中で継続されるこの観念化作業は、
まさに「思考の檻」に閉じ込められた状態とも表現できるでしょう。

もしそこで、
「あながた現実だと思っているそれは、
 単に<いま>心のなかで起こっている一時的な思考にすぎない」
と気づくことができたら、それはどれほどのことでしょうか?

それはあたかも閉じ込められていた「思考の檻」に、
外から光が射し込むようなものかもしれません。

自分の現状というのは動かしがたい現実ではなく、
単に自分が<いま>そのように解釈していたということにすぎなかった、
と思い出せるだけでも、
それはゲシュタルトの変容を引き起こすほどの知見ではないでしょうか。

「思考の檻」に開いたこの窓は、
やがては外への扉となって開放される可能性もありえます。

「脱中心化」とは、
この「思考の檻」の扉を静かに開けることにも喩えられるでしょう。

「脱中心化(Decentering)」こそが、
「マインドフルネス」瞑想で起こりうるリラクゼーションの
中核的エネルギー源なのかもしれません。

3-4あなたはあなたの思考か?

「マインドフルネスストレス低減法:MBSR」を開発した
カバット・ジン博士は、2012年に日本に訪れたとき、
基本理念は道元禅師の曹洞宗だと明言しているそうです。

キリスト教徒を主体とするコミュニティー社会であるアメリカで、
仏教徒の治療法であると理解されてしまうと、
多くのアメリカ人に対して
最初から療法としての門戸を閉じることになるのは明らかです。
アメリカ社会では宗教色を払拭せざるをえなかったが、
自分の考え方の基本は道元禅師の曹洞宗だと、
カバット・ジン博士は言いたかったのでしょう。

もし「マインドフルネス」瞑想を、
(道元禅師の曹洞宗を含む)禅の伝統の中に位置づけてもよいのなら、
私たちはもう少し「マインドフルネス」という言葉の意味の
包含を拡大してもいいかもしれません。

曹洞禅とは別脈になりますが、臨済禅の開祖である臨済禅師に
「父母未生以前本来の面目」という有名な公案があります。

私たちは“自分”が置かれた状況を思い煩い、
ほとんど常習的な無意識の思考状態にあります。

その私たちに、「マインドフルネス」瞑想は、
【今ここでの経験に、評価や判断を加えることなく、
 能動的な注意を向けること】を求めました。

「マインドフルネス」瞑想のプロセスで、
私たちがこれまで自分と見なしてきた現実認識は、
じつは<いま>心のなかで起こっている一時的な思考にすぎなかった、
と思い出すことができたわけです。

ところがこの有名な公案で、臨済禅師は、
自分とは<いま>心のなかで起こっている思考だった、
と思い出すのは始まりとしては悪くない。
だがそこからさらに一歩を進めて、
その自分の父親や母親すらまだ生まれていなかったときの自分を
思い出しなさい、と言っているようでもあります。

よく生意気盛りの中学生などが、
母親に「勝手に産みやがって」などという暴言を吐くことがあるようです。

しかし、ではその子は本当に親が「勝手に産む」ことができるものなのか?
人間が造ったロボットなら、
分解して壊しても何も文句は言わないかもしれません。
しかし人間の子はロボットと同じではない。
壊されることに反発するにちがいありません。

そんな極端な状況を想像するまでもなく、
人間の子である赤ん坊が、誕生した最初から
生きている意識存在であることくらいは誰でも知っています。
それどころか最近ではお母さんのお腹のなかの
子供と会話を試みる方さえいるわけですから。
いずれにせよ、
家族の一員としての人格を身につける以前から、
その子がすでに意識存在であることは自明と言ってもいいでしょう。

その事実を自分に当てはめるなら、
私たちが現在自分と見なしている身体的・精神的特徴
および社会的属性すべてを獲得する以前に、
私たちがすでに存在していたことは間違いありません。

通常私たちが自分と思っているものは、
単に<いま>この身体の周辺で起こっているひとつの物語、
観念にすぎないとも言えそうです。

そして、臨済禅師の公案です。
「あなたの父親や母親もまだ生まれていなかったときの
 あなたとは誰なのか?」と。

それは【<いま・ここ>で起こっている思考】
すら存在しないときにも在るものでしょう。
それは【<いま・ここ>で起こっている思考】
に気づいているものとも言えます。
それは【<いま・ここ>で起こっている思考】
の背景と言えるかもしれません。

あるいは、
その【<いま・ここ>で起こっている思考】の背景を、
(そこに思考が起こっていようといまいとに関わらず)、
【<いま・ここ>】と呼んでいるのかもしれません。

ただし、どんな観念化も起こっていない状態を、
【<いま・ここ>】と観念化すること自体、
もともと誤りでしかありえないでしょう。

「父母未生以前本来の面目」を一つの観念で表すのは、
本来はもちろん誤解でしかありえません。

それは観念化を可能にするものではあっても、
それ自体は観念化を拒絶するものでもあることでしょう。
どんな観念化もありえないそこには、
解決されるべきいかなるものも存在しません。

もし「あなた」が
【<いま・ここ>で起こっている思考】ではないのなら、
では「あなた」とはいったい何なのでしょうか?
そもそも「あなた」は存在するのでしょうか?

それともあなたは、
自分が存在することだけは知っているのでしょうか?

