Oshoほど忍耐強いマスターもいないでしょうし、Oshoほど受難したマスターもいないのではないかと思われます。
受難のひとつは、弟子たちの恋愛沙汰でしょう。要するに関係性に関する質問。
仏陀は最初は女性を弟子にすることはありませんでしたが、女性の弟子を認めたあとも、僧侶と尼僧は別々でしたし、恋愛沙汰は禁止だったでしょう。
ところが、Oshoは女性の弟子の方が多いかもしれないぐらいで、愛について語り、すべての自由をゆるしていました。
「私は瞑想(メディテーション)のことしか
話していないし、瞑想こそがすべてにつける薬(メディスン)だ」
と語るOsho。
なのに弟子たちの多くの質問は恋愛に関する諸々の悩み。
Oshoを通して
「あなたがたにとって、
瞑想はリストの最後にあるようだ」
と言わしめるしまつ。
延々と続く、Oshoにとってはどうでもいいことについての質問に、ついにさすがのOshoも切れちゃったのかもしれないですね。
「あなたがたはだれひとりとして
私が愛について言おうとしていることを理解していない」
とOshoから言われてしまいます。
それはともかく、Oshoがしばしば語った愛し合う男女の物語。
誰か他に好きな人ができたときには都合の良い物語ですが、愛する人からこの物語が持ち出されると、要注意です。
シュンニョは語ります。
「ミラレパと私とは7年間近くもともに過ごしましたが、いっしょに長いこと暮らしたことはありませんでした。
私たちはいつも別々のところに暮らしていて、だからこそ私たちの恋はそれほど長くつづいたのです。
ですが、インドに戻ってきてからは同じところで暮らすことになり、おかげでふたりの関係は以前よりも難しくなりました。ふたりとも別れたくはなかったけれど、いっしょにいてもほんとうにしあわせではなかったのです。
どんなカップルでも、2、3日の休暇のあいだをのぞいては、いっしょに暮らすべきではないと思います。
ふたりのあいだに広々とした空間があればあるほど、ふたりの愛は活気に満ちたものになります。ふたりとも自分の生活空間をもっていて、毎日ふたりが会えるかどうか定かでないほうがよいのです。
私がとても好きな古い物語があります。
熱烈に愛しあう男と女がいました。女は男に結婚を求めました。
そして男は、こういう条件でなら結婚しようと答えました。
「ふたりは大きな湖の両側にある
別々の家に暮らすことにしよう。
ふたりはたまに出会うだろう。
湖でボートをこいでいて出会うかもしれない。
散歩していて出会うのかもしれない。
そうした出会いはとても美しい」
Oshoはこの物語を何度も語ってくれましたが、私はこれを聞くたびに、いつもびくびくしていたものです。いまならこの物語を理解できます。そうなるまでには時間がかかりましたが。
ラジニーシプーラムでのある日のこと、Oshoが激しい口調でこんなふうに言うのを聞きました。
「あなたがたはだれひとりとして
私が愛について言おうとしている
ことを理解していない」
「Oshoと過ごしたダイヤモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)