今回のOshoの講話は、愛するということについて。
この講話のなかでOshoは、
「自分がいつも誰かを愛している
と思っていること
それは根本的に間違った考え方だ」
と言います。
私たちは、愛するということを考えるときには、いつも誰かを愛することを思います。
しかし、愛を誰かに向けたときには、あなたは愛を破壊している、とOshoは言うのです。
え~~、それってどういうことなの?
頭はかなり混乱しますが、Oshoのすごいところは、Oshoの言葉にはつねにOsho自身の実存が伴っているということなのです。
Oshoは自分の言っていることを体現しているので、それは検証可能なことなのです。
つまり、Oshoは理論として、あるいは思弁的に愛について論じているのではなく、今まさにあるOsho自身の愛のことについて語っているということなのです。
それはまさに今、そのOshoの愛を感じてみれば、感じられる人には、それは実際に体験として感じられることなので、それはそうなんだということが、ただ体験としてわかるのです。
Oshoの愛を感じることのなかで、そのOshoの語る愛について聞くことで、その愛が身にしみ込んでくるのです。
体験として、その愛を感じることができるのです。
Oshoの言葉については、そのような聞き方が可能です。
それはトランスミッション、伝達でもあります。
Oshoが愛について語るとき、その言葉とともに、Oshoの愛が伝わってくるのを感じてみてください。
そうしたときに、Oshoの愛は誰かに向けられているのではなく、まさにそれはOshoのなかから溢れ出て伝わってくるのだということがわかるでしょう。
「愛は息のようであるべきだ
それはあなたのなかの単なる質であるべきだ
あなたがだれとどこにいようとも
あるいはあなたがひとりの時でさえ
愛はあなたの中であふれ続ける」
「あなたが愛だ
愛は対象には依存しない
愛はあなたの主観の放射
あなたの魂の輝きだ」
Oshoの愛はどこまでも広く、どこまでも深い。
Oshoとともにいて感じること、それはまさに愛そのもの。
Oshoは、あなたが愛について知りたいときに、あなた自身が問うべきある質問があるといいます。
その問いを問うことで、あなたは愛について知ることになるでしょう。
何よりも、Oshoとともにいる場は、まさにOshoの語っているたくさんの愛が降り注ぐ場であったことを思いだします。
「生とは愛が花咲く機会にほかならない
あなたが生きている限り
その機会はそこにある
最後の一息までもだ
ひょっとしたら、あなたは全人生を見逃したかもしれない
それでも最後の一息
地球での最後の瞬間に
愛であることができたら
あなたは何も見逃してはいない
なぜなら ほんの一瞬の愛が
永遠の愛全体と等しいからだ」
それでは、Oshoのお話をお楽しみください。
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今日はここまでとします。
えたに