ウルグァイってどこにあるかご存知ですか?
多くの国から入局拒否をされ、OSHOが向かった先はウルグァイでした。ギリシャのアテネを行き先もなく飛び立って2週間後のことです。訪問を予定していなかった国も含めて21カ国がOSHOの入国を拒否したのです。ウルグァイは南米の二番目に面積が小さい国で、ブラジルとアルゼンチンにはさまれ南は大西洋に面しています。iPhoneがある人はグーグルマップで確認してみてください。
首都はモンテビデオ。1520年にはマゼランがラ・プラタ川を遡上。その航海のなかで、現在のモンテビデオに当たる地域にあった140m程の小高い丘を見た時に発した「山を見たり!(Monte Vide Eu!)」というポルトガル語が首都の名前の由来であるという説があるんだそうです。(名前の由来については他の説もある)(ウィキペディア)
2、3年ごとにクーデターがあって秘密警察が力をふるい、尋問のために連行された人たちがしばしば行方不明になる国。そんな危険な臭いのする未知の国。そんな国しかOSHOを受け容れることができなかったのですが、そこでも3ヶ月後にはアメリカからウルグァイへの新規の貸付金と交換に、OSHOは追い出されることになります。
しかしOSHOはここで日に2回の講話を行ないました。そこでの講話は、アメリカなどでの講話とは趣がまったく異なり、少人数の人たちを相手にとても親密な雰囲気で話され、その内容もより深い、探究者に向けてのものでした。
ウルグァイでのOSHOについては、そこで話されたOSHOの講話を何回かのシリーズで紹介していくことになりますが、今回はウルグァイに到着したところからです。
アイルランドにいるときに、OSHOはひどくからだが弱り、部屋から外の廊下までも歩けないほどになったということです。すでにアメリカでの毒の影響がOSHOのからだを蝕みつつありました。
アイルランドに入国できたものの、ホテルに軟禁状態で、まわりは大変な状態にあったようでしたが、OSHOにとっては「快適で、自分の家にいるかのようだった」というのです。
これも「今ここにいる」っていうことなんでしょうか。
シュンニョは書いています。
「私がウルグアイに到着した日、OSHOはモンテビデオのホテルにいました。その日のうちに、私はOSHOの部屋を片付けに行きました。
OSHOは窓ぎわの椅子に座っていました。疲れているようです。デヴァラジの話では、アイルランドにいるときにOSHOはひどくからだが弱り、部屋から外の廊下までも歩けないほどになったそうです。
私は彼の足に触れ、喜びに満たされて座りました。私がからだの調子を尋ねると、彼は「大丈夫だ」という意味でうなずきました。OSHOのほうでは、例の事故から私が完全に回復したかどうかを知りたがっていました。
「オートバイででかけたのは愚かなことだったと知っていますが、あれは貴重な体験でした」と私は言いました。
OSHOはなにも言いません。私は彼に飲み水を渡し、それから部屋を片付けました。彼は静かに座っていました。その年の私たちは、OSHOのエンライトメント • デイを祝いませんでした。私が彼がカトマンドゥで言っていたことを思い出しました。特別な日はもういらない。これからは私たちは1年の毎日を祝うことにしよう、と言ったのです。
ホテルにはアナンド、ヴィヴェック、デヴァラジ、ジョン、ムクティ、ラフィアが泊まっていました。私が着くと、彼らはすぐにアイルランドであったことを話してくれました。
彼らはホテルに閉じ込められ、自分たちの部屋のある三階以外のどこにも出られませんでした。半強制的な軟禁状態です。彼らは一日じゅう、自分の部屋か友だちの部屋の壁を見てすごしました。(どの部屋の壁も同じに見えたといいます)
現地の警察はIRAがOSHOを狙っているという情報を受け取ったということで、ガードマンが1日24時間OSHOを警護していました。ホテルは携帯無線機からのささやき声と、マットレスでつくったバリケードでいっぱいになりました。
3週間後にOSHOがホテルを離れるとき、ホテルの従業員が別れのあいさつをしに訪れました。OSHOは支配人に「ホテルはとても快適で、まるで自分の家にいるようだった」と言いました。
ウルグアイに着いてから、OSHOは私たちにアイルランドのあのホテルに電話するように言いました。そこで出してもらったチャツネ(インド風の漬物)のつくり方を聞いてほしい、そして「あれはこれまで食べたなかでいちばんすばらしいチャツネだった」と伝えてほしいというのです」
「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)