アメリカに建設されていたコミューンがどうして破壊されてしまったのかということは、いろいろと考えさせられましたが、そのひとつのヒントをシュンニョが書いてくれています。
そのヒントとは、権力欲とそれをゆるしてしまった自由と個の自覚のありかたです。
その状況は、私たちの住んでいるこの社会や世界にあるものと同じものです。
それは小さなグループやコミュニティから大きな会社、地域社会から地方や国家、世界に至るまで、多かれ少なかれ同じ構図があります。
そこに共通する人間の本性は同じだからです。
権力というのは人の魂を奪ってしまうもののようです。
そして組織のなかで、その権力をゆるしてしまったことの責任は誰にあるのでしょうか?
シュンニョは権力欲について、次のような自分の体験したエピソードを紹介しています。
「ある日、OSHOと私が乗る車に、カウボーイ姿の何人かの男たちが石を投げつけてきました。
石は当たりませんでしたが、私は彼らの顔をはっきりと見届けました。
OSHOの車の後ろには警備の車がついていましたが、私が無線で知らせたにもかかわらず、5人の警備員のだれも起こったことを憶えていませんでした。
ドライブのあと、ジーザス・グローブ(シーラの住む建物)に行き、警備隊のみんなに話をするように頼まれました。
私のエゴはふくれあがり、アドレナリンの分泌によるものでしょうでしょうか、強烈なエネルギーがほとばしるのを感じました。
部屋のだれもが私の話を聞いています。
私は彼らに助言を与え、どのようにしたら警備を改善できるかを説きました。
ミーティングは昼に終わり、私はバスに乗って食堂に向かいました。
バス停に立っているあいだも、高揚したままでした。
話すのをやめられず、まったく有頂天になってしまいました。
突然、私はあることに気づき、ずんと胸が重たくなりました。
私の感じていたのは権力の味わいです。
それは人々がそのために自分の魂を撃ってしまう麻薬です。
シーラは権力を与えたり奪ったりすることで、自分の仲間たちを支配していました。
私が思うに、権力には人を酔わせる力があり、あらゆる麻薬と同じように人の意識を破壊します。
瞑想する人は権力欲にとらわれることはありません。
それでも私たちは、シーラがその権力をもってコミューン全体を掌握するのを許してしまいました。
それは奇妙なことでした。
ですが、ラジニーシプーラムの人々には、OSHOのそば、OSHOの臨在のもとで暮らしたいという願望ゆえに、追放されることへの恐怖がありました。
私たちのそういう恐怖がシーラに権力を与えてしまいました。
私たちにはまだ、自分でものごとの責任を取る準備もできていませんでした。
決定や知識の整備を他人にまかせ、なにが起きても他人のせいにするほうが、ずっと楽でした。
責任とは自由を意味します。
そして、あるところまで成熟した人だけが責任をとれるのです。
振り返ってみると、私たちが学ばなければならなかったのは、そのことだったのでしょう。
「私の去ったあと、あなたに自由と、個の自覚(individuality)とをもたらした者として、私を憶えておいてほしい」 OSHO
• • • 彼はそういう人でした。ほんとうにそういう人でした。
私として在ることの自由は、幾層にもなった「偽りの人格」に隠された真の私を探すことからはじまります。
個としての自覚は、自分が他人と異なっていても、勇気をもってみずからを表現することによってあらわれます。
個としての私が開花するのは、私がみずからを受け容れ、なんの価値判断もまじえずに、こう宣言できるときです。
「そう、これが私です。これが私の在りようです」
シュンニョは自分の責任について、次のように述べています。
「シーラのしたことに対する責任は、私たち全員にあったのです。
私の問われるべき責任とは、なにも言わなかったことでした。
愛きょうのあるやさしい人でいるだけでは不足でした。
私には、自分の英知と理解を育て、自分が感じていることを口にする勇気を身につける必要がありました」
「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)