3-5思考を映し出しているもの

仏陀の悟りは端的に「四聖諦(Four Noble Truths)」と呼ばれています。

仏教が説く四種の基本的な真理です。

①それは、
 私たちが自分の人生だと思って生きているこの人生は、
 じつは幻影の人生、迷妄の人生であり、
 そのように生きる者にとっては、
 そのように生きられる世界は一切が苦(ドゥッカ)である。
 という真実です。【苦諦(くたい)】

②しかし、
 私たちはそのように運命づけられているのではない。
 したがって必ずしもそうである必要はなく、
 私たちはその迷妄の夢から覚めることができる。
 なぜなら、そのように苦しまなければならないのは、
 私たちがこの迷妄の夢を現実だと勘違いし、
 自分がその世界の中で生きているのだと誤解して、
 その夢が生み出す幻影の中でさまざまの欲望を抱き、
 自分の描いた欲望に妄執し、振り回され、
 そして満たされることなく挫折し、苦悩するからにすぎない。
 という真実です。【集諦(じったい)】

③しかし、
 私たちはこの苦(ドゥッカ)の原因である迷妄の夢を
 打ち破ることができる。
 この無常の世界がじつは夢が創り出す幻影であることを見破り、
 それまで自分と見なしていた者は
 単にその夢の一部にすぎないことを知り、
 その幻影の中で幸福を求めることをやめ、
 無常の世界を超越し、現象への執着を断ち、
 苦しみを滅ぼした悟りの境地に至ることができる。
 という真実です。【滅諦(めったい)】

④そして、
 その悟りに至るための実践の道もすでに明らかになっている。
 悟りに至るためには心が生み出すさまざまな極端を避け、
 心の生み出すさまざまな幻影の観照を主体とした
 八つの正しい道(八正道)に従うべきである。
 という真実です。【道諦(どうたい)】

自分が誰であるかを百人に問えば、
百通りの答えが返ってくることでしょう。
とはいえ、返ってくる答えの大部分が、
この世でのさまざまな属性を伴った
誰かの定義であることは疑いありません。

誰もが仏陀の道を求めているわけではありません。
アメリカ社会に「マインドフルネス」瞑想を導入しようとした
カバット・ジン博士が、
「マインドフルネスストレス低減法」から仏教色を払拭しよう
としたのは適切な判断だったと思われます。

しかし「マインドフルネス」瞑想の元になっている仏陀の教えが、
この「四聖諦」であることも事実です。

20世紀のインドの神秘家Oshoは次のように語っています。

 世界と夢が同じレベルにあると見なすことは、
 インドの叡智の最重要な貢献の1つだ。
 この世界が単なる夢にすぎないという結論に、
 あえて近づいた人々は他にいない。
 『Behind a Thousand Names(8章、p5)』

 マハーヴィーラと仏陀は、
 これもまた夢だと言った目覚めた人々の中の二人だ。
 そして死が来ると、
 この認識はありとあらゆる人々によって経験される。
 『Religion’s Expiration Date(8章、p5)』

 夢の中では、人は常に目撃者であり、参加者は誰一人いない。
 どんな状況の中でも、あなたはけっして登場している役者ではない。
 あなたは自分を役者と見なしているかもしれないが、
 あなたは常に観客だ。
 見る者、見ている者なのだ。
 『Dimensions beyond the Known(4章、p4)』

 現実である唯一のもの、
 あるいはあなたが確信できる唯一のものは、あなただ。
 あなたが見ているものではなく、見ている当人だ。
 夢が存在するためには、その夢が非現実でも現実でも、
 それは要点ではない。
 だが夢が存在するためには、
 たとえその夢が非現実であっても、現実の見る者が必要なのだ。
 『Finding Your Own Way(9章、p8)』

私たちは習慣的に常に、思考、身体、世界、場所、
物事と言った現れに注意を向けているため、
それらの対象物に【気づいている「意識」】は、
自分が朝目覚めるときに目覚めているのだと思っています。

つまり、その【気づいている「意識」】を、
“自分という身体”の所有物だと思っているわけです。

しかし実際は、私たちが朝目覚める前にも、
その【気づいている「意識」】という背景は存在しています。
私たちが夜寝ていて「個人的な夢」を見ているときにも、
その【気づいている「意識」】という背景は存在しています。
私たちが夢見のない眠りの中で熟睡しているときにも、
その【気づいている「意識」】という背景は存在しています。

だからこそ、私たちは自分が「グッスリ眠った」と知っているのです。
熟睡中のとき、存在していないのは
むしろ「私たち」の方なのです。

しかしその【気づいている「意識」】という背景が
存在していないことはありません。

【気づいている「意識」】という背景は永遠に存在しています。

4.マインドフルネスの実施方法

たぶん「マインドフルネス」瞑想をしようとする人には
何らかの目的があることでしょう。
おそらく何の目的もなく、ただ
「マインドフルネス」瞑想をしてみようとする人はいないでしょうから。

「マインドフルネス」瞑想に出会う人々は、
そこに至る経緯も個人的状況も、
始めてみようとする動機も目的も、その切実性も、
一人ひとりで異なるはずです。

そして「マインドフルネス」瞑想は、
求める人の個々の状況やエネルギーに応じて、
それぞれそれにふさわしい効果をもたらすだろうと思われます。

藤田 一照さんの論文によると、
カバット・ジン博士は「ドゥッカ・マグネット(dukkha magnet)」
という比喩をよく使われているそうです。

さまざまな事情で仏陀が語る「ドゥッカ」に直面し苦しんでいる人々が、
そこからの解放を求めて磁力のような力で引き寄せられてくる場所として
博士は「ストレス低減センター」を創設したのだそうです。

一方には、
そのような耐え難い慢性の痛みを抱え、
もう他に頼るべきところもなく、
最後の砦として来訪する患者を迎えるような施設が用意する
「マインドフルネス」瞑想もあるでしょう。

そして、もう一方には、
たとえば意欲溢れる優秀な社員の能力開発を目的に
エリート企業が社員研修に取り入れるような
「マインドフルネス」コースなどもあることでしょう。
もちろん、それらのコースの詳細が同じであるはずはありません。

そして「マインドフルネス」瞑想自体は、
個人が抱える肉体的および精神的苦しみからの解放、
社会への適応といった動機や目的に対応する機能側面も備えていれば、
あるいは“動機や目的”そのものからの解放といった
必要にさえ対応できる機能側面を備えているはずです。
そして、
求める個々人のエネルギーの必要性と切迫度に応じた
効果・反応が起こることでしょう。

