タリウムの毒

ネパールでのOSHOの居住先はオベロイホテルになりました。

インドを中心として数カ国で高級ホテルチェーンを展開しているオベロイホテルの総オーナーがOSHOを助けることに関心を示したのです。

OSHOは毎朝居間で講話をし、夜はホテルのダンスホールで、報道関係者や訪問者を前に講話をしました。

そんななかで、OSHOの身体が弱り、原因不明の症状がはじまりました。

あとでわかったことですが、アメリカ各地を転々と拘留されていたときにOSHOに盛られたタリウムの毒による初期症状だったのです。

ここに登場するアナンドはジュリア・ロバーツに似ていて、有能な弁護士で、その後OSHOの側近のひとりになっていく人です。

シュンニョは書いています。

アナンドが到着しました。
インド各地のオベロイ•ホテルの総オーナーであるビキ•オベロイといっしょです。

ハシヤとアナンドはデリーで彼と親しくなり、そして彼はOSHOを助けることに関心を示したのです。ふたりは一流の宿泊客として迎えられました。
ホテルの従業員たちは入口に赤い絨毯を引きました。

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ホテルの四階はサニヤシンでいっぱいになりました。
寝室はオフィスになり、そこではいつもめまぐるしい活動がくりひろげられていました。

その2、3部屋向こうの寝室では、デヴァラジとマニーシャが昼夜兼行でOSHOの講話のテープ起こしをしています。
ふたりの部屋はいつも人でいっぱいでした。
ひょっこりやってきては、ふたりの仕事を手伝っていく人たちもいました。

プレムダもそのひとりです。
彼は眼科医で、ハンサムで控えめなドイツ人ですが、下手なテニスで有名でした。

この小さな寝室には、いつも朝食のワゴンが何台も運ばれていてドイツ語版のラジニーシタイムズの編集者たちも訪れていました。

彼らはマニーシャといっしょに、自分たちからの質問やほかのサニヤシンたちからの手紙や質問を処理しました。

部屋がいっぱいにならないかぎり、人々は歓迎され、講話のテープを聞きながらタイプ原稿の校正をするのを手伝わせてもらえました。

OSHOは2、3日休息しましたが、そのあとでも、前よりからだが弱っているように見えました。それはあとからわかったのですが、タリウムの毒による初期症状があらわれていたのです。

OSHOの眼科医のプレムダがドイツから呼ばれたのは、OSHOのまぶたのけいれん、外斜視、眼球の不規則運動、視覚筋肉の弱化、視力の減退などの症状があらわれていたからです。

プレムダがそれらの治療にあたりましたが、そうした症状の原因についてはまったく見当がつきませんでした。

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夜、OSHOはホテルのダンスホールで、報道関係者や訪問者を前にして講話をしました。
はじめのころ聴衆のほとんどはネパール人でしたが、日がたつにつれ、聴衆の服の色彩は、黒や灰色から、いろいろな色調のオレンジへと変わっていきました。

仏教僧がひとり講話を聞きにあらわれました。
小柄で頭を剃っていて、サフラン色の法衣をまとっています。

彼は前のほうの列に座りOSHOに質問をしました。OSHOはまずこのように言いました。
「ブッダ(覚者)になるのは美しいことだが、仏教徒になるのは醜いことだ」

この仏教僧はかなり手痛いことを言われていました。
それでも彼はつぎの晩も、そしてまたつぎの晩もやってきました。

私はそれに感服し、彼をほめたたえたい気分になりました。
実際彼は2、3週間にわたり、毎日講話にあらわれたのです。
ところがついにOSHOのもとに「これ以上講話に出ることを寺から禁じられました」という手紙が届きました。

毎朝、OSHOの居間ではひじょうに親密な雰囲気のなかで講話が行われました。
7年前にプーナを訪れて以来はじめてOSHOから遠くに離れるのを体験したばかりだったので、私は彼とともにいる一瞬一瞬を、とてつもない贈りものとして感じました。

あふれる愛、よろこび、そしてマスターとともに道を歩むと言う興奮のなかに私は生きていたのです。

真理の探究、もしくは人格に汚されていない内面の領域を探求することは、大いなる冒険です。私はそのことを学びはじめていました。

いかなる欲望もなく、なにかそれ以上のものを求める気持ちもなく人が完全にくつろげる境地というものがあります。

外側でなにが起きてもその充足感はかき乱されません。
そうした境地があることを私は疑いません。

私自身もそうした境地をかいま見たことがあります。
そして、OSHOのなかではそれが永続的な状態であることを見てきたからです

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)