マスターがいることの意味

最近では自分の人生のアドバイザーとして、メンターを持つといいと言われていますが、昔の禅の伝統では、禅の修行をするにあたって自分を指導してくれる師につくというのはとても大切なこととされていました。

自分の師(マスター)を求めて寺から寺へと尋ね歩くということもされていました。かの有名な禅師である白隠も、その修業時代に禅の魔境にはいり、病気にまでなってしまった体験を語っています。

瞑想の道では、目に見えない境地を扱うことになるので、現実なのか空想なのか、妄想なのかの区別がつかなくなってしまうことがあります。

無我の体験という本がありますが、そこでは瞑想をしていた普通の主婦だった人が突然「無我の境地」を体験してしまった時の体験が綴られています。

その境地は無我の境地を求めて瞑想している人とにとっては、うらやましい境地なのですが、そのことを知らない筆者にとって、それまでの自我が突然なくなってしまったので、とまどう体験でしかありませんでした。

筆者はクリスチャンでしたので、祈りについては知っていても、無我の境地については未知のことだったのです。悟りの境地になり得たものが、彼女に取ってはわけのわからない状態でしかなかったのでした。

そのような場合に、もし適切な瞑想の指導者やマスターがいれば、その自分の状態を理解し、瞑想をさらに深めていくことができたのですが、その当時の彼女には指導する人がいなかったため、わけのわからないまま、長年にわたって過ごさなければなりませんでした。

OSHOは多くの講話を語っていますが、そのような必要のある人たちに向けて、ありとあらゆるケースについての質問に答えています。

仏陀はこの世は幻想にすぎないと語っていました。
では、今私たちが現実だと思っていることと幻想(空想)との違いは何でしょうか?

シュンニョは、そのような自らの体験について語っています。

その何週間かにわたり、私はずっと現実と空想との違いを知ろうと試みていました。
現実と空想との違いについて、私はOSHOに4つか5つの質問をしました。

私はしだいに、自分の人生には現実のものなどなにもないように思えてきました。
私は何時間も浜辺を歩きながら、現実と空想との違いを理解しようと努力しました。
私がやっとそれを理解したのは、OSHOがこんなことを話したのを聞いたときです

「私はあなたがたに、ひとつのものともうひとつのものを区別するように言ったことはない・・・・・・
現実が変わることはけっしてないが、空想はそれを見ることで消えてゆく・・・・・・
両者が同時に存在することはないのだから、区別などという問題は生じない

そのころの私(シュンニョ)が身を焼くようにして答を求めたそうした疑問は、いまの私には無縁のものです。OSHOのおかげでそうした問題を理解できるようになったからでしょう。

もしもマスターがいなかったら、そうした実存的な苦悩のために発狂していたかもしれません。
生涯にわたり、ひとつの疑問に悩まされていたかもしれないのです

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)