これからは日本でも
「マインドフルネス」瞑想を学んだ治療者が在籍している
医療機関や相談機関、瞑想所などが増えてくると思われます。

また、就職を希望する障害や難病のある人に対して、
就職までの一連の流れをサポートする就労移行支援事業所などでも、
集中力向上などを目的とするプログラムとして
マインドフルネス瞑想を導入しているところがあるようです。

それぞれの施設や指導者で、用意されているコースや実践方法に、
目的に応じたバリエーションがあることでしょうが、
そこで参加者が実習する「マインドフルネス」のエッセンスは
同じだと言えるでしょう。

それは思考に流れるエネルギーの中断と、
<いま>起こっていることへのフォーカスです。
<いま>起こっている現実にただ気づき、
その現実をあれこれ判断せずに、ただ受け容れることです。

自分一人で「マインドフルネス」瞑想をする場合も、それは同じです。

「マインドフルネス」瞑想には
・「座る瞑想」 ・「歩く瞑想」 ・「ボディスキャン」 
・「マインドフルネスヨガ」など、
 一定の時間を用意して集中的に行うべき瞑想と、
 日常生活での応用編と言える、
・「食べる瞑想」 ・「マインドフルリスニング」 などがあります。

ここでは代表的な「座る瞑想」「歩く瞑想」「ボディスキャン」の
3つの瞑想をご紹介します。

●「座る瞑想」
 ・座り方
  (椅子に座るとき)
  両ひざの位置が腰骨の位置と同じか、
  腰骨より低い位置にあるような姿勢をとります。
  背筋を伸ばして背骨の下のほうがやや前方に押し出した感じで座ります。
  (椅子に座るとき)
  座骨の下に座布団かクッションを置いて、
  腰骨が膝と同じかより高い位置にあるようにします。
  結跏趺坐、半跏趺坐、正座、安楽座など
  自分にあった姿勢を選んでください。
  背筋を伸ばして背骨の下のほうがやや前方に押し出した感じで座ります。
・【呼吸を観察する瞑想】
  呼吸をコントロールしようとせず、自然にまかせます。
  鼻孔の感覚に意識を集中するか、
  空気が鼻から腹まで移動する感じを意識するか、
  どちらか自分が集中しやすい方でやってください。
  注意がそれたら、自分の意志で、呼吸に注意を戻します。
  瞑想中、何度でもこれを繰り返します。
  この繰り返しがマインドフルネスの練習です。
・【5段階瞑想】
  1.呼吸を観察する瞑想:
  2.身体全体を観察する瞑想:
    頭の天辺から、足先まで体全体の感覚を同時に観察します。
  3.音を観察する瞑想:
    身体の中から聞こえてくる音、部屋の中から聞こえてくる音、
    部屋の外から聞こえてくる音、音の強さや高さ、リズム、
    音色などできるだけ詳しく観察します。
  4.思考・感情を観察する瞑想:
    自分の心の中に沸き起こる「考え」や「感情」を観察の対象に含めます。
  5.何も選択しない瞑想:
    「呼吸」、「身体全体の感覚」、「音」、「考えや感情」といった、
    自分が今体験していることをすべて意識に含めて観察します。

●「歩く瞑想」
 ・立つ
  まっすぐに立ち上がって、背筋を伸ばして、肩と腕の力を抜きます。
  手は身体の前か後ろで組みます。あるいは、身体の横に添えておきます。
 ・ゆっくりと歩く
  片方の足の裏に意識を集中し、
 「片足を上げる」、「空中を前に進める」、「床に下ろす」
  のそれぞれを分けて観察します。
 ・身体の向きを変えて折り返す
  真っ直ぐ歩けるところまで歩いたら、
  立ち止まって身体の向きを反対側に変えて引き返します。
 ・心が観察から離れたら、それに気が付いて観察に戻る
  途中で意識がそれて、 別のことを考えていたら、
  また身体の動作に意識を戻します。
  「歩く瞑想」は、身体の動作を意識した瞑想なので、
  日常生活にも応用できる瞑想です。

●「ボディー・スキャン」
 ボディスキャンとは、身体の各部分の感覚をありのままに
 観察していく瞑想です。
 マインドフルネスストレス低減法(MBSR) の8週間のプログラムで
 最初の週に練習する瞑想です。
 自分の身体の感覚を向上させて、
 自分の感情や思考を観察するための手がかりとして、
 体の感覚を感じる能力のベースを涵養する目的もあります。
 ・場所と時間の確保:
  自宅で一人だけで横になれる場所を確保します。
  布団やベッドのように柔らかすぎると
  寝てしまうので、カーペットの床やヨガマット、
  毛布の上がよいでしょう。
 ・ボディスキャンの順番:概ね次の順序で行われます。
  身体全体の感覚の観察
  呼吸の観察
  意識を左足の足先に向けて、その後、足の裏、足首、脛、ふくらはぎ、
  膝、太ももをそれぞれ観察。
  意識を右足の足先に移動させて、
  左足と同様に右足の各部分と右足全体を観察。
  胴体の各部分と胴体全体を観察。
  両手の各部分と両手の全体を観察。
  頭部の各部分と頭部全体を観察。
  身体全体を観察。

5.マインドフルネスへの入り口

5-1創造性・効率性を上げたい

「マインドフルネス」瞑想にはさまざまな入り口があります。

縁あって「マインドフルネス」瞑想に近づいて来る方々には
いろいろなタイプがあると思います。

なかでも最近大企業などの研修で参加した方々は、
とてもポジティブな意味合いで近づいてきた方々が多いかもしれません。
とはいえ、それでも現代社会に生きる私たちは、
多くのストレスに晒されています。

カバット・ジン博士が西洋世界に紹介した「マインドフルネス」瞑想は、
テクノストレスさえ問題になるほどの
現代高度ストレスの社会の時流にマッチして、
じょじょに多様な慢性的ストレス症状に苦しむ人々だけでなく、
企業社会の先端的中核部分の管理者たちにまで認知されることになりました。

いわば絶えざる思考過剰状態にある私たち現代人にとっては、
脳のデフォルトモードネットワーク(DMN)の中で
つねに再確認している“事実認識”が、
実際は、単に<いま・ここ>で起こっている一つの思考にすぎない、
と気づかされることは、
それだけでも大変なストレス解放の素地を用意することでした。

「マインドフルネス」瞑想は、
心臓発作や腰痛、不眠症など肉体的な痛みだけでなく、
精神的な痛みを抱える患者や寛解期のうつ病患者などを対象にして
エビデンスをともなう広範な治療効果を上げはじめます。

なぜ効果があるのかその治癒の機序が明らかでないにもかかわらず、
実際に多くの被治療者の状態が改善しはじめたのです。

当初、うつ病の再発予防のためのプログラムとして開発された
「マインドフルネス認知療法(MBCT)」は、
うつ病の再発予防を超えた多彩な領域での効果が実証され、
応用範囲が拡大しているようです。

例えば、
ポジティブな感情を増す、
ネガティブな感情を減らす、
人生のゴールの明確化を助ける、
恐怖や不安適応的に調整する、
といった効果が示されるとなると、
これはもはや現代の企業社会の運営管理部門にとっては
中核的な関心領域になりつつあるとさえ言えるかもしれません。

カバット・ジン博士が導入した「マインドフルネス」瞑想は、
【今ここでの経験に、評価や判断を加えることなく、
 能動的な注意を向けること】を被治療者に求めます。

逆に言うと、それ以上は何も求めないとも言えます。

被治療者本人から
問題になっている状況を細かく聞き取りするようなこともなく、
どのようなネガティブな部分を修正するべきなのかを
特定するようなこともありません。

ただ当人が「マインドフルネス」瞑想の指示に従って
自分の呼吸に注意を向け、注意が途切れて心に雑念がわいてきたら、
それを評価することなく、ただまた呼吸に注意を戻すだけです。

参加者は、<いま・ここで>起こっていることに、
ただ【能動的な注意を向ける】ように促されているだけで、
その他には何も要求されていません。

特に、自分に関して起こっていることを、
分析し、評価し、判断することを促されてはいません。
むしろ起こっている事実の分析・評価・判断は、
避けるように指導されていると言えそうです。
それだけのことなのに、
多様な問題を抱えていた被治療者の状態が正常化し、
改善し始めるのです。

「マインドフルネス」瞑想の実習者は、ただ考えることを休めて、
<いま・ここで>実際に起こっていることに、
【能動的な注意を向ける】だけです。

当人の意識的行為はそれだけですが、そこで起こることはあたかも、
それまで思考に流れていた意識エネルギーが、
(これまで余裕がなくて、必要な手当ができずにいた)
生命体部署の修復に回って、
そのバランス回復のためのエネルギーとして転用されるかのようです。

オーバーロード状態にあった身体部分が必要な休息を得て、
エネルギーが充足してバランスを回復し、
正常化して(健康になって)くると、
生命体内にエネルギーが溢れてきます。
それが新たな創造に向かう興味のエネルギーとなって流れ出します。

創造性が展開する方向や形は、
それぞれの個人の個性・関心によることです。
もしサバイバルに関わるどんな束縛もなく、自由が許されるなら、
当人の個性の赴くままに、最も自然な創造性が発揮されることでしょう。
おそらくそれが全体にとって最善の創造性となるのでしょう。
なぜなら、その個人は
そのような創造を担う個性(身体)として誕生しているわけですから。

むろん、現在地球上をほぼ覆い尽くした金融資本主義の下では、
大部分の人々は企業社会に固有の
ある種の目的思考(動機)に拘束されざるをえません。
そこでは効率性などの
経済的価値から自由になることは難しいかもしれません。

しかしそれでも、過剰で無用な思考から解放されたエネルギーは、
それぞれの個人が置かれた環境の中で、
その個性にふさわしい新たな創造性を展開することになるでしょう。

その意味で、
「マインドフルネス認知療法(MBCT)」の一般的効果として着目されている、
ポジティブな感情を増す、ネガティブな感情を減らす、
人生のゴールの明確化を助ける、恐怖や不安を適応的に調整するなどは、
心身の健康にとってはまさに万能薬的な効果とさえ言えるものです。

「創造性を高める」「効率を上げる」と言った関心で、
「マインドフルネス」瞑想に中核的社員を送り出すという企業の選択にも、
大きな妥当性が感じられます。
おそらく、「マインドフルネス」瞑想は、
当初期待していた以上の成果を実証して、
送り出した担当者たちを驚かせたのかもしれません。

科学的に認められている効果は、具体的に以下のものがあります。

・疲労が解消される ・ストレスが軽減される ・創造性が高まる 
・集中力が高まる  ・記憶力が高まる  ・共感性が高まる
・眠りが深くなる   ・感情が安定する

5-2自分が何をしたいか知りたい

自分が何をしたいのかわからない、という人はたくさんいるものです。
しかし最初からそのような人は実際はいなかったでしょう。

赤ん坊として生まれてきたときはやる気満々で、
見よう見真似で、手当り次第に
たくさんのことを実現したい思いにあふれています。

運が良くて、温かな優しい環境に生まれていれば、
何を実現しても周りの大人たちから褒めてもらえたことでしょう。
実現できたという体験が増えるにつれて、どんどん自信ができ、
自分がやる気になれば、できないことなどないという気分が
溢れていたはずです。.

しかしそのうち、自分がしたい思ったことを、
まわりの大人たちから、そんなことはできっこない、とか、
そういうことをして生活できるのは、ほんの一握りの天才だけで、
(お前のような)普通の人間にはそれは無理なのだ、
などと言われたりすることが起きてきます。

信頼している大人から、そんなふうに告げられてしまうと、
それを跳ねのけてやってみようと思うことは、
それこそ誰にでも起こることではないかもしれません。
そのような体験や挫折感は、
自分は何でも実現できるわけではない、
自分にはできないことがある、
という思考となって当人のなかに蓄積してゆくことでしょう。

そのうち、自分ができることは、
誰でもできるつまらないことなのだ、という思考が入ってきます。
それがやがて、
自分は誰でもできるつまらないことしかできないようだ、
という固定観念として本人の無意識の中に沈潜してゆきます。

そしてもう一つ、
私たちは特別に優遇された赤ん坊時代をすぎると、
やがて早くからルールを守るために我慢することを
覚えさせられることになります。
そして我慢することが当たり前になると、
だんだん自分が我慢していることすら自覚できなくなります。
周りの期待に答えるため、規則を守るために、
自分を抑え、自分がやりたいことを我慢することに、
エネルギーを使ってしまう。

そのようにして起こってくるのが、
自分が何をしたいのかがわからない、という意識状態です。

どうせ自分には大したことができるわけではないし、
自分がしたいことをして生活できるはずもない。
それにこれといって特にやりたいことがあるわけでもない、
という状態です。

このような状態は、実際は
私たちが教えられている固有の価値観・宗教観・道徳観にもとづき、
比較を前提にしたをこの惑星の教育システムが
不可避的に生じさせているものです。
しかしそれでも、
このいわゆる“教育課程”というひたすら自己価値観を低めるための
洗脳システムを通り抜けて一定の年齢になれば、
人は何らかの職業に就かなければならず、
その環境で求められる職能を果たさなければなりません。

このような状況の中のどこかで、
いったい自分は何をしたいのだろう?
何がしたくて生まれてきたのだろうか?
という疑問に本気で突き当たることが起こるかもしれません。

そして出口を求め、何らかの解決策を求めて、
「マインドフルネス」瞑想に出会うかもしれません。

「マインドフルネス」瞑想はもちろん、
どんな出来合いの解決策を用意しているわけでもありません。

ただ、
【今ここでの経験に、評価や判断を加えることなく、
 能動的な注意を向けること】を求めるだけです。

参加者の中で空回りしている無用な思考活動を
沈静化させるだけだとも言えるでしょう。

ハートへの本物の問いかけがそこにあれば、
ハートは必ずその問いかけの真摯さとエネルギーに
ふさわしい解答を感情のシグナルで知らせてくれるでしょう。

5-3もっと楽になりたい

現在この惑星で展開されているような高度ストレス社会では、
人々は大なり小なり生体内にストレスを抱えています。

ストレスとはいったい何でしょうか?
あなたはどんなときにストレスを感じますか?
自分がどんなときにストレスを感じるかを思い出すことができれば、
ストレスが何かは誰にでもわかります。

ストレスとは自分を表現できていないという生命体の叫びです。
自分から出てくる自然な表現を我慢して、
周囲からの期待(と当人が思っていること)に
無理をして合わせていることから生命体が受けるダメージです。

この惑星では誰もが誰もに対して、
つねに態度を使い分けて生きることを余儀なくされます。
このことがどれほど不自然なことなのか、
そしてそれが生命体にどれほどのダメージを与えることなのかを
私たちは忘れているかもしれません。
しかしこの星では、
それに熟練することが社会に適応することであり、
一人前になることだと理解されているのです。
その使い分けが未熟な者、その使い分けが満足にできない者が、
何らかの意味での“子供”、あるいは社会不適応者になるわけです。

赤ん坊はその使い分けをまったくしません。
赤ん坊にはまだその使い分けをする当人が存在しないからです。

赤ん坊には、まったく比較に依存しない、
無根拠の、ただ自然発生的な高い自己価値観があります。

とはいえ人間の子供は非常な早産状態で生まれるため、
自分で自分の生命を維持できるだけの能力をもっていません。
その能力を身につけるには、
まだ当分のあいだ周りの大人たちの庇護を受ける必要があるのです。

親を含めたまわりの大人たちは、
たとえどれほど善意であったとしても、
自分が教えられ今では自分が信じている
価値観・道徳観・宗教観・金銭感覚などにもとづく教育を
子供に授けるしかありません。
かくして、比較を前提とし、テストで序列をつけ、
ひたすら自己価値観を低めるための教育システムが
延々と引き継がれることになるわけです。

たとえどれほど優秀・有能な人だとしても、
すべてをできる人などいませんし、またそんな必要もありません。
教育と称してすべての子供たちにあらゆる科目を勉強させ、
その一時的記憶をテストして順番をつけることに、
自己価値観を低める以外のどんな機能がありえるでしょうか?

実際は地球での体験を楽しむためには、
前もって知識を教え込む必要などまったくなかったことでしょう。
溢れるばかりの好奇心をもつ子供にとって、
興味があることに関する知識を
貪るように獲得してゆく過程こそが喜びであり、
必要な知識は放っておいても本人が勝手に覚えていくはずだからです。

子供が知りたがってもいない知識を予め教えることは、
当人から経験のチャンスを奪い、
自信をつける機会を奪う以外の機能を果たすことはないでしょう。
その子が地上での人生に何を求めるかは、
その子の専権事項であり、人生には体験を楽しむ以外の
どんな目的もありえないわけですから。

とはいえ、
私たちはおそらくこの地上の人生に関わるに当たって、
それまでのすべての記憶からは切り離されるという
前提を受け容れて来たのかもしれません。
それがどれほど過酷な条件なのかを充分に理解することなく……。
それは、言うなれば、自分の“安全ブイ”を切り離すほどの
危険な賭けだったのかもしれません。

何よりもこの惑星上で展開されている社会で、
私たちが徹底的に教育され誘導されるのは、
つねに現象として起こる外界の出来事に注意を向けることです。

そしてそこで起こる「思考」に絶えずフォーカスするように
誘導されることになります。
そしてその<いま>の「思考」が次の現実を創造している、
という波動世界の事実だけは、けっして教えられることがありません。

かくて地球社会での現実は、
自分が創造している遊びではなく、
外から押し寄せてくる客観的に存在する何かになります。

ゲームとして考えるなら、
これは最高の恐怖ゲームかもしれません。
私たちはあらゆる瞬間に、サバイバルゲームの前面に立たされ、
動機をもち、欲望をもって出来事に立ち向かい、
できるだけ急いで事態に対処するように促され、
リラックスするという貴重な時間からは
可能なかぎり遠ざけられると言えるでしょう。

これで生命体がストレスを受けなければ、
そのほうが不思議だと言えるでしょう。
つねに過剰なストレスに晒されて、
私たちはエネルギーの充足状態をほとんど知りません。

そして「休みたい」「もっと楽になりたい」という瞬間に
私たちがあてがわれるのは、
さらなる刺激を掻き立てるいわゆる“娯楽”です。

そのような高度ストレス社会の最先端を突っ走ってきたアメリカ社会に、
仏陀が伝えた叡智を引き継ぐ
「マインドフルネス」瞑想が紹介された意味は、
途方もなく大きかったのかもしれません。

「マインドフルネス」瞑想は、
まず存在しない過去の記憶と、未来の想像のあいだを往復する
思考中毒状態を解除することからはじまるからです。

【もっと楽になりたい】という被治療者の本心からの願いは、
ここではじめて本当のくつろぎへの戸口に
立つことができたと思われます。

5-4生きる意味がわからない

「生きる意味がわからない」という思考が
私たちを襲うことがあります。

むしろこの時期この地球には、
(もしそのようなことを計測できるとしたら)、
「生きる意味がわからない」という思考に
襲われたことがない人間のほうが稀かもしれません。

「生きる意味がわからない」とは、
上の年齢層の人々にとっては、
自分がこれまで慣れ親しみ、
信頼してきた価値観や判断枠では
どう対応したらよいか「わからない」ほどの、
猛烈な速さで連続的に変動するルールや常識、
そして処理能力を超えた大量の情報に晒されたときに起きる、
当然の生体反応だと言えます。

あるいは逆に、下の年齢層の人々にとっては、
この「生きる意味がわからない」という思考は、
新たにこの地上に訪れた新規参入者たちに起こった、
この惑星の文化との至近遭遇体験のショック症状なのかもしれません。
あまりにも無意味な教育制度やそこでの無意味な拘束ルール。

まったく、意味がわからない。
これはいったい誰のための、何のための制度なのか?

しかし、新規参入者たちに起きる反応も一様ではありません。

大人たちのやり方、ここでのルールをいち早く見抜き、
この暗黙の序列を生み出すシステムのなかで、
自分が受けているストレスを
より弱者と思われる他者に振り向けることで、
自らのエネルギー回復を実現しようととすることもあるかもしれません。

それぞれの個人が置かれた多様な文脈の中で、
この「生きる意味がわからない」状態が起こることでしょう。
それぞれの意味合いで、
誰もが自分で状況をコントロールしていたいのに、
とうていそれが可能な状況のようには思えないのです。
そしてそのまま手放しで先に進めるとは思えません。

このままその状況に突っ込んでいったら、
自分がそこでどんなことを体験し、
どんなことを感じるのか見当もつかない。
どんな恐怖が起こり、どんな怒りが爆発するかわからない。

それは自分が感じたい範囲を超えるし、
そんなことを感じたくはないのです。

現在地球に降り注ぎ始めている光の量は
生半可なものではありません。
これからこの地球が通り抜けようとしている大変動には、
これまで地上の常識が前提してきたパラダイムからは
まったく想像もつかないような膨大なデータに人類がアクセスし、
それを想像する過程が含まれているからです。

私たち地球人類は、長い長いあいだにわたって、
他の存在が人間について語ったことを信じてきました。
そしてその間、私たちは
それ以外の情報にアクセスすることができまませんでした。
その手段を奪われていたからです。

それはあたかも、宇宙内の隔離病院に閉じ込められて、
外宇宙とのいっさいの交流を遮断されていた
といった状況にも喩えられるでしょう。
そしていま、その長い長い拘束期間が終わり、
新しい情報の光がこの地上に降り注ぎ始めたようなもの
と理解したほうがいいかもしれません。

これまであまりにも長くその拘束服を着慣れてきた私たちは、
まだ自由というものの味わいを知りません。
急速な解放状態はあまりにも恐ろしく、
身体の自然な反応は
従来の慣れ親しんだ状態に戻ろうとすることです。

もしかしたら、私たち以上の恐慌状態に陥っているのは、
このいわば“隔離病院”の管理者たちかもしれません。
多次元宇宙の中心とも思われる方向から、
これまで暗闇に閉ざされたこの宇宙の一隅に
膨大な情報の光が降り注ぎ始めていることを感じているからです。

彼らはいままでのやり方が
限界に達していることはよく知っています。
早急に体制を新しく作り直さなくてはならない。
大慌てで急いでいることでしょう。
早急に拘束の度を高める体制を整えなくてはならない
と感じているはずです。

これまで慣れ親しんできた“安心・安全”の範囲に
とどまろうとする人たちにとっては、
その“安心・安全”の幅はますます絞り込まれ、窮屈になり、
いや増しに拘束の度を加える一方の、
きわめて過酷な経験にもなりかねません。

現在この地上の人生を送っている多くの人々が、
たとえ当人が顕在意識でそれを自覚していないまでも、
この「生きる意味がわからない」という思考を
内在させていることでしょう。

しかしこのドラマの幕はすでに上がっており、
これを途中で止めることは誰にもできません。
私たちの神経組織には、
想像を超えるデータが殺到することになりそうです。
その状況に対応できるのは、
これまで以上に想像を巡らせて、
状況をコントロールしようとすることではなくて、
自分に起こってくる反応を、どんな判断も下すことなく、
ただ見ていられる力かもしれません。

仏陀の叡智から流れ出した「マインドフルネス」瞑想は、
そこでも
【今ここでの経験に、評価や判断を加えることなく、
 能動的な注意を向けること】を思い出させてくれることでしょう。

5-5生きていたくない・死にたい

人生体験の中で「生きていたくない」とか
「死にたい」という気分に見舞われることは、
けっして珍しいことではないかもしれません。

若い方は若い方なりの経験値と感受性の中で、
年長者は年長者なりの経験値と感受性の中で、
そのような気分に襲われる可能性はあるのではないでしょうか。

特に当人が理解する自分の現状がとても我慢できないと思えば、
「生きていたくない」という気分になることくらいは、
ごく普通に起こることかもしれません。

この類のいわゆるネガティブな気分は、
DNAや生育環境によって個々人で
傾向性が大きく異ることも考えられます。
そのため、ある環境に育った方からすると、
「生きていたくない」とか「死にたい」という表現は
大変な状況に聞こえるかもしれませんし、
別の方にとっては、よく耳にする、
日常的な表現のひとつにすぎないと感じられるかもしれません。

特に一時的な感情的爆発としての
「生きていたくない」とか「死にたい」といった気分は、
誰もが味わうはずの挫折の瞬間にはありがちなことで、
むしろ一度も感じたことがない人のほうが珍しいかもしれません。

ただそのような一時的な感情的爆発を経験した方が、
そのことだけで「マインドフルネス」瞑想に導かれる
というようなことは、あまり起こりそうにもありません。
おそらく、
「マインドフルネス」瞑想に導かれる動機としての
「生きていたくない」とか「死にたい」といった感情には、
精神的にもあるいは霊的にも、
もう少し深く根づいた意味合いがありそうです。

人生には、
いま自分が生きている現在の状況や予見される未来の状況が、
絶望的に思われる瞬間が起こる可能性があるものです。
そして、それを改善できる方策が当人に見当たらないとき、
ただ何もせずにその予見される
絶望的な未来に向かって行くのは耐えらない、
という瞬間はいかにもありそうなことです。

私たちのマインドは、
そのような場面でなおかつ“自分”にできる何かを求めて、
いろいろ画策するのではないでしょうか。

<いま>「苦しみが起こっている」ことを
ただ認めるだけでは気がすまず、
「生きていたくない」とか「死にたい」といった
別の断定をそれに加えることで、
「何か」を実現したかのような気がするのかもしれません。

マインドは、
「自分は何もできない」と認めることができません。
それはマインドにとっていちばん苦手なことだと言えるでしょう
「自分は何もできない」と認めることは、
マインドにとっては、
いわば自己否定にもつながることだからです。

だからマインドにとっては
「自分は何もできない」とただ認めるよりは、
「生きていたくない」とか「死にたい」といったある種の断定、
あるいは「人生は生きるに値しない」といった判断に突き進むほうが、
より易しいということはありえます。

何ができないと言って、
新たな思考を生み出すのをやめることほど、
マインドにとって難しいことはありません。
しかしどんなに思考が頑張っても、
思考は思考から出る方法を捻出することはできません。

それでも、「生きていたくない」「死にたい」という感情は
蓄積し続けるかもしれません。
そんなつらい状況、
「うつ」とも言えるような症状が続いたときこそ、
「マインドフルネス」瞑想に導かれるタイミングなのかもしれません。

東南アジアの上座仏教の導師たちがアメリカに紹介し、
カバット・ジン博士が医療法の手法として導入した
「マインドフルネス」瞑想は
【今ここでの経験に、評価や判断を加えることなく、
 能動的な注意を向けること】と定義されています。

常習的ネガティブ思考のデフォルトモードネットワーク(DMN)の中で、
ひたすらネガティブな過去の記憶を
未来に投影し続けているうつ状態の被治療者は、
ここでただ<いま>現に起こっている呼吸に、
【能動的な注意を向けること】を求められます。

そしてその【能動的な注意】が途切れて、
放心状態の中でまたDMNが再開していたことに気づいても、
それに【評価や判断を加えることなく】、
また【能動的な注意を向けること】にもどるのです。

これは、翻訳語の上では「マインドフルネス」
(注意のマインドで一杯になっていること)ですが、
実質的には、マインドに注意を払わないこととも言えるでしょう。
そして、これこそがマインドにはできないことであり、
「うつ」状態に陥っていた生命体が
最も強烈に求めていたことだったでしょう。

過剰な思考に漏洩していた意識エネルギーが、
生命体の必要とされているところに向けて流れ出し、
必要なバランス修復作業を行なってくれるはずです。
癒やしが起こるのです。

5-6私とは何か?

「あなたは誰ですか?」と聞かれたら、
私たちは普通、
自分は何という名前で、こんなことをしている者です、
というふうに、身体として誕生して以降、
その身体でたどった経験の記憶を、
その場の必要に応じて簡単に紹介することでしょう。

しかし、私たちが普段あまり意識しないことですが、
その名前や経歴は
誕生してきた赤ん坊自身がもってきたものでないことは、
そう自己紹介する当人自身も、
またまわりの誰もが知っていることです。

生まれてきたその子は、その自分の名前どころか、
自分がどの家に生まれてきたのか、
自分が男なのか女なのか、
自分がどこの国の人間なのか、
さらには自分が地球人であることすら知らなかったわけです。

どこどこの誰々という、
私たちが普通自己紹介するときの“自分”とは、
私たちが誕生後さまざまな教育によって身につけた
“個人的アイデンティティー”と言えるでしょう。
では、
その“個人的アイデンティティー”を身にまとう以前のその子は、
どこの誰と教わる以前は、
存在していなかったのでしょうか?

いいえ、そんなことはありません。
その子が名前をつけられる以前から
生きている意識生命体として存在していたことは、
その子を産んだ母親が一番良く知っていることでしょう。

あるいは名前をつけたのが父親なら、
その名前の人間は自分が名付ける以前は存在しなかったこと、
しかし赤ん坊自身は名前が付く前から存在していたことを
よく知っているはずです。

では、その名前が付く前のその人、
生まれてきたその人は誰なのか?

もし、生まれてきた当人、
その赤ん坊本人に聞くことができるなら、
もしかしたら、誕生後何ヶ月目かのある微かな記憶を、
あとから思い出すことができるかもしれません。

では、それ以前の記憶を思い出すことができるのか?
その記憶以前のあなたは誰なのか?ともし聞かれたら、
その人は「私は知らない」と答えるしかないことでしょう。

記憶以前の“自分”を、思い出せる人はいません。
なぜなら、そこには思い出す当人がまだ存在していないからです。
まだその身体の中に、
記憶を集積するための記憶の参照点が形成されていないからです。

では、記憶の参照点が形成されていなければ、
そこには何も存在しないのか?
いいえ、そこに記憶の参照点が形成される、
その背景は存在していたはずです。

毎朝、目が覚めて起き上がるとき、
私たちは日常の世界に目覚めます。

しかし、そのとき、
私たちが自分の存在に目覚める以前、
私たちが個人的な夢を見ていたときにも、
そして夢のない熟睡状態にあったときにも、
その背景は存在していました。
そして、
目が覚めて私たちが日常の世界を生きている<いま>も、
その背景は存在しています。

20世紀最大の見者とも言われるラマナ・マハルシに、
「私は誰か?」という有名な問いがあります。
彼が使った言葉はタミル語ですが、
そのとき彼が意味していたことを英語にすると、
じつはその意味は「Who am I?(私は誰か?)」ではなく、
「What is me?(自分とは何か?)」
という意味になると言われています。

私たちが普段こんなにも関心を払っている
「この自分とは何なのか?」

そもそも、その「自分とは存在するのだろうか?」、
というのがラマナ・マハルシの真意だというのです。

私たちの身体が
知覚の対象物であることに疑問の余地はありません。
あなたの周りの人たちは、
あなたの姿形を認めてあなたに話しかけてくるわけです。

つまり、あなたの身体は、彼らにとっての知覚の対象物です。
それだけでなく、
あなた自身も“自分”の身体を見ることができます。
あなたの「目」以外は。

鏡を使って見えるあなたの「目」は、
他人にも見えている知覚の対象物としての目であって、
知覚している主体性としてのあなたではないことは確かです。

ところで、知覚している本人のあなたと、
あなたが知覚している対象物とは、同じでしょうか?

もちろん、違います。
普段あなたは、
あなたが知覚する周りの人々や、現象世界の森羅万象を、
自分と思って接してはいないだろうと思います。

ということは、対象物を知覚している「あなた」は、
それらの知覚の対象物ではないわけです。

ならば、周りの人たちにとっても知覚の対象物であり、
あなた自身も知覚できるあなたの身体は、
「あなた」本人ではなく、
あなたの知覚の対象物だということになります。

私たちはこの“自分”の身体が自分なのだと教えられて以来、
この身体を“自分”だと思ってきただけだと言えるでしょう。
この身体は、この現象世界の一部です。
しかし、それは
その目の奥からこの世界を見ているあなたではないのです。

この奇妙な状況を、
ラマナ・マハルシは映画館でのある状況に喩えています。
もし映画のなかで、
 観客もまたドラマの一部としてスクリーン上に見られたとしたら、
 見る者と見られるものがともにスクリーン上にあることになる
と。

あなたが見ている映画の中には、
まわりの他人だけでなく、あなた自身も登場しているのです。

では、あなたはその映画を見ている観客なのでしょうか? 
それとも映画の中の登場人物のほうなのでしょうか? 
それともその両方?

仏陀が語った「四苦」とは、
この映画の中の登場人物である身体を、
映画を観ている自分と混同したことから生ずるすべての矛盾と、
その結果として味わう「苦しみ」のことです。

20世紀のインドの神秘家Oshoは次のように語ります。

 人間の意識のランプの光は宇宙全体に向かって行く。
 無限の欲望が生まれる。
 達成したいという欲望、到達したいという欲望、成りたいという欲望。
 ただ一つのものだけが忘れられる。
 それは自然なことだ。
 見ている者、知っている者、照らしている者が忘れ去られる。
 それこそが眠りの真の意味だ。
 『Flight of the Alone to the Alone(13章、p14)』

 自我(エゴ)は自己意識を通じて存在する。
 それ以外には存在しようがない。
 だが覚えておきなさい。
 自己意識というのは自己の意識ではないのだ。
 自己意識は自己想起(自己を思い出すこと)ではない。
 自己意識というのは実際はまったく意識ではないのだ。
 それひとつの無意識状態だ。
 『Returning to the Source(6章、p1)』

 意識を通してあなたは目撃を達成することができる。
 そして目撃を通してあなたは気づきを達成することができる。
 そして気づき通してあなたは「無達成」を達成することができる。
 気づきを通して、
 あなたはすでに達成されているものをすべて達成することができる。
 気づきの後には何もない。
 気づきこそが目的だ。
 『Meditation: The Art of Ecstasy(15章、p2